わが子にASDの傾向を感じ、療育へ。普通になってほしいのではなく、子どもの個性にあった教育を探すため【小説家・山崎ナオコーラ】

近年ニュースやSNSなどで「発達障害」という言葉をよく目にするようになってきました。現在2人の子どもと暮らす小説家の山崎ナオコーラさんが発達障害や個性についてどのように感じているか、考えを聞きました。
ASDの傾向があると考えることでSOSを出しやすくなる
――山崎さんはお子さんが自閉スペクトラム症(ASD)の傾向があると考えるようになったということですが、お子さんの様子でどのようなことが気になっていましたか?
山崎さん(以下敬称略) 気になっていることはありませんでした。園の先生から指摘があったわけでもありません。ただ、私は、保育参観などで集団生活を垣間見て、子どもの個性を感じました。家ではのびのびしているのに集団の場へ行くとかたくなること、それが恥ずかしがり屋ともまた違うちょっと独特な感じであること…。私や少人数で過ごしているときの、あのきらきらした魅力、図鑑を見たり博物館へ行ったりして好奇心いっぱいの姿、絵が得意でおしゃべりが上手な輝く感じが、集団の中では、独特なコミュニケーションのせいで、消えてしまうみたいに見えました。もしも生まれつきの「コミュニケーション障害」のような個性を持っているのなら、私としては早めに認識して個性に合った教育を考えていきたい、と考えました。とはいえ、これは私個人の考えです。ご家庭によって、「個性の認識を急ぐ必要はない」という考え方も正解だと思います。あくまで私の場合の考え方、ということになります。
私がまず、集団生活にハードルを感じたのは、あいさつでした。言葉の発達はむしろ早いくらいに感じていました。それなのに、幼稚園などの集団の場ではあいさつをしません。不思議でした。また、体操やダンスの場でみんなと同じ動きをしたくないようでした。
――児童発達支援センターに相談に行かれたそうですが、行ってみようと思ったのはなぜですか?
山崎 相談ではなくて、診断と療育の申し込みをしたいと思ったんです。ただ、診断というのは病院でしかできないと言われました。そして、療育の申し込みに診断名は不必要とのことだったので、まずは療育の申し込みをした、という感じでした。
私は独身のころから発達障害などになんとなく興味があって、そういったことが書かれた本や記事を読みかじってきた知識がぼんやりあって、子どもの持つ傾向は「アスペルガー症候群」と呼ばれているものの症状に近いと感じていました。ただ、さらに調べると、昔は「コミュニケーションに障害があって、知的障害はない」という自閉スペクトラム症(ASD)のある人を呼んでいた「アスペルガー症候群」という言葉ですが、今は、ASDの傾向がある人を知的障害のあるなしで線引きをすることがなくなってあまり使われなくなり、また、ASDにはほかにもいろいろな症状があるのですが、それらいくつかの症状のあるなしも人によってさまざまみたいで、いろいろな傾向のある人を広く含めて、ASDという言葉が使われるようになっているみたいです。(2021年に、私が個人的に認識しているところでは…、の話ですが)。それと、今はASDは性格の延長線上にあるものと捉えられているようで、ASDの傾向がある人とない人(定型発達の人)との間に明確な線を引くこともしなくなってきているみたいです。こういう話は込み入っていてわかりにくくなってきますが(笑)、個人的に私が病院や児童発達支援センターに行って感じたのは、現場では診断名があまり重要視されていないのかな、ということでした。私の自治体では療育の申し込みに診断名は必要ありませんでしたし、私が行った病院ではASDの傾向があると診断名を一応書いてくださいましたが、診断名に対して何かをするという感じではなく、症状に対する対策を考えましょう、というような診療でした。要は、病気の検査のようにはっきりと調べることはできない、という性質のものなのかもしれません。線引きできるような違いはなくて、なだらかな違い、人間は多様で、ASDの傾向がある人も多様、といった感じですかね。
とはいえ、私はASDという言葉を得てよかったように思っています。
その理由の一つ目は、早期療育は効果が出やすいという文章をいくつか見たことです。言葉を得たことで、療育の申し込みなどの行動につながった気がします。
2つ目は、ASDの傾向がある人は青年期や大人になってから、学校や会社などで人間関係のつまずきが生じる可能性があり、その理由のわからなさから自信喪失をして、うつ病などの二次障害が起こったり、生きづらさを感じたりする場合があるらしいのです。ただ、本人がASDの傾向があることを自覚している場合は、自分の性格が悪いわけではなくて生来の症状が出ているのだということを理解したり、ほかのASDの傾向がある人たちが友人を作り仕事に就いているということを知ることができて、自信を失わないで済むかもしれません。また、行動の工夫、自分に合った思考方法を見つける、グッズの活用、といったことで、人間関係をうまく築くことができるかもしれません。自覚があった方が工夫したり自信を持ったりしやすいんじゃないかな、と私としては思っています。
――療育に通ってみて、息子さんや山崎さんに変化はありましたか?
山崎 まだ通い始めて1年もたっていないので、本人の変化を私は確認していません。ただ、親にとってはプラスになっているように感じています。「コミュニケーションの障害」って、あいさつができないなど、他者からは、「親のしつけの問題」に捉えられがちだと思います。その感じが、親にとっては厄介なんですよね(笑)。
これが、病院や療育機関に行くと、「しつけや育て方の問題ではなくて、生まれつきの個性なんですよ」となります。私が悪いのだろうから私を改めよう、という恐怖から抜け出せます。そして、親の問題だというおごった考えではだめだ、子どもの個性を尊重することが求められている立場なのだ、と親の本来の役目を自覚できます。
「しつけの問題」と見られるのではないか、親としてだめだと言われるのではないか、という恐れがある場合、相談などをしにくく感じますが、子どもの生まれつきの個性を尊重して愛しながらサポートをする立場なのだ、と考えると、人に話すハードルが下がりますし、今後何かあった場合にSOSを出しやすいかもしれません。
生きづらさを感じるのは個人でなく社会の問題
――最近、発達障害と診断される人が増えているといわれますが、山崎さんはどうしてだと思われますか?
山崎 最近は合理的配慮という言葉が広まってきましたよね。私の子ども時代には、みんなに同じ教育を施すのが平等で、全員一律のルールをしこうとか、すべての子どもに同じかかわり方をしよう、とされていたと思います。今はそれぞれの個性に合った教育をして、それぞれに合ったルール、1人1人違うルールで教育現場で指導していこうというのが広まっていると感じます。そのおかげで、子どもそれぞれの個性を知るために発達障害の診断を仰ぐ人が増えたんじゃないかな、などと考えています。
よくいわれているように、発達障害のある人が増えたのではなくて、診断をされる人が増えたのでしょう。私はそれはいいことだと思っています。たとえば私の家にいる5才の子どもはヴィジュアルを認識する力が強く、絵や写真でのコミュニケーションが得意なんです。それを先生に伝えれば、かかわり方を考えてくれることもあります。子どもの個性を知るのは教育のしやすさや、子どもがのびのび育っていくことにつながる気がします。
――ご著書の『ブスの自信の持ち方』に「容姿によって生きづらさが生じるのは、本人の問題ではなく、社会の問題だ」と書かれていました。これは発達障害のある人にも同じことがいるかもしれない、と感じましたが、山崎さんの考えを教えてください。
山崎 たとえば私の家にいる子どもが今後苦労しそうなこと第一位は「あいさつができないこと」なんじゃないかと現時点での私は予想しているんですけど、それは、現状の社会は、あいさつができる多数派の人によって回されているからです。「全員が同じ言葉で同じタイミングでするのがマナー」というあいさつが浸透していると思います。多数派の人にとって、むずかしくないことだからでしょう。でも、実際にはあいさつが得意じゃない人、うまくやれない人も社会にはいるわけです。現時点では、いないことにされているんでしょうね。でも、今後、成熟した社会がやってきて、個性的なあいさつでも通じるようになったり、その人らしいあいさつを見つけられるようになったり、多様性が認められるようになれば、「みんなと同じあいさつができない」は決定的な欠点ではなくなるかもしれません。
多数派にとって過ごしやすいシステムで社会が回っているから、そこに合わせなくちゃいけない、というところで苦しむ少数派がどうしても出てきてしまうのが現代社会だと思うんです。発達障害のある人が生きにくいとしたら、それは社会の問題で、個人ではどうしようもないところというのはあると思います。
本人の個性に合った教育を見つけたい
――発達障害のある子やさまざまな個性を持つ子が生きやすくなるために、社会がどのように変わっていく必要があると考えますか?
山崎 療育に通っているというと、ほかの子と同じような成長ができるようにやっていると誤解されがちな気がしますが、普通になるように治したい、困っているから助けてほしい、ではなくて、本人の個性に合った教育を見つけたい、と思っています。正直なところ、本人にも私にも、気になるところがあるとか、困っていることがあるとか、そういうのはないんです。個性を大事にして教育を受けたり仕事をしたりしたくて、それを求めて動いている感じです。そこがなかなか伝わりにくいところですが…身体障害・知的障害・発達障害などさまざまな障害を持つ人も、持たない人も、それぞれの個性を尊重していける社会になったらいいなと思います。
――お子さんたちの個性と向き合う中で、山崎さん自身の考え方が大きく変わったことはありますか?
山崎 もともと私は成果主義というか、努力して成功するのが好きなタイプでした。でも2人の子どもと向き合ってみると、子どもの生まれつきの個性ってすごく大きいなと感じます。2才の子どもは5才の子どもとはまったく違うタイプで、だれにでもあいさつして、いろんな人とかかわろうとして、全然キャラが違うんです。2人を育ててみて、子育てって、努力でどうこうするとか、親のしつけで変えていく、といったことよりも、本人が持つ性質に敬意を払い、個性を尊重しながら、社会とかかわっていくサポートをすることなんだな、と勉強になりました。
同時に、努力・成功だけが人生ではなくて、自分の個性を大事にして、自分の生きる道を見つけていくのが人生なのだろうなということで、自分の人生も省みました。私は以前はすごい文学者になって、賞をもらって…という作家人生を夢見ていたんですけど(笑)、子育てしている中で「そうじゃない」と。
社会の中で認められるような成功を求めるのではなく、私らしさを求めるのが人生なんだ、自分らしい“作家の道”を見つけなくてはいけない、と考えが変わってきました。
お話/山崎ナオコーラさん 取材・文/早川奈緒子、ひよこクラブ編集部
集団健康診断や、保育園・幼稚園の集団生活などでほかの子どもの成長を目にすると、わが子の成長度合いが心配になったり、ついほかの子と比べてしまったりすることもあります。でも私たちが親としてできることは、わが子の個性を見つめ、その子自身の成長を見守ることなのかもしれません。
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山崎ナオコーラさん(やまざきなおこーら)
PROIFILE
1978年福岡県生まれ。2004年『人のセックスを笑うな』で文藝賞を受賞し、デビュー。小説に『美しい距離』『リボンの男』、エッセイに『かわいい夫』『母ではなくて、親になる』『むしろ、考える家事』など。
『ミルクとコロナ』(河出書房新社)
『野ブタ。をプロデュース』の白岩玄と『人のセックスを笑うな』の山崎ナオコーラ。ともに20代で文藝賞を同時受賞して作家になり、現在二児の親でもある二人が、手紙をやりとりするように綴る、子育て考察エッセイ!