巨大地震と停電。そのとき、体外受精の現場は? ~3.11 を経験した不妊治療クリニックに聞く~
2011年3月11日に発生した東日本大震災。マグニチュード9.0、最大震度7を記録したこの巨大地震は「3.11」として今も私たちに防災の大切さを伝え続けています。
災害が発生したとき、卵子・精子や受精卵を扱う不妊治療の現場では何が起きるのでしょうか。
3.11の震災を経験して、その経験から不妊治療施設の防災について改良を重ねてきているのが、京野アートクリニックの院長・京野廣一先生です。京野先生に出産ジャーナリストの河合蘭さんが話を聞きました。
胚移植はすべてキャンセル
――京野先生のクリニックは、今は東京にも複数ありますが、もともとは仙台、盛岡にあり、東北地域の代表的な不妊治療専門クリニックです。東北は体外受精が可能な医療施設が少ないのでたくさんの夫婦が来院していたと思うのですが、地震が発生したとき、京野先生はどこにいらっしゃいましたか。
京野先生(以下敬称略) 私は、京野アートクリニック仙台の理事長室に1人でいました。20階建てのビルの5階です。地震発生が午後2時46分で、そのときは立っていられる状態ではなく、ドアを開けて柱につかまって踏ん張っていました。私のクリニックでは毎日午後3時から受精卵(胚)を子宮に戻す「胚移植」が始まるのです。ですから、3階にある診察室へ降りようとした、まさにそのタイミングで地震が発生しました。
揺れが収まってから、エレベーターは動かないので階段で階下に降りました。するとあたり一帯、停電して暗いですし、落ちてきた書類などが散らかって騒然としたありさまでした。
その日、胚移植をすることになっていた患者さんたちは、もう、術衣に着替えてスタンバイしていたのです。しかし、培養室は自家発電で使用できたものの、電子カルテ類のサーバーを含む電子機器が停電で使えなくなってしまったので、看護師がご説明して、胚移植はできないままお帰りいただくことになりました。患者さんたちは、その胚移植の日のために、子宮内膜を厚くする薬を半月間使い続け準備してきたのに、たいへん申し訳ないことをしました。
電車が止まり、車で来た方も立体駐車場は動かせなくなりましたので、帰りの足がない患者さんたちが出ました。そうした方には、自治体が帰宅困難者の受け入れ先を整え始めたことを案内して、そちらに行っていただきました。
――子宮に戻す胚も、すでに融解してあり、準備が終わっていたのでしょうか。
京野 そうなのです。子宮に戻す胚も、融解が終わっていました。しかしキャンセルになったので、それらはすべて再び凍結しました。
再凍結については、凍結と融解を繰り返して胚の変化を調べる研究があり、一定の回数までは大丈夫だとわかっています。もちろん、再凍結はしないに越したことはありません。ただ、ほかに選択肢がなかったので、納得していただくしかありませんでした。
培養室の卵子や精子、受精卵は守られた
――培養室では、凍結胚や卵子、精子への被害はありましたか。
京野 幸い、そこには被害はありませんでした。仙台は、もともと地震が多い所で震度5程度のものはよくありました。ですから戸棚などは床に固定してありましたし、とくに培養室でお預かりしている胚や卵子、精子を守るための防災には気をつけていたのでうまく行ったと思います。
凍結胚などを保管するタンクは、当院では車輪をつけて動くようにした上で、スポンジを取り付けた壁で囲んであります。高層ビルの耐震構造と同じ理屈で、ゆらゆらと動くことができるほうが揺れによるダメージが少ないと考えたのです。
培養室が災害にどんなふうに備えなければならないかという規定は、国にも学会にもありません。ですからこれは自己流の工夫なのですが、やっておいてよかったと思いました。
でも診療エリアの備えは、今考えると不足していました。いちばん困ったのは停電です。自家発電機が地震発生後すみやかに作動したのですが、それが培養室と手術室しかカバーしていませんでした。
――自家発電機は、燃料の確保に苦労するとよく聞きます。
京野 当院でも、そこにいちばん苦労しました。自家発電の燃料は軽油なんですが、満タンにしてもすぐになくなってしまいます。さらに、ビルの規定で軽油の備蓄が禁じられていたので、スタッフが数人専任になり、街中のガソリンスタンドを回って軽油を探し続けました。
そうやって確保した電力で、当日の午前に採卵した卵子と、凍結する予定だった胚を無事に凍結することができました。
――最終的に、電力はたりたのでしょうか。
京野 はい。凍結が必要な卵子や胚をすべて凍結し、培養器が空になったところで私たちは、培養器の電源を落としました。停電が長引くこともあり得ると考えたので、電力を節約することにしたのです。幸い凍結タンクは電源を必要とせず、ドアを開けない限り、中の環境は一定時間保つことができる作りになっています。
やがて、自家発電は燃料が底をつき、地震発生翌日の夜、完全に切れてしまいました。そして、その3時間後、待望の電気が復旧しました。地震発生から30時間後のことでした。自家発電と、燃料の備蓄の重要性は身にしみましたので、今ではこうした点は改善しています。
――余震も、たくさんありました。
京野 余震は、4月のはじめにいちばん強いものがありました。そのときは、再び長い停電があって、やはり軽油は入手困難で2回目の電気切れが起きました。停電には備えていたつもりでしたが、強い余震が続くということや、停電が長期にわたって復旧の見通しも立たないという事態は想像していなかったことに気づかされました。2回目の停電は8時間で復旧し、最初の30時間に比べればだいぶ短かかったことは幸いでした。
地震発生直後の余震も、かなり強く、ひっきりなしに襲ってきました。そんな中で、16人分の胚を緊急凍結しました。暖房の止まった院内は凍えるほど寒くて、そして雪まで降り出したのを覚えています。
でも、そんな「ピンチ」の中で凍結した胚の中には、頑張りが実って出産に至ったものもあります。
被災しても、患者さんたちは産みたいと思い続けた
――患者さんは、震災の直後でも来られたのでしょうか。
京野 私は、地震発生の当日は夜中に自宅へ帰り、短時間の休息をとってから翌朝クリニックに行ったのですが、そこに、もう患者さんがお見えになっているんですよ。私たちから休診を知らせる手段がなかったので来られたのでしょうが、それにしても巨大地震の翌日のことです。来られた方には、紙のカルテや、患者さんがご自身で紙に記録している基礎体温表などを頼りにできる範囲で対応しました。患者さんたちの妊娠への期待を考えると、長く休んではいけないと考え、診療の再開を急ぎたいと感じました。
もちろん、さまざまな事情から来られなくなった方もいました。ガソリンの購入も制限がありましたし、高速道路も最初は自衛隊などの特別な車両が優先で、一般の人が使えるようになったのはしばらくたってからです。でも私たちは震災を通じて、患者さんたちが不妊治療を大切なことだと考えていることがよくわかりました。
――京野先生のクリニックは広い範囲から患者さんが来られているので、津波の被害が大きかった地域の方も来られていたことと思います。
京野 はい、患者さんの中には、沿岸部のほうから通っている方もたくさんいらっしゃいました。当院で不妊治療をして妊娠した赤ちゃんを、津波で亡くされてしまった方もいます。そうした悲しみの中で、次のお子さんを授かることに希望を託して受診される方もいらっしゃいました。
――たくさんの命が失われてしまったときだからこそ、命の尊さ、生き続けることの大切さを感じ、妊娠への思いが強くなるのも災害の一面なのかもしれません。
京野 そうした面はあったと思います。その気持ちを受け止めるためにも、私たち不妊治療施設はしっかりと備えをしておくことが大切です。私たちが東日本大震災で気がついて、改善したことは、学会などでも報告してきました。
――最後に京野先生が考える防災のポイントを教えてください。
京野 私たちが改善したことは多岐にわたりますが、ポイントは備蓄の余裕と分散です。自家発電やその燃料の備蓄をはじめ、食料、水などなんでも余裕をもって準備しておくことが大切です。
そして、1カ所ではなく複数の場所に分散して保管しておくことも重要です。今、当院は、東京と盛岡、仙台に分散して治療の資材や食料品を備蓄しています。東日本大震災では胚を育てる培養液がたりなくなり、神戸、神奈川など遠方の不妊治療クリニックに助けてもらったこともありました。そのときのことは、今も感謝しています。
災害があっても、預かった命を守るために
京野先生は現在、卵子を卵巣ごと凍結しておく卵巣凍結にも取り組み、専用施設も建設しました。その用地に選んだのは、岩盤が硬い、高台。京野先生の防災を重視するポリシーには、今も東日本大震災の経験が生きていきます。
取材・文/河合 蘭 構成/たまひよONLINE編集部
不妊治療の保険適用、東京都が開始した卵子凍結への助成などで、これからは卵子や精子、受精卵を扱う医療施設が増えそうです。妊娠を願う人がどの施設にも安心して卵子や受精卵を託せるように、その防災対策は、もっと注目されるべきかもしれません。
●記事の内容は2024年3月4日の情報で、現在と異なる場合があります。