生後1カ月でダウン症と告げられた娘。「美貴は金の卵、きっとすごい子になる」という実母の言葉に励まされ【体験談】
高田敦子さんの3人目の子どもで長女の美貴さん(25歳)は、ダウン症候群(以下ダウン症)をもって生まれました。早期療育の筋肉トレーニングで、生後4カ月から鉛筆を持つ練習を始めた美貴さんは、絵を描く楽しさに目覚め、今はアーティストとして活躍しています。
美貴さんに常に寄り添ってきた敦子さんに、25年間の子育てを振り返ってもらう全3回のインタビューです。1回目は、美貴さんが生まれたときから鉛筆で絵を描き始めた1歳4カ月ごろまでのことを聞きました。
産声を上げなかった娘。医師からダウン症と告げられたのはその1カ月後
――美貴さんの妊娠・出産の様子を教えてください。
敦子さん(以下敬称略) 美貴には8歳違いと6歳違いの兄がいて、美貴を産んだとき私は30歳。受診していたのは地元の産院でした。二男の出産から6年あいているとはいえ、3回目の妊娠・出産だったので、わりと気楽に構えていたんです。
妊娠中、少し出血はありましたが、ほかはとくに問題はなく、39週目に自然分娩で出産。お産はとてもスムーズで、美貴は2716g、47㎝で生まれました。
ところが、「生まれた~」とほっとしたのもつかの間、産声が聞こえません。「大丈夫ですか!?」と、助産師さんにあわてて聞いたのを覚えています。
「先生に診てもらいますね」という声とともに、先生がせわしく何か処置しているのは気配でわかりましたが、何をやっているのかは見えません。その直後、泣き声が聞こえたので、「生きてた・・・」と安心はしたものの、ちょっと抱っこさせてもらったあと、美貴は保育器に入れられて処置室へ。「やっぱり何かあったんだ」と少し不安になりました。
――その後、美貴さんの様子はどうでしたか。
敦子 初めて抱っこしたときの印象はかわいくて。ただ美貴はとても顔が真っ赤でした。上の兄たち2人とは「なんとなく違う」「何かがおかしいな」と感じたのですが、女の子の新生児は初めてだったので、男女で違うのかなとも思い、さほど深刻には考えていませんでした。
でも、入院中に行った新生児ガスリー検査(新生児マススクリーニング)で、甲状腺機能低下症(こうじょうせんきのうていかしょう/※1)があることがわかり、退院後、県内の大学病院を受診するように言われました。
――そのときダウン症(※2)の説明はなかったのでしょうか。
敦子 なかったです。出産直後の私には負担が大きすぎるという病院側の判断もあり、家族と相談の上で、私には染色体検査の結果が出てから伝える判断をされたようです。
※1/甲状腺の活動が弱く、血中に分泌される甲状腺ホルモンが少ない状態。
※2/23組46本の染色体のうち、21番目の染色体が1本多く存在し、計3本(トリソミー症)となることが原因で発症する先天性の疾患群。21番目の染色体が原因であるため、「21トリソミー」と呼ばれることもある。
「美貴は金の卵」。母のその言葉にハッとする。泣くのをやめ、前を向くことに
――美貴さんにダウン症があることを、敦子さんが知ったのはいつですか。
敦子 美貴が生後1カ月になるころ、出産した病院の先生から説明を受けました。美貴が生まれた25年前は、今ほどダウン症が一般には知られていない時代。私も新聞で「ダウン症」という文字を見たな・・・という記憶がうっすらあるくらいで、知識はまったくなく、「ダウン症って何だろう?」という状態でした。
たしかに生まれてからの1カ月、美貴は泣いて何かを訴えることがほとんどなく、寝てばかりいる赤ちゃんでした。泣かない点では育てやすささえ感じたくらいです。でも、母乳をあまり飲んでくれず、欲しがることも少なく、足の裏をくすぐって起こして飲ませることを続けていたので、つねに「お兄ちゃんたちとは違う」と感じていました
でも、まさかダウン症があるなんて思いもしません。普通に生まれてくるのが当たり前だと思っていたんです。
――美貴さんにダウン症があると知ったあと、どうしましたか。
敦子 今のようにスマホで簡単に情報検索などができない時代です。パソコンや育児書で必死に調べました。そして、治ることのない先天性の疾患であることを知り、これから美貴をどう育てていけばいいのか、目の前が真っ暗になりました。
当時は何も考えられず、息子たちの日々の生活も美貴の育児も、ただ淡々とこなしていました。無条件のかわいさと、そして頭の隅につねにあったのは、育てることの大きな責任。
当時、私たち家族は京都府外に住んでいて、私の実家は京都府にあるので、私の母は近くにはいません。でも電話ではしょっちゅう話をしていて、私がかなり落ち込んでいるのはわかっていたんでしょうね。美貴が生後2カ月のある日、電話で話しているとき、「美貴は金の卵だから大切に育てよう‼️きっとすごい子なるよ。敦子は美貴だけの母親ではなく、お兄ちゃん2人の母親でもあるんだから、泣くのは今日で終わりにしなさいよ」って。
――お母さんの「金の卵」という言葉には、どのような思いが込められていたのでしょう。
敦子 美貴の出生届を市役所に出しに行ったとき、市内で生まれた6万5000人目の赤ちゃんということで、市役所の方がお祝いをしてくださいました。そのときから母は、「美貴は何かを“持っている子”なのよ」と言っていました。美貴の生きる力や可能性を信じていたんだと思います。私と美貴に対する深い愛情を感じました。
母の言葉に背中を押され、私はようやく心のスイッチを切り替えることができました。
早期療育は子どもだけじゃなく、親にとってもかけがえのない時間
――気持ちを切り替えたあとのことを教えてください。
敦子 次の日から、美貴のために何ができるのかを調べ始めました。その結果、ダウン症は早期療育が大切だと理解したのですが、美貴が療育を受けられるのは、いちばん早くても生後4カ月からだということもわかりました。まだ2カ月も先です。療育を始められるまでは美貴のもつ障がいを個性として受け入れつつ、上の子たちと同じように育てようと決め、ごく普通の日々を過ごしました。
――4カ月から始めた療育では、どのようなことを行いましたか。
敦子 ダウン症の全身健診やフォローを診てもらっている病院の隣に、ダウン症の子どもたちのための教室があり、そこに月1回通い、その後、並行しながら地域療育に通いました。
タウン症の子は、舌を口の中で滑らかに動かすことが苦手、手の指の筋力が弱くて力加減のコントロールが苦手、といったことが多いんです。
美貴は療育で姿勢・運動をはじめ発達全般のサポートを受け、私は美貴へのかかわり方や離乳食の食べさせ方などについて教えてもらいました。親子ともにすごく貴重な時間となりました。
美貴は美貴のペースで発達していくんだ、ゆっくり発達するのは、子育てを楽しむ時間を長くもらっているということなんだ、と考えられるようになったのは、療育の先生方のおかげです。現在も先生方と仲がよく、連絡もとらせてもらっています。
――早期療育では、同じ境遇の子どもをもつママたちとも話せたのでしょうか。
敦子 はい。ダウン症の子どもをもつママたちと知り合えたことは、私にとってとても大きなことでした。今のようにSNSで簡単にママ同士がつながれる時代ではなかったので、療育に通うようになり、いろいろな情報交換ができるようになりました。
療育に通い始めたら、同じ境遇のママがいっぱい。心の葛藤(かっとう)と向き合ったことがあることもわかり、「私だけじゃないんだ。みんな同じ思いを抱えていたんだ」って、気持ちがすごく楽になりました。早期療育の教室は、美貴だけでなく私にとっても、とても大切な場所になりました。
鉛筆を握って紙に向かうときは目が違う。どの遊びより集中して取り組む
――美貴さんが初めて鉛筆を持ったのは生後4カ月ごろだったとか。
敦子 指の筋肉の発達を促すために、療育の指導で、生後4カ月ごろから鉛筆を握って遊ばせるようになりました。もちろん、そのころは「絵を描く」という意識はなかったと思いますが、すごく楽しそうになぐり書きをしていました。
また、おすわりができるようになった生後6カ月ごろからは、病院の待合室などで抱っこをしながら、私がメモ帳にお花や車などを描くのを見せると、その様子をじ~っと見つめていました。今振り返ると、あのころから美貴は、鉛筆の先から何かが生まれ出てくる楽しさを感じ取っていたのかな、と思います。
生後7カ月からは新大阪にある療育の教室にも通っていたのですが、そこで美貴は三角鉛筆に出会います。普通の鉛筆より握りやすいので、さらに鉛筆を好きになったようです。
――美貴さんが初めて絵を描いたのはいつごろのことですか。
敦子 美貴が鉛筆を「お絵描きのための道具」と認識するようになったのは、1歳4カ月ごろだと思います。療育ではリトミックやクッキングなどさまざまな遊びを通して発達を促していただきましたが、鉛筆を握って紙に向かうときの美貴は目が違いました。とっても楽しそうだし、ほかの遊びでは見られないほど集中していました。
ダウン症の子どもは多動傾向がみられることもあるのですが、美貴は紙と鉛筆さえあれば、歩き回ることはありませんでした。私の母も「美貴は鉛筆さえあれば、どこでもおとなしくしてくれるから楽だわ」って言ってました。
当時は熱中できることが見つかってよかった、好きなことを思いきりやらせてあげよう、とだけ考えていました。
お話・お写真提供/高田敦子さん 取材・文/東裕美、たまひよONLINE編集部
「上の子と同じように、問題なく生まれてくる」と考えていた娘に、ダウン症という先天性疾患があると告げられ、「思考が停止した」と言う敦子さん。でも、実母の言葉で気持ちを切り替え、美貴さんの早期療育に力を入れることにします。そんな中、美貴さんは将来の仕事となる絵と出会いました。
インタビューの2回目は、保育園から小学校時代の美貴さんの様子について聞きます。
「たまひよ 家族を考える」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることを目指してさまざまな課題を取材し、発信していきます。
※高田敦子さんの「高」の字は、「はしごだか」が正式表記です。
●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●記事の内容は2024年9月の情報であり、現在と異なる場合があります。