「突然、目がグルグル震えだし」、難病ミトコンドリア病と診断。ネットには「10歳まで生きられない」の言葉が【体験談】
板橋区に暮らす坂井真希子さん(42歳)は、夫と一男二女、実母の6人家族。長女の美音ちゃん(13歳)は1歳5カ月のころに「ミトコンドリア病リー脳症」という難病と診断されました。ミトコンドリア病は細胞にあるミトコンドリアの働きが低下することが原因で起こる病気で、いまだに有効な治療法のない難病です。発症当時の美音ちゃんの症状や、病気と向き合う真希子さんの思いについて話を聞きました。
生後3カ月から発達の様子が気になり始め・・・
結婚と同時に真希子さんの妊娠がわかったのは2010年ごろのこと。妊娠中の経過は順調でしたが、いざ陣痛が始まってもなかなか子宮口が開かず、2日間の難産の末にやっと赤ちゃんが誕生しました。
「生まれたときの美音はよく泣くとっても元気な子で、助産師さんたちに『元気がいいから将来は体操選手かな?』なんて言われるほどでした。とにかくかわいくてたまらず、こんなにいとおしいと思える存在に出会えたことに感動しました。
私はピアノ、夫はギターと2人とも音楽が趣味なので、妊娠中から“音”がつく名前にしたいね、と話していました。美しい音のようにだれかを幸せにしてほしい、美しい音楽に彩られるようなすばらしい人生になるように、と二つの願いをこめて“美音(みおん)”と名づけました」(真希子さん)
生まれて数カ月たったころ、真希子さんは美音ちゃんの発達に不安を感じ始めました。
「3カ月を過ぎたころ、首がなかなかしっかりしてこない、首のすわりが弱いような感じが気になり始めました。生後6カ月のころには体重の増えが悪くなったので小児科を受診しましたが原因はわかりません。栄養が不足しているのかと、離乳食を工夫したり、毎日のように児童館に連れて行って同年代の子と接するようにもしていました。美音と同じ月齢のほかの子の成長具合を見ると、やっぱり何かが違うと不安に思っていました。
そこで、区の育児相談に行ってみたところ、やはり発達が遅いので一度検査をしましょう、と大学病院の小児科の先生を紹介してもらうことになりました」(真希子さん)
入院して検査をした結果「頭が小さいので小頭症気味」との診断。しかしそれ以外の異常は見つからなかったため、自宅で経過観察することに。
「そのころの美音は寝返りはできましたが、生後10カ月を過ぎてもおすわりはできませんでした。体重の増えもよくなかったので、鼻から胃にチューブを入れる『経鼻経管栄養』という方法を採ることになりました。ゼリーなどの飲み込みやすいものは口から食べられていましたが、成長に必要な栄養は、朝晩に1時間かけて人工乳の注入をしていました。しかし、注入したものも吐き戻してしまったりするから目が離せない状況でした」(真希子さん)
治療法がないミトコンドリア病のリー脳症と判明
自宅で美音ちゃんのケアをしながら過ごしていた真希子さん。美音ちゃんが1歳5カ月になるころには第2子の長男も生まれ、2人の育児をする忙しい日々が続いていました。
そんなある日のこと、美音ちゃんの目の動きに異常があることに気がつきました。
「美音の黒目がブルブルとこまかく揺れていることに気がつきました。すぐに大学病院でMRI検査をすることに。その結果、主治医から『脳にミトコンドリア病特有の病変が出ている。ミトコンドリア病にはさまざまな病状があるが、そのうちのリー脳症です』と病名を告げられました。『ミトコンドリア病』も『リー脳症』も初めて聞く言葉でした。
私は美音が3カ月のころから発達の遅さや表情の乏しさに悩んでいたので、病気だとわかったならやっと治療ができる!治療をすればきっと元気になる!と待っていた光がやっと見えた気がしました。しかし、診断と同時に医師から告げられたのは『今の医学では治療法のない難病です』との言葉。治すことができないなんて・・・あまりのショックに受診の帰り道に貧血を起こしたことを覚えています」(真希子さん)
ミトコンドリアは全身の細胞の中にあって、エネルギーを産生するはたらきを持っています。先天性のDNAの変異が主な原因になり、そのミトコンドリアの働きが低下することでおこる病気がミトコンドリア病と呼ばれています。
どの場所の細胞の働きが低下するかによって症状はさまざまです。脳の神経細胞であれば、見たり、聞いたり、物事を理解したりすることが難しくなります。心臓の細胞であれば、血液を全身に送ることができなくなります。筋肉の細胞なら、運動がしにくくなったり疲れやすくなったりします。ミトコンドリア病は今のところ治す薬も治療法もない難病に指定され、日本では約5000人に 1人の割合で突然発症すると言われます。
美音ちゃんが診断された「リー脳症」は乳幼児期に発症する特徴があり、運動発達の遅れがあったり、それまでできていたことができなくなったりする進行性の病気で、発症後に数年で死亡することもあるそうです。
「医師からは『ミトコンドリア病は症状が人それぞれだから、あんまりインターネットで調べないほうがいい』と言われました。そうは言われたもののやはり気になって、その日からはひたすらネット検索の日々。同じ病気でも歩ける子もいれば、寝たきりの子もいるようでした。
『予後不良』『10歳まで生きられない』という情報ばかり目につきます。医師の診断を信じたくない気持ちが募る反面、海外へ行けば治せるんじゃないかとわらにもすがる思いで情報を探しました。私のせいで美音に重い病を背負わせてしまった、と自分を責め続ける日々でした」(真希子さん)
東日本大震災を経験し、何があってもこの子を守ろうと決心した
2011年3月9日に美音ちゃんの「ミトコンドリア病」との診断を受けた真希子さん。近所の元気な子どもの姿を見ることも、子どもが出ているCMを見ることさえできないほどつらい気持ちでした。美音ちゃんが難病である現実を受け止められず、セカンドオピニオンを受けようかとも考え始めた矢先のこと。3月11日に東日本大震災が起こりました。
「テレビに映される、津波で家族や自宅や思い出の品々を流されてしまった人たちが『絶望の中それでも明日は来るのだ』と話す姿に励まされました。想像もできない大変な状況の中にいる人たちが前を向いて生きようとしているのを見て、自分の悩みはずっと小さいことだと思い始めました。
美音が病名を告げられたあとに、皮膚の一部を採取して検査をする専門病院に入院したときのこと。ベッドに寝ている美音の小さな後ろ姿を見て、決心がつきました。
『美音は生きている。この命を私が勝手にあきらめて、希望を捨ててはいけない。この先どんなことがあっても絶対に守っていこう』と決めた瞬間でした。主治医の先生は美音の病気を発見して守ろうとしてくれているのだから、先生を信じようと思い直しました」(真希子さん)
病気が進行し、谷底に突き落とされるような絶望感
真希子さんは、自宅でずっと美音ちゃんのそばに付き添い、ケアを続けました。
「とにかく美音の病気を進行させないようにしなければという思いで必死でした。病気がわかるまで通っていた児童館にも、感染症を引き金に病気の進行が進むと説明を受けてからは行かなくなりました。そのころはまだ美音は体を動かせていたので、外気に触れさせようと美音をベビーカーに乗せ、生まれたばかりの長男を抱っこして、家の近所を散歩することもありました。人のいない時間を選んで公園へ行って、すべり台で美音を支えてすべらせてあげたり。1歳7カ月くらいのころはそんなふうに過ごしていました」(真希子さん)
そんな中、美音ちゃんが1歳10カ月のころに病状が急激に進行する事態が起きてしまいます。
「夫と美音と長男の家族4人で静岡へ旅行に行ったときのことです。出発の前日に美音が嘔吐したので主治医に相談したところ『大丈夫でしょう、行っておいで』と言ってもらえ、少し心配でしたが旅行に行くことに。でも、おしっこの量が少なくて、体温もいつもより少し低い、元気もない気がしました。夜にはいつも体が震えるような発作が出るはずが、その日は出ませんでした。
美音の様子が気になって、横になりながら美音の寝息に聞き耳を立てていると、呼吸の回数が少ないことに気がつきました。あわてて電気をつけて美音の顔を見ると、顔色は真っ青。すぐに救急車を呼んで、近くの市民病院に搬送されることに。美音は呼吸不全を起こしていたのです。
市民病院で挿管してもらいましたが、そこには小児用の呼吸器がないため、すぐに静岡県立こども病院に搬送されました。あまりのできごとに生きた心地がしませんでした」(真希子さん)
その夜は真希子さん夫婦はこども病院に滞在し、当時5カ月だった長男は真希子さんの弟が静岡まで迎えにきてくれました。翌日、夫婦は車で都内に戻り、美音ちゃんは消防防災ヘリコプターでかかりつけの日本大学板橋病院へ送ってもらうことになりました。
「主治医には、夜中に美音の呼吸の異変に気づかなかったら、朝には心臓が止まっていただろうと言われました。あのとき気がついて本当によかったです。美音は一時は自発呼吸に戻ったものの、また呼吸不全を起こしてしまったため、1歳11カ月のときに気管切開手術を行い、人工呼吸器で24時間呼吸のサポートを開始することになりました」(真希子さん)
美音ちゃんは3歳ごろまで病院で過ごしたあと、状態が安定したために退院して在宅医療を受けて暮らすことになりました。医師や看護師やリハビリの訪問サポートも受けながら、家族による24時間態勢の医療ケアを続けています。13歳の現在は支援学校に在籍し、先生が週に3回の訪問授業をしてくれます。
「先生は、本を読んでくれたり、一緒に歌を聞いたりといろいろ工夫してくれています。美音が好きなのは音楽と図工。楽しいときには目がぱっちりと開いたり、口角が上がってほほえむような表情になっています」(真希子さん)
【大橋先生より】美音ちゃんとご家族から学ばせていただくことばかりです!
医学の進んだ現在でもなんの治療法も薬もない病気は無数にあります。元気に生まれてきたはずの美音ちゃんが、実は長くは生きられない難病だったと告げられたときのご家族の気持ちはどれほどつらかったことでしょう。奈落の底に突き落とされた気持ちだったと思います。それでもわれわれ医療者は真実を告げる必要があります。とても信じられないような残酷な事実を告げられたあと、再び立ち上がって前に進めるかあきらめてしまうかはご家族によって異なります。難病を受け入れ自宅で一緒に過ごすという決断も、自宅でのケアはあきらめ施設にお願いするという決断もどちらも尊重されてしかるべきだと思います。美音ちゃんのご家族は前者を選択し、そして大変な努力をしながらも、家族が一致団結し日々歩んでいます。毎日の美音ちゃんのケアで多忙な中、「音ごはん」を通してミトコンドリア病を広く伝えるための活動もしています。そんな美音ちゃんのご家族から、われわれ医療者は日々学ばせていただくことばかりです。これからも無理せず頑張ってください。応援しています!
お話・写真提供/坂井真希子さん 監修/大橋研介先生 取材・文/早川奈緒子、たまひよONLINE編集部
12歳の長男と9歳の二女は美音ちゃんのことが大好きです。美音ちゃんは家族みんなで守る存在だと、自然にお手伝いもしてくれるのだそうです。
「たまひよ 家族を考える」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることを目指してさまざまな課題を取材し、発信していきます。
大橋研介先生(おおはしけんすけ)
PROFILE
埼玉県立小児医療センター泌尿器科 科長。昭和48年生まれ。1999年日本大学医学研究科卒業。日本大学医学部小児外科などの勤務を経て2020年より現職。日本小児外科学会専門医・指導医、日本外科学会専門医・指導医、日本小児泌尿器科学会認定医。
●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●記事の内容は2023年4月当時の情報であり、現在と異なる場合があります。