「“大丈夫”と思えるラインを遥かに超えてしまった…」双子出産後わが子の障害の多さに愕然、医療的ケアの緊張で眠れない毎日【医療的ケア児育児体験談】
伊藤絵里奈さん(仮名)は2歳4カ月で二卵性の双子の男の子の兄・春喜(はるき)君(仮名)、弟・大貴(ひろき)君(仮名)、夫の4人家族です。弟の大貴君は生まれつきチャージ症候群(※1)・免疫不全・弱視難聴があり、日常的に人工呼吸器やたんの吸引などの医療的なケアが必要な医療的ケア児(※2)です。
1回目の本インタビューでは、双子を妊娠したときや大貴君の病気がわかったときのこと、大貴君の医療的ケアについて絵里奈さんに話を聞きました。
※1)チャージ症候群……CHD7遺伝子のヘテロ変異により発症する多発奇形症候群である。発症頻度は、出生児 20,000人に1人程度に発症する希少疾患である。C-網膜の部分欠損(コロボーマ)、H-心奇形、A-後鼻孔閉鎖、R-成長障害・発達遅滞、G-外陰部低形成、E-耳奇形・難聴を主症状とし、これらの徴候の頭文字の組み合わせにより命名されている。
※2)医療的ケア児……人工呼吸器や胃ろう等を使用し、たんの吸引や経管栄養などの医療的ケアが日常的に必要な児童のこと。
順調だったはずの双子妊娠。2人目の泣き声が聞こえない…
――絵里奈さんは双子の春喜君と大貴君を妊娠した時をこう振り返ります。
「私は、もともと生理不順でした。妊娠を希望して排卵誘発剤を使用した治療をしており、医師からは多胎になる可能性があると事前に説明されていました。妊娠が発覚した時に、エコー検査で双子だと告げられましたが、大きな驚きはありませんでした。というのも、片方の卵胞の形がよくなかったようで、『片方は妊娠中に消失してしまうかもしれない』と説明されたのです。双子妊娠中に片方が消失するバニシングツインは、珍しいことではないとのことで、私もそうなるんだろうなと受け入れていました。しかし、幸いなことに途中で消えることはありませんでした。妊娠中のトラブルも特になかったので、当たり前のように健康な子が生まれてくると思っていました」(絵里奈さん)
――双子は共に2500gほどの体重に成長し、何事もなく順調に妊娠期間を過ごした絵里奈さん。双子の出産のためNICUがある大きな病院で予定帝王切開をすることになりました。
「帝王切開だったので、2人は1分差で生まれました。最初に春喜の産声が『オギャー』と聞こえて、その後すぐに大貴の声が聞こえるはずでした。でも、『あれ?今、声聞こえた……?』と、確信が持てませんでした。聞こえたような、聞こえないような、そんなことを考えているうちに、手術室が不穏な空気になりました。春喜は生まれてすぐに、近くで顔を見せてもらえたのですが、大貴は、なかなか顔を見せてもらえませんでした。『何かあったのかな?』と思いつつも、処置に時間はかかりましたが、ようやく大貴の顔を見せてもらうことができました。しかし、顔を見てほっとしたのも束の間で、あっと言う間に大貴は連れていかれ、状況がよくわからないまま私は麻酔で眠ってしまいました。出産した時点では、そんなに大変なことが起きているとは思ってもいませんでした。
次の日、大貴の状態について医師から説明を受けました。その時に、目が悪い、耳が悪い、心臓が悪い、気道が狭くて自力での呼吸が難しい、鼻の奥が閉塞しているなど、さまざまな告知がありました。『そんなに悪いところがあるのか』と驚きました。でも、正直なところ実感が湧きませんでした。出産翌日でハイになっていたのと、術後の痛みによる寝不足が重なって、どこか他人事のように感じられました」(絵里奈さん)
――産後、知人たちから「おめでとう!」と連絡が来ると、複雑な気持ちになってしまったと話す絵里奈さん。赤ちゃんの写真を送りたくても「こんなに管がいっぱい付いている赤ちゃんの写真を送ったら相手はどう思うんだろう」と思うと送れず、どんどん気持ちが塞がっていったと当時の心境を話してくれました。
「大貴の状態に対する不安や落ち込みは、1カ月ぐらいかけてじわじわと感じるようになっていきました。そして、時間が経てば経つほど、精神的に辛くなっていきました」(絵里奈さん)
チャージ症候群と診断。想像を遥かに超える息子の障害に愕然
――その後、大貴君は気管切開等の外科手術のため1カ月NICUに入院したあと、一般病棟に移りました。そして生後3カ月頃に、大貴君の“チャージ症候群”が告知されました。
「告知される前から『病状から見て、チャージ症候群が疑われます』と言われていたので、インターネットでたくさん検索していました。チャージ症候群は病気の幅が広く、リハビリ次第でいろいろなことを自分でできるようになる子も多いようでした。私はそれを見て『目や耳が悪くても、成長過程でなんとかなるかも……』と希望をもちました。しかし実際には、免疫不全の特性もあり、大貴の体調はなかなか落ち着きませんでした。成長するにつれ、気管切開だけでなく、喉頭気管分離、経管栄養だけでなく、中心静脈栄養、酸素投与だけでなく人工呼吸器と、どんどんと医療機器が増え、医療的ケアの種類も増えていき、私自身が『大丈夫、育てられる!』と思えるラインを遥かに超えたと感じました」(絵里奈さん)
――小学校の特別支援学級に勤めていた経歴をもつ絵里奈さん。障害児のことを理解していると思っていたけれど、自分が関わってきた子どもたちと大貴君の障害はかけ離れていて、すぐには受け止めきれなかったそうです。
「身近に同じ境遇の人もいなくて、自分ひとりで考え込んでしまうことが多く、どうしたらいいのかと気持ちが不安定な日が続きました。そんなときに、いつもは見ているだけだったSNSで、あるアカウントの方と連絡を取るようになりました。相手はチャージ症候群のお子さんをもつ方で、情報交換や悩み相談など、親身になって聞いてくださいました。
特に大貴の入院中は、思うようにいかない毎日で、病院での対応も不慣れで、もやもやする場面も多くありました。悔しさ、悲しさ、やるせなさ、いろんな感情がぐちゃぐちゃになって、それでも子どものことは考えないといけなくて、いっぱいいっぱいだったんです。そんな心境を察するようなタイミングで『なんでもいいから、ママの心を守るのが、一番大事だよ』って言ってもらえて、思わず涙が溢れてしまいました。その言葉は今でも私の心の支えになっています」(絵里奈さん)
医療的ケア児を育てる緊張感で夜も眠れず…医療機器のアラームで飛び起きる日々
―― 一般病棟で入院中、大貴君に免疫不全が発覚した頃、大貴君の全身の皮膚の状態が悪く、造血幹細胞移植のために、両親の遺伝子検査をしたり、先生の説明を受けていたそうです。しかし、当時の大貴君の体には移植が負担になるという判断で、生後6カ月で退院することになりました。
「そのころの大貴は全身、真っ赤っか、髪の毛も抜けていて、本人も痒いのか、痛いのか、ずっと不機嫌で、とても『かわいい』と思える気持ちの余裕がありませんでした。繊細過ぎて、家に連れて帰るのも不安でした。
大貴が家に帰ってきてからは、精神的にも物理的にも眠れない日々が続きました。『自分のケア次第で、大貴の体調が悪くなってしまう』という緊張感で、眠りも浅くなり、医療機器のアラームで飛び起きてしまう毎日でした。当時、大貴は気管の吸引が頻回で、起きている間は10分に1回は吸引していました。泣き出すと呼吸が乱れるので、更に頻回に……。片手に吸引カテーテルを持ちながら、もう一方の手であやしたり、なだめたり、手が離せませんでした。また、当時は、1日に6回時間を決めて、経管栄養によるミルクの時間があったので、本人が寝ていてもケアは発生していました。毎日、意識が飛ぶような生活で、夫も育休を取って、交代で育児にあたっていましたが、兄・春喜のお世話もあるため、休んでいる間も緊張であまり眠れませんでした」(絵里奈さん)
――心配していた大貴君の皮膚は成長とともに治っていきました。絵里奈さんも大貴君が退院してから半年経った頃にようやく手の抜きどころやペースがつかめるようになったそうです。しかし、生活が落ち着いてきた頃、春喜君が保育園に通うようになったことで、新たな問題も生まれました。
「双子が生後10カ月になる頃、おおよその医療的ケアにも慣れ、生活リズムも整ってきたので、夫が育休復帰をしました。それに合わせて、春喜を保育園に通わせることにしたんです。双子のお世話を私1人で全て担える状態ではなかったことと、大貴を連れて外出は難しいので、春喜だけでも、外で遊んだり、いろんな体験をして欲しかったことも理由です。
しかし、春喜が保育園に通うようになったことで助かっている反面、感染症のリスクも避けられず、春喜が体調を崩すと生活が回らなくなりました。大貴の免疫不全のこともあるので、極力2人を隔離して生活するのですが、目を離せるような年齢ではないので、あっちに行ったり、こっちに行ったりしながら、ケアと看病をします。夫も時短勤務からフルタイムに戻ったため、思うように頼れない中、ワンオペするしかありません。
春喜の感染だけならまだよいのですが、大貴にも感染すると、看病で寝られなくなってしまいます。どうしても医療的ケアのある大貴の看病を優先してしまいがちなのですが、以前一度、春喜が肺炎になって入院してしまったことがありました。『この子も、まだまだ注意深く見てあげないといけない1歳児だったのに、こんな状態になるまで気づいてあげられなかった……』と深く反省しました。免疫不全の医療的ケア児を抱えながら、ワンオペで双子の看病を行うことの困難さを痛感しました。春喜は成長するにつれて、発熱することが少なくなってきたので、今後はその大変さが少しでも減ってくれることを期待しています」(絵里奈さん)
免疫不全で半年以上ノロウイルスが治らず…菌血症も併発
――大貴君には免疫不全があるため、家庭での医療的ケアでも気をつけていることが多いそうです。保育園に通っている春喜君は、風邪などの感染症にかかることも多いそうですが、春喜君から大貴君に感染してしまうと入院して長期間の治療が必要になることもあるそうです。
「自宅での医療的ケア中は、手洗い、消毒はもちろんのこと、使い捨て手袋、加湿器、空気清浄機などを使用して気を付けています。また、春喜が保育園から帰ってきたら、大貴はべビーベッドの上で過ごすようにしています。春喜は、熱がなくても鼻水やくしゃみなどをしていることが多いですし、まだマスクや咳エチケットなどが難しい年齢です。春喜の体調が万全な時にだけ、2人を一緒に遊ばせるようにしています。
今年の2月、春喜がノロウイルスにかかってしまい、家族全員に感染が広がってしまいました。大貴にもうつってしまい体調が優れない日が長く続き、3月から5月までの間入院しました。その後、何度も入退院を繰り返して、11月の現在も入院中です。大貴は免疫不全なので、半年以上経った今でも、ノロウイルスに感染し続けている状態です。免疫不全者のノロウイルス感染期間の最長は6年だそうです。『一体いつウイルスが消えてくれるのだろうか』と不安な気持ちです。さらに、最近は菌血症にもなり、免疫については不安が絶えません。
また、感染症にかかった状態では、レスパイト入院が利用できません。(※レスパイト入院……在宅介護・医療を受けている方や家族や介護者の休養を目的とした短期入院)レスパイトは健康であることが前提なので大貴が感染症に感染している限りは利用できません。そのため、大貴をどこかの施設に一時的に預けることもまだまだ難しい状況です」(絵里奈さん)
核家族の医療的ケア、負担が母親に偏りがちに
――医療的ケア児含む、家族の協力はどのようにしているのか伺ったところ、核家族家庭が直面する医療的ケアの実態も見えてきました。
「夫は朝の春喜の保育園の準備を担当しています。育休は10カ月取得したので、その間とても支えられました。
それでも大黒柱を夫に任せている以上、夫に頼りきれないところも多くて、正直なところもどかしい部分もあります。大貴の治療についても、夫婦で意見が食い違ったりぶつかったり……、決して特別な夫婦ではないので、そういうところは普通の家庭と変わらないと思います(笑)。
子どもに障害があるからと言って、いきなりなんでもできる“特別なパパ・ママ”になれるわけではなく、実際はわが家のようにパパが大黒柱になって、ママが障害児・医療的ケア児のお世話をしているご家庭も多いのではないかと思います。ママが働きたくてもわが家のようなケースだとどこかに子どもを預けることも難しいので、物理的に働くのが難しくて家にこもりきりになってしまいます。わが家の課題でもあり、社会福祉全体の課題だとも感じています」(絵里奈さん)
話・写真提供/伊藤絵里奈さん(仮名) 取材・文/清川優美、たまひよONLINE
大貴君の自宅での医療的ケアが始まった頃は、緊張で眠れない日々が続いたという絵里奈さん。ペースが掴めてきた現在でも、睡眠時間が少なかったり付きっきりになってしまう時間も少なくないそうです。免疫不全がある大貴君と、保育園に通うようになった春喜君との暮らしも、絵里奈さんがいつも気遣いながら慎重に生活していることがうかがえます。
また、医療的ケアの負担が母親に傾いてしまいがちだという現実も。絵里奈さんの家庭だけでなく、医療的ケア児を育てるどの家庭にも当てはまるのではないかと感じました。
後編では、1日のスケジュールや、きょうだい児に対する考え、今後の課題について話を聞きました。
「たまひよ 家族を考える」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることをめざしてさまざまな課題を取材し、発信していきます。
でこぼこ双子 医療的ケア児の家族
●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●記事の内容は2023年11月の情報で、現在と異なる場合があります。