生後9カ月で脳性まひと診断。笑えない!?歩けない!?「この子を殺してしまうかもしれん・・・」と思う日も【体験談】
畠山織恵さん(44歳・大阪府)の長男亮夏(りょうか)さん(24歳)は生後9カ月で脳性まひと診断され「笑うことも歩くことも難しい」と言われました。亮夏さんは脳性まひのために全身の筋肉に緊張があり、自分の意思とは関係なく体が動いてしまう「不随意運動」がある状態で、車椅子で生活しています。織恵さんは障害のある子の子育てについて書いた本『ピンヒールで車椅子を押す』を出版しました。亮夏さんが生まれてから現在までの様子を織恵さんに聞きました。全3回のインタビューの1回目、今回は妊娠・出産したころの様子です。
妊娠34週で破水。突然の帝王切開出産に
――亮夏さんを妊娠・出産した当時のことを教えてください。
織恵さん(以下敬称略) 私の実家の父はとても厳しく、私自身もいい娘を演じようとして、本当の自分の気持ちを押し殺し、家にいることを苦しく思っていました。「家を出たい、自分らしく生きたい」と考えていた19歳のとき、夫に出会い妊娠を。そして結婚をすることになりました。私は両親の反対を押しきって家を出て、夫とおなかの赤ちゃんとの生活が始まりました。
妊娠後期に入ったころの妊婦健診で、「赤ちゃんが少し下がってきてるから、できるだけ安静にしてください」と言われ、気をつけていたある日のことでした。おふろ上がりに足の内側をちょろちょろ水が流れていることに気づきました。ふいても、ふいても流れてくるんです。『もしかして破水!?』と思って、当時読んでいた『たまごクラブ』に『破水をしたらすぐに病院へ』と書いてあったので、外出していた夫に電話して、車で救急外来に連れて行ってもらいました。
病院へついて診察を受けしばらくすると、赤ちゃんの心拍が下がっているということで、妊娠34週で緊急帝王切開で出産することになったんです。
――突然の出産だったのですね。
織恵 全身麻酔での帝王切開でした。気がついたらおなかがぺたんこになっていることにとても驚いたことを覚えています。出産からどれくらい経ったかはさだかではありませんが、車椅子でNICU(新生児集中治療室)に連れて行ってもらって、赤ちゃんに初めて会いました。体重1772g、身長40.5cmの男の子でした。
あまりに突然の出来事で、出産をした実感がぜんぜんなく、看護師さんに『これが私の赤ちゃんですか?』と聞いたら『この子が、赤ちゃんですよ』と『これ』を『この子』に言い直されるくらいでした。たしかに、よく見たら夫に顔が似ています。さっきまでおなかにいたはずの子が保育器に寝ている、という事実を受け止めることで精いっぱいでした。
夫は手術の間待っていてくれたはずですが、あんまり覚えていません。母子健康手帳には「夫が保育器に入っている彼をみてかわいいと言った」と書いてあります。1999年6月のことでした。
小さく生まれNICUに1カ月の入院、そして足の治療で転院
――出産後の息子さんの健康状態について、医師からどんな説明がありましたか?
織恵 お医者さんからは「赤ちゃんは頑張りましたよ。ちょっと小さく生まれているので保育器に入ってもらいますね」と言われました。通常おなかにいる期間よりも早く外に出たから、これからの成長は少しゆっくりになる、という説明もありました。
亮夏は足が内反足(足とかかとが内向きに曲がっている状態)になっていたので、1カ月ほどNICUに入院したあと、足の治療ができる神戸の病院に転院しました。今なら足の症状は脳性まひによるものだとわかるんですが、そのときは脳性まひの診断はなく、内反足を治療しようということでした。ベビーシューズのような足形のギプスを両足につけて、足を固定するような治療を1カ月ほどしました。
――神戸の病院を退院したあとの息子さんはどんな様子でしたか?
織恵 夜は泣いてなかなか寝ない、抱っこしても体を反りかえらせてぐずぐずする、20mLのミルクを飲むのにも1時間ほどかかる、せっかく飲んだミルクも吐いてしまう・・・というような状態でした。初めての子育てで、そもそもふつうがどんなんかもわからなかったけれど、亮夏の子育てはやりにくいな、と感じてはいました。当時はインターネットも普及していなくてSNSもなかった状況です。当時、私の育児についての情報源は母子健康手帳と『ひよこクラブ』だけでした。でも、どっちに書いてあるようにお世話をしようとしても、ちっともうまくいきませんでした。
私の母子健康手帳は、生後1カ月目はかろうじてチェックしているけれど、生後3カ月目からはまっ白です。亮夏は3カ月で首はすわっていませんでしたし、「あやすとよく笑いますか」「見えない方向から声をかけるとそちらを見ようとますか?」などの質問項目には「いいえ」にしかマルをつけられません。集団健診に行っても、ほかの子どもたちと明らかに様子が違います。保健師さんに相談してみても「もう少したてば大丈夫よ」「ママに会いたくて早く生まれたから、ゆっくりでもしかたないね~」というような、アドバイスのようなそうでないようなコメントをもらうだけの状況でした。
脳性まひの診断が出てすぐに親子でリハビリを開始
――脳性まひであると診断されたのは生後9カ月のときだったそうです。
織恵 生まれた病院の小児科のフォローアップに毎月通っていました。そこで、生後8カ月くらいのときに「運動機能があまりよくないので、発達を促すためにリハビリを始めましょう」と言われて、大阪の療育リハビリ施設を紹介されました。そのときも障害がある可能性のことは何も言われなかったので、足を動かしたりする練習をするのかな、という程度にとらえていました。
夫と亮夏と3人で療育リハビリ施設に行くと、息子の様子を見てすぐに、先生から「これは脳性まひですね。運動機能障害とも言います。お母さん、どうしてもっと早く連れてこなかったの?」と言われました。突然「脳性まひ」「運動機能障害」と言われても、それが一体何を示しているのかがよくわかりませんでした。そういった障害についてほとんど知らなかったし、これからのイメージも全然浮かびません。先生の説明もサラサラと流れていくように、何も頭に入ってこなかったと思います。
先生からは「歩くことも笑うことも難しいと思いますが、リハビリで発達を促すことはできるから頑張っていきましょう」と言われ、すぐにリハビリを始めるための事務的な手続きをしました。
――診断後、すぐにリハビリを開始したのでしょうか?
織恵 診断の1週間後くらいから、親子でリハビリの集中訓練を受けるために施設に1カ月ほど母子入園をすることになりました。その施設では、リハビリは基本的には親がするものという考え方でした。親がリハビリを覚えればいつでもどこでもいつまでも、子どもへのリハビリができます。そのために親子一緒に入園しました。
そこで教えてもらったのは、赤ちゃんが自発的に動けるように促すリハビリです。赤ちゃんが座ったり立ったりできないのは、その姿勢をするための筋肉が発達していないから、という考え方で、自発的にその動きができるような基礎的な筋力・体幹をつけるようなリハビリをしました。筋力の動きを促すツボがあるそうで、腹筋のあたりのツボを押して足を上げるとか、肩甲骨のあたりのツボを押して寝返りを促す、うつぶせで背中ツボを押して腕を前に出そうとする動きを促す、といった内容でした。母子入園が終わると、母子通園になります。週の平日に3〜4回、朝9時から午後15時くらいで通っていました。2歳くらいまでそんな生活が続きました。
細い糸が張り詰め、1日の終わりがない日々が続いた
――親子で毎日リハビリに通う生活で大変だったことはどんなことでしょうか?
織恵 亮夏の障害に関しては、リハビリを続けたらいいんだということはわかったし、リハビリ自体は勉強にもなりました。でも、朝起きてから夜寝るまで・・・と言っても彼は夜にあんまり寝なかったんですが、1日の終わりがない状態が、とめどなくずっと静かに続いている感じの日々でした。
療育リハビリ施設では昼食時に30分ほどの休憩時間があり、その間は保育士さんが亮夏を見ていてくれるので、ほっとできるのはそのときくらいです。彼が生まれてから、細い糸が張り詰めた状態がずっと続いていたような感じがありました。
子どもを産むことは自分で選んだ道だし、自分が母親だから「やめた!」と放り出すこともできません。自分の責任だからだれにも頼ってはいけないと思っていて、夫にも自分の親にも頼りにくい状況でした。一方で、彼が不機嫌で泣き続けたり、ミルクやごはんを食べるのにすごく時間がかかったりといった、日常の小さなモヤモヤが積み重なって、「もうダメかもしれん」と思ったことも何度もあります。彼の顔に枕をおしつけてみたり、布団にちょっと放り投げてみたりしてしまったんです。すぐにハッとして、なんてことをしたんだと自分を責めました。
そんな日々が1年ほど続いたころに、この子と少し離れないと殺してしまうかもしれない、と思ったんです。そこで、区役所に駆け込んで保育園に入れてほしいとお願いしました。窓口の人も危機的な状況を察したのかすぐに手続きをしてくれ、2歳を過ぎてすぐのころ、保育園に入園することができました。亮夏と離れる時間が増えて、自分の心に少し余裕ができたと思います。
お話・写真提供/畠山織恵さん 取材・文/早川奈緒子、たまひよONLINE編集部
亮夏さんの乳幼児のころの様子を聞くと「あんまり覚えていないんです」と織恵さん。夜も寝ない、ぐずりも多くミルクの飲みも遅かった亮夏さんの子育ては、当時の記憶をなくすほど過酷だったのかもしれません。次回の内容は保育園に通い始めてからの亮夏さんの成長の様子についてです。
「たまひよ 家族を考える」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることを目指してさまざまな課題を取材し、発信していきます。
●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●記事の内容は2023年11月当時の情報であり、現在と異なる場合があります。
畠山織恵さん(はたけやまおりえ)
PROFILE
1979 年大阪府堺市生まれ。重度脳性まひの長男との暮らしと、能力開発事業に12年間携わった経験を踏まえ、2014 年障害児ゆえに不足する「体験・経験」を五感で習得する【GOKAN 療育プログラム】を独自監修。障害児支援施設を中心に20 施設500 名以上へ療育を提供。地方自治体、教育機関などでの講演活動も行う。
『ピンヒールで車椅子を押す』
「人と違う自分を好きになってほしい」と挑んだ重度脳性麻痺の長男の子育てや、周囲の人、家族とのかかわりを見つめた23年間にわたる親子と家族の成長記録。自分らしく生きる勇気が湧く一冊。畠山織恵著/1540 円(すばる舎)