2歳9カ月ごろ足の痛みを訴えた娘。その後小児がんと診断。抱っこを求めたのは、赤ちゃん返りでも成長痛でもなかった【神経芽腫体験談】
小田ゆりさん(42歳)が、長女のましろちゃん(6歳)の様子がおかしいことに気づいたのは、ましろちゃんが2歳9カ月のときのこと。足の痛みを訴えるようになり、「成長痛?」「赤ちゃん返り?」と思いながら、二つの小児科を受診します。そのころ、2人目の千蒼(ちひろ)くんは3カ月になったばかり。両親のゆりさん(42歳)と哲(さとし)さん(43歳)に、ましろちゃんの病気と闘病の日々について聞きました。4回シリーズの1回目です。
二つの小児科で「成長痛」と診断されるも、納得できず血液検査を依頼する
ゆりさんと哲さんは同じ銀行に勤めていて、社内結婚をしました。
「福岡出身の私は、福岡県内だけ転勤がある一般職、夫は九州内のあちこちの支店に転勤する総合職として銀行で働いていました。私が29歳、夫が30歳のとき、福岡の支店で出会いました。結婚したのは32歳のときです。
結婚当時、夫は佐世保、私は福岡で仕事をしていて、週末婚のような状況。早く子どもが欲しかったので、34歳のときに退職し、夫のいる佐世保で一緒に暮らし始めました。
それでもなかなか妊娠せず、不妊治療をスタート。人工授精を3回行ったけれどうまくいかなくて・・・。佐世保のクリニックではそれ以上の治療ができず、車で往復5時間かけて福岡の病院に2年近く通い、顕微授精でやっと妊娠できました。妊娠がわかったときは、やっと親になれると、これ以上ないほど幸せな気持ちになりました」(ゆりさん)
「妊娠中は順調でしたが、やっと授かった赤ちゃんなので、妻は毎日かなり注意深く過ごしていました。そして予定日ぴったりの日に、ましろが私たちの元にやってきてくれました。体重3000gの元気な赤ちゃんでした。
ましろという名前は私が決めたのですが、『いつまでも真っ白な心でいてほしい』という願いを込めています。女の子だとわかったとき、私はもうこの名前しかない!と決めていました。しかも、生まれてきたとき色が白かったので、ぴったりだよねと夫婦で話し合い決めました」(哲さん)
ましろちゃんは健康上問題になることは何もなく、すくすくと成長。そして、 2歳7カ月のときに、弟の千蒼くんが誕生します。ゆりさんは、2歳違いの2人育児に忙しい日々でした。
そんなある日、ましろちゃんが体の不調をゆりさんに訴えてきました。
「2歳9カ月になっていたましろが、足を痛がって、頻繁に抱っこをせがむようになったんです。また、その4カ月くらい前から、突然40度くらいの高熱を出すこともありました。熱のほかにせきもあり、かかりつけの小児科を受診すると、毎回『風邪』との診断。3日くらいで熱が下がって元気になるから、私も風邪だと思いました。そういうことが3~4回ありました」(ゆりさん)
足の痛みもずっと続くわけではありませんでした。
「泣くほどの痛みがあるようでしたが、翌日には痛みがひいて元気に動き回るんです。かかりつけの小児科で相談したところ、成長痛だろうとのこと。下の子が生まれたばかりだったので、赤ちゃん返りもあるのかなと思っていました」(ゆりさん)
「そのころ、私の兄家族と買い物に行き、ましろには新しい靴を買いました。普通、何か買ってもらったら喜ぶはずなのに、『足が痛いからおんぶして』『抱っこして』しか言わないんです。その様子を見ていた義姉が、『いくら赤ちゃん返りしていても、足が痛いとうそをついてまで抱っこをせがまないよ。やっぱりちょっとおかしいと思うから、違う病院で診てもらったほうがいいよ』と。
翌日、自宅から車で15分くらいのところにある、評判のいい小児科で診てもらおうということになりました」(哲さん)
その日の夜、ゆりさんは「2歳 歩かない 体重減少」と入れて、ネットで検索します。
「『神経芽腫』っていう生まれて初めて聞く病名が出てきました。しかも、『助からない』みたいなこわいことがたくさん書かれていて・・・、朝までほとんど眠れませんでした。
朝になってから、夫に『神経芽腫っていう病気かもしれない』と伝えましたが、夫は出勤しなければなりません。私は不安に押しつぶされそうになり、『神経芽腫だったらどうしよう』と泣きながら義姉に電話。心配した義姉が一緒に病院へ行ってくれました」(ゆりさん)
この小児科でも診断は成長痛でした。
「私はもう成長痛では納得できなかったので、『神経芽腫という病気ではないでしょうか。血液検査をしてもらえませんか』と先生にお願いしました。先生の言葉は『それは違うでしょう』というものでしたが、検査には応じてくれました。検査したところ、白血球、赤血球、血小板の数値がすごく低かったんです。貧血で倒れてもおかしくないくらいの数値だったそうで、『娘さんはすごくきつかったと思います』と言われました。
ほかにもいろいろな数値の説明があったように思いますが、すぐに国立病院で精密検査を受けるように言われ、予想以上に深刻な病状だったことにうろたえ、血液検査以外の結果の説明については覚えていません。
買い物にいったことまでの私は、成長痛と赤ちゃん返りだと信じ込んでいたので、義姉の『やっぱりちょっとおかしい』という言葉がなかったら、ネットで検索をすることはなく、血液検査をしてもらいたいと考えることもなかったと思います。義姉にはいくら感謝してもたりません」(ゆりさん)
もしも助からないのなら、つらい治療をさせる意味があるのかと迷ったことも・・・
その足でましろちゃんを国立病院へ連れていくことになり、義理のお姉さんに加えて、哲さんの両親も付き添ってくれました。
「朝、妻から『神経芽腫かも』と言われたときは、その前の小児科で成長痛だと言われたことを妻から聞いていたので、
そんなに心配しなくてもいいんじゃないかな、というのが率直な気持ちでした。でも、違う病院で診てもらうのは悪いことではないから、とりあえず診てもらってきて、くらいの気持ちでいました。
ところが妻から、『神経芽腫の疑いで、国立病院で詳しい検査をすることになった』と連絡があり、あわてて私も午後から駆けつけました。さまざまな検査を行い、医師から検査結果について説明を受けたときは夕方になっていました。
ほぼ神経芽腫で間違いないという診断でしたが、この病院では神経芽腫の治療はできないので、私たちの自宅から車で1時間くらいの場所にある大学病院で治療を受けることに。大学病院には翌朝行くことになりました」(哲さん)
「ネットで調べてひと晩中恐れていた、神経芽腫という病気が現実になってしまい、私はただただ泣き続けていました」(ゆりさん)
哲さんは神経芽腫という病気をすぐには受け入れられない中、大学病院の検査では違う診断がされるかもしれないと、小さな希望を持っていたと言います。
「翌日、大学病院でさらに検査を行い、神経芽腫でほぼ間違いないという説明が医師からありました。生検の結果が出ないと確定診断にはならないけれど、結果が出るまでの1週間を待つ余裕はない一刻を争う事態のため、すぐに抗がん剤治療を始めると・・・。2019年8月28日のことでした」(哲さん)
こうして、大学病院で始まったましろちゃんの抗がん剤治療。ましろちゃんの異変の正体がわかり、治療が始まったとはいえ、ゆりさんは抗がん剤を使うことへの不安がとても大きかったと言います。
「抗がん剤はつらい治療というイメージしかなかったので、不安と心配で混乱し、『数日間でいいから夫と一緒に付き添わせてください』と病院にお願いしたんです。でも、規則で付き添いは1人と決まっているから認められませんでした」(ゆりさん)
「実は、抗がん剤治療を受けるかどうか、受けたほうがいいのかどうか、とても迷ったんです。ネットで神経芽腫のことを調べると『長くは生きられない』みたいなことがたくさん書かれているし、入院した大学病院でも亡くなった子が多いという説明でした。
抗がん剤のつらい治療を受けても数年の延命にしかならないのなら、治療をするより家族で穏やかに暮らすほうが、ましろにとって幸せなんじゃないか、とも考えました。
でも、やはり多少でも助かる見込みがあるならその可能性にすがろうと夫婦で話し合い、抗がん剤治療を受けることにしました。
ましろの神経芽腫の腫瘍は左副腎が原発で、傍胸椎、頭頂骨、前頭骨、腸骨、腓骨、骨髄にも転移していました。私たちは抗がん剤の効果が現れるのを祈ることしかできませんでした」(哲さん)
3カ月の息子と離れ、24時間付き添う。乳腺炎の激痛と高熱を気力で乗りきる
大学病院は24時間付き添いが必要なため、ましろちゃんの入院当日からゆりさんは泊まり込みで看病を始めます。
「私が千蒼に会えるように、金曜と土曜は夫が付き添いを交代してくれました。ましろはパパっ子なので、パパが来てくれるのをとても楽しみにしていました。でも、夫は平日の帰宅後は息子の世話をして、週末は病院に泊まり込んでいたので、このころの夫は私より大変だったと思います」(ゆりさん)
大学病院での入院は4カ月に及び、日中の千蒼くんのお世話は、主に義理のお姉さんがしてくれました。
「義姉は嫌な顔一つせず引き受けてくれました。私の母はすでに亡くなっていたので、義姉が支えでした。義姉がいなかったら、この過酷な数年間を乗り越えられなかったかもしれません」(ゆりさん)
当時、千蒼くんは3カ月で、ゆりさんは母乳がたくさん出ていた時期。授乳できないため、乳腺炎になってしまいました。
「看病の合間に手でしぼっていたけれど母乳がたまってしまい、乳房がカチカチになって激しい痛みと熱が出ました。でも、乳腺炎の治療をするなら別の病院に行くしかなく、ましろから離れたくなかったので、搾乳機を買ってきてもらって、自力で膿(うみ)をしぼり出しました。発熱は気力で乗りきりました」(ゆりさん)
名古屋大学医学部附属病院にセカンドオピニオンを求め、その場で転院を決断
ゆりさん夫婦は、大学病院で治療を進めつつ、セカンドオピニオンを受けることを決めます。ゆりさんはましろちゃんの付き添いがあるので、哲さん1人で、その後主治医となる名古屋大学医学部附属病院の高橋義行先生の元を訪れました。
「全身にできた腫瘍に効果的な治療法はないか、ほかの病院の意見を聞いてみたかったんです。いろいろ調べた中で、名古屋大学医学部附属病院が行っているさい帯血移植(※)が気になり、話を聞きに行くことにしました。
行く前は、まずは聞いた話を持ち帰り、今後のことを夫婦で話し合うことにしていました。でも、今の病院では30%だという説明だった5年生存率が、名古屋大学医学部附属病院の治療を受けた子は70%くらいということなどを聞いているうちに、高橋先生にましろのことをお任せしたい、少しでも早く転院させたい!という思いに突き動かされて、その場で転院をお願いしていました。高橋先生の説明は大変わかりやすかったです」(哲さん)
「夫から転院をその場で決めたという連絡がありました。夫がセカンドオピニオンに行く前は、名古屋に行くとなるとガラッと生活が変わるから、千蒼のことを考えてもそこまでする必要があるのかな、という話もしていたんです。それをわかっているうえで即断したわけですから、夫は覚悟を決めたんだと感じました。だったら私も頑張らなくちゃいけないと、腹をくくりました」(ゆりさん)
「さい帯血バンクに適合する型がないと、さい帯血移植はできないので、転院前にましろの型を調べたところ、移植可能とのこと。ましろにはチャンスがある!と希望が見えた気がしました」(哲さん)
「下の子が3カ月という状況で、私たち夫婦だけの家族4人の生活だったら、名古屋の病院に転院するという選択肢はなかったかもしれません。両親と兄夫婦が『千蒼のことは任せて』って言ってくれたから、名古屋に行くことができました。ましろの命は家族に守られたと思っています」(ゆりさん)
※「さい帯」はへその緒のことで、さい帯と胎盤の中に含まれる血液が「さい帯血」。血液を作る源となる造血幹細胞がたくさん含まれているさい帯血を移植する治療法。
【高橋義行先生より】セカンドオピニオンの場で、神経芽腫の細胞を攻撃できるさい帯血移植について説明
ましろちゃんの病気は転移がある高リスク神経芽腫のため、これまでの標準的な治療法では約40%の生存率しか得られていませんでした。名古屋大学医学部附属病院では、神経芽腫の細胞を攻撃できる特殊なさい帯血を選んでさい帯血移植を治療に加えると、70%台まで生存率が改善していることを説明しました。しかし、この治療法はまだ確立されたものではなく、その効果を確かめるために、日本全国で多施設共同研究が予定されていることも伝えました。お父さんはその場で、当院への転院を希望されたことを覚えています。
お話・写真提供/小田ゆりさん・哲さん 監修/高橋義行先生 取材・文/東裕美、たまひよONLINE編集部
ゆりさんが小児科で血液検査をお願いしたこと、そして、哲さんが名古屋大学医学部附属病院への転院を即断したこと。ましろちゃんを何としても守りたいという親の強い気持ちが、事態をいい方向へと動かしたといえるのではないでしょうか。
高橋義行先生(たかはしよしゆき)
PROFILE
名古屋大学大学院医学研究科 健康社会医学専攻 発育・加齢医学講座 小児科学/成長発達医学教授。名古屋大学医学部附属病院小児がん治療センター センター長。専門分野は血液・腫瘍。
●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●記事の内容は2023年7月当時の情報であり、現在と異なる場合があります。