「この病気で10歳まで生きられた子はいない」と言われた息子は18歳に。退行が進みながらも懸命に生きるわが子の姿に芽生えた母の決意【難病アレキサンダー病・体験談】
石川県に暮らす中村太一さん(18歳)は生後11カ月からけいれん発作を繰り返し、3歳6カ月のときに「アレキサンダー病」と診断されました。「アレキサンダー病」とは日本に50名ほどしかいないといわれる希少難病で、遺伝子の変異により脳が萎縮し、けいれんをはじめ知能や運動に遅れが見られる病気です。7歳のとき激しいけいれんによる急性脳症にかかった太一くんでしたが、10歳を迎えることができました。太一くんの母・優子さん(54歳)に、10歳から現在までの道のりを振り返ってもらい、これからの夢、希望についても聞きました。全3回のインタビューの最終回です。
「10歳まで生きられた子はいない」と言われて迎えた10歳の誕生日
3歳6カ月のとき、医師から「乳幼児期にアレキサンダー病にかかった子で10歳まで生きられた例はない」と宣告された優子さん。しかし、太一くんは10歳の誕生日を家族や大好きな人たちと祝いました。
「10歳まではただひたすら、その年齢を超えさせてみる!と頑張ってきました。でも10歳を超えてからは“生きること”以外にも、欲を出したいと思いました。次の目標は成人式を笑顔で迎える、ということでした」(優子さん)
小学校では何事も明るく前向きに頑張り、先生からも「いやしキャラ」と言われ、たくさんの人にかわいがられていたという太一くん。
「ゆっくりではありましたが、出来ることも増え、危なっかしいながらも毎日歩いて小学校に登校していました。学校で行われる持久走大会や運動会なども、いつも最下位ではあったもののやりきっていました。
親に似ず、本当にすごい子だなと思いました」(優子さん)
精いっぱい毎日を生きる太一くんに優子さんもパパも生きる力をもらっていたのです。
穏やかな日々が続いていた11歳のころ。起きてしまった2度目の急性脳症
8歳の秋から12歳の冬までの約2年半は、それまでは月に1回はあったけいれんもなく、月例の健診だけで済んでいたといいます。
「3歳からの主治医である大月先生の月例健診時に、『けいれんの薬、もういらないかも?』なんて相談をしたくらい太一の状態は安定していました。なので、この時期はスキー合宿に参加するなど、チャレンジできるものはなんでもしていました」(優子さん)
そんな穏やかな日々が一変したのは太一くんが5年生、3学期もそろそろ終わりというときでした。学校から太一が発熱したと電話がありました。すぐに迎えに行って受診したもののけいれんがなかったので、家で様子を見ることに。
「そのとき太一は『びょういんいく、びょういんいく』と繰り返し言っていました。でも、熱はあるけれど食事も水分もとれていたので救急車などを呼ぶこともなく、自宅で様子を見ていました」(優子さん)
翌日、優子さんは夫に太一くんを任せて仕事に出かけます。仕事が終わったころ、夫から電話がありました。
「太一がけいれんしていると言うんです。救急車を呼んで搬送されることになりました。私は仕事から搬送された大学病院に直行することに・・・。急いで向かうとまだけいれんがおさまっていませんでした。
その後は7歳のときの急性脳症と同じように薬で止めてはまたけいれん、薬で止めてはけいれんを繰り返し、合計すると40時間ほどはけいれんしていたと思います。
けいれんは2年半ぶりでした。7歳のときの急性脳症と同じ流れでしたが、違ったのはMRIの『脳の白い影』が消えなかったことでした」(優子さん)
大学病院の医師からは、前回のようにもとに戻るということはないかもしれない、と告げられました。
「それはつまり、後遺症が残るということでした。左半身は動かず、顔もひきつれたままでした。
その後、熱が下がったため転院し、リハビリをすることになりました。そのときはまだ、『リハビリを頑張れば、元に戻る』という希望をもっていました。
そして、1カ月ほどたったころからは、午前中は学校に登校し、午後はリハビリと入院しながら学校に通いました。
周囲と関係を持たないビニールハウスのような環境で育てるより、太陽の下で経験を積むことを選んだのだから、感染症などのリスクもあることを覚悟はしていました。しかし大きすぎる代償を受け、『アレキサンダー病』というだけで十分ではないのか、とくやしくて、くやしくてたまりませんでした・・・。
中学入学へ向けて、あとは、トイレのときおしりを自分でふけることが課題、というところまでいっていたのに、成長はマイナスになってしまいました」(優子さん)
転院してから5カ月間、太一くんは懸命にリハビリに取り組みました。しかし左半身のまひは治らないまま退院することに。障害者手帳は3級から1級になりました。
左半身まひを残したまま、車いすの生活に
退院後は、これまでの生活から一変してしまいました。
「太一は台所に来るのが好きで、料理をしたがったり、プラレールで遊んだりしていました。好きなことができなくなり、にぎやかだったわが家が静かになっていきました」(優子さん)
太一くんはその後小学校を卒業。中学校も、小学校と同じく特別支援学校ではなく地域の学校を選びました。
「地域の中学校を選んだのは、親のわがままだったのかもしれません。車いすのまま修学旅行にも行きました。車いすに乗る太一しか知らない先生に、昔はこんなことができた、前はこうだったと伝えても何の意味もないこととわかってはいましたが・・・。
まだこのときはリハビリを続ければ元に戻るという希望を持っていました。いえ、今も“障害児”という現実を受け入れられていないかもしれません」(優子さん)
何よりつらいのは感情が年々乏しくなっていくこと
体が不自由になってしまったのはもちろんですが、優子さんにとってつらいのは、年を追うごとに感情の表現が乏しく、寡黙になっていく太一くんを見ることでした。
「急性脳症になる直前までは『ママー』と甘えてきたりイヤイヤしたりと感情がとても豊かな子でした。とくに中学校に入学してからは感情が以前よりも豊かではなくなっているように見えました。もしかして思春期だから?と大月先生に聞くと『脳の萎縮がゆっくりと進行しているので、思春期のためだけとは言えない』と説明されてしまいました。
まわりの同年代の子の反抗期の話を聞いては、私もくそばばぁとか息子に言われて、そんな息子をシバく母になりたい、とよく思っていたのに・・・」(優子さん)
車いすの生活で宿泊行事や運動会など中学校生活を経験した太一くん。
中3の冬には、特別支援学校の高等部への進学を決めました。いくつか学校を見学しましたが、「介護を受ける」施設ではなく、「学校らしい」雰囲気を持つ施設を選んだそうです。
車いす生活で筋力が低下し、背中が急激に曲がる側弯症に
特別支援学校の高等部の新入生は太一くん1人でした。学校は手厚く、一人一人にしっかり対応してくれたと言います。
「しかし、このころから太一は側弯症(そくわんしょう)にもなってしまいました。成長期に骨が成長しているにもかかわらず車いすの生活によって筋力が低下していることが原因のようです。
これまで、何度もけいれんを起こしてきて心臓が止まるような思いを何度もしてきましたが、元に戻りました。後遺症が残ると言われても、突然元に戻るかもしれない、とリハビリを続けてきました。
でも、大きく曲がってしまった背中は元に戻らない・・・その姿を見るのが、本当に何よりもつらいです」(優子さん)
特別支援の高校で3年間を送り、卒業と同時に、11年間お世話になったデイサービスの施設も終了することになりました。
高校の卒業とデイサービスの終了はまさに子ども時代の卒業でした。
高校卒業後、これまでの頑張りが分断された「18歳の壁」
高校を卒業してからは3つの介護事業所に通所している太一さん。優子さんは高校卒業後の太一さんを見ながら、いろいろなことが立ち止まっているように感じているそうです。
「高校卒業後、それまで親子で築いてきたものが突然18歳でプツッと切れ、それから先の場所につながっていない、と感じています。これからはエンドレスで、本当はこれからが大切なのに・・・。
保育園、小学校、中学校のときは太一が普通に社会で生活できるようにと、無我夢中に行動をして多少なりとも太一の周囲の環境を変えてきました。
それなのに今はいろいろなことが限られ、できていたことができなくなってしまっています。
生活介護事業所は、そのやり方でずっとやってきているので、事業所が悪いということではないし、もちろん感謝しています。でも、あまりにも、今まで頑張って取り組んできたことが活かされていないと感じています」(優子さん)
生活介護事業所では、たくさんの入所者に少ないスタッフで対応しなければならず、日中なのにパジャマみたいな格好だったり、よだれが出ていてもなかなかふいてもらえずなかったり、だれかに気づいてもらえないと水も飲めなかったり・・・という状態、状況。そんな様子を優子さんも目の当たりにしていると言います。
「通所施設などでの、スタッフとの1日約6時間のうち、一対一でかかわる平均時間は8分といわれています。重度障害があって動けない人は、だれかが来てくれるまで待つのが当たり前になっているのです。
そして、問題なのがそんな状況が当たり前であり、何の疑問も持たれないことにあると思います」(優子さん)
障害や病気を持つ人と社会との見えない壁をなくしたい
そんな「18歳の壁」にぶち当たり、気力を失いかけていた優子さん。そんなとき声をかけてくれたのが東京から娘の小児がんの治療に来ていたママでした。
「難病を抱える子どもを育て、同じ未来をめざす親たちはつながっています。病気は違っても、発信する場所になればと体験談を公開することをすすめてくれたのです。
同じアレキサンダー病を持つママとも交流していますが、みんな、医師からは長く生きられないと説明をされています。そんななかママたちは、18歳まで成長した太一を見て、『頑張れる』と言ってくれています。10歳まで生きられないと言われた太一、10歳を超えたときから成人式を目標としてきましたが、ついに来年です」(優子さん)
病気や障害を持つ子の親が必ずぶち当たるのは「18歳の壁」だけではありません。将来訪れる「自分たちが亡きあとの生活」です。
「老いていく自分と、置いていけない息子への未来。希望を持てない将来への不安に押しつぶされそうになります。
親亡きあと、せめて、雨風しのげて、空腹にならないためには、既存の施設への入所という手段しか今はありません。でも、今の太一を見る限りそれが本人にとって幸せかどうか・・・。
もっと安心して過ごせる場所を、と自治体にかけあってみても障害者に対しては興味が薄いのか、自治体側も人手がたりないのか、状況はなかなか変わらないのが現状です。しかし、そこから動かないと何も変わりません。
生活介護事業所に通うようになった太一は、車いすで過ごす時間が増え、日に日に筋力が落ちていき、感情もなくなっていっているように思います。そんな様子を見ると、自分の無力感に落ち込み、絶望で涙が止まらない日もあります」(優子さん)
そして今、優子さんは「重度障害や病気を持っていても安心して過ごせる就労支援施設」の設立をめざし、太一くんが25歳になるまで、あと7年ほどかけて現状を変えていくことを決意したと言います。
「同じような状況の家族を見ると、見てもらっているのだからしかたがないと、今の事業所の利用のしかたや、過ごし方に対して感じていることやさまざまな思いはあるものの、あきらめつつふたをしているような状態に見えます。まずはそこから変えることが必要じゃないかと感じています。
生まれてくるのは平等なのに、病気や障害をもった子どもと家族は、生きていくために声をあげなければ“普通”とかいう生活が手に入りません。これまで学校、病院と一つ一つ声に出して変えてきました。大変じゃなかったとは言えません。とても大変でしたが、“普通”を手に入れるために、私たちの話を聞いてもらえる場所、障害がある子どもの親たちが要望を伝えることができる場所と機会を作っていくことが大切じゃないかと思っています。
18歳の壁だけでなく、病気や障害をもっと子どもと家族と社会には見えない壁があると思います。それでも私たちは社会とつながり、壁を少しでもなくしてだれもが安心して生きられる場所を作っていきたいと思うのです」(優子さん)
【大月先生より】退行が進みながらも懸命に生きる太一くんの笑顔にいやされています
太一さんは、アレキサンダー病による退行(できていたことがだんだんできなくなっていく)症状があり、けいれん重積発作や脳症による後遺症を抱えながら、家族やまわりの人たちに支えられて日々の生活を送っています。私は医療的な立場でかかわってきている一人として、毎回「こんにちは~」と診察室に入るとき笑顔で挨拶をしてくれる太一さんと向き合い続けています。
お話・写真提供/中村優子さん 監修/大月哲夫先生 取材・文/岩﨑緑、たまひよONLINE編集部
「街中にいて太一を好奇の目で見る人はいても、話しかけてくれる人はなかなかいません。気軽に話しかけてくれればうれしい」と、優子さんは言います。太一くんは人とかかわるのが大好きだからです。病気や障害を持つ人の家族は本人を社会から離すケースもあるといわれます。中村さんファミリーは障害をオープンにしながら、社会に働きかけ、切りひらいてきました。これからも優子さんは声を出し続けていきます。
「たまひよ 家族を考える」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることを目指してさまざまな課題を取材し、発信していきます。
監修/大月哲夫先生(おおつきあきお)
PROFILE
小松市民病院 小児科担当部長。小児科専門医。2007年から現職。
●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●記事の内容は2023年9月の情報であり、現在と異なる場合があります。