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「パパだけど、“ママ”」トランスジェンダーの私が不妊治療で長女を授かるまで。あきらめたはずの奇跡が目の前に【谷生俊美・インタビュー】

更新

娘さんが生後1カ月のころ、お宮参りへ。

2018年にトランスジェンダー女性として、日本テレビの報道番組「news zero」のコメンテーターを務め話題になった、映画プロデューサーの谷生俊美さん(50歳)。トランスジェンダーとは、「生まれたときに割り当てられた性別と異なる性での生き方を選択している人」のこと。「女性」として生きることを決めた谷生さんは、女性パートナーと出会い、結婚。現在は一児の「パパだけど、“ママ”」として、4歳になる娘・ももちゃんを育てています。
谷生さん自身のこと、パートナーとの結婚・妊娠のころのことについて話を聞きました。
全2回のインタビューの1回目です。

「女性」として生きることを決意し、その後パートナーと夫婦に

――谷生さんは幼少期から自身の性に違和感を抱き、「いつか女の子になりたい」と願っていたそうです。「女性」として生きることを選んだのは、いつごろですか?

谷生さん(以下敬称略) 小学1年生くらいのころから「いつか女の子になりたい」と願いながらも、大人になるまで男性として生きてきました。2000年に男性として日本テレビへ入社してからは、報道記者として外報部や社会部などを経て海外特派員に。2005年から5年間、カイロ支局長としてエジプトに駐在しました。

紛争が続く中東で取材をする中で「後悔しない人生を生きなければ」という思いを強くし、「おじさんになるなら死んだほうがましだ」と思い、トランス願望が「復活」しました。それで自分が着たいと思うレディースの洋服の中から、まずは中性的なものを着て、ナチュラルメイクをするようになりました。
2010年に帰国したあと、2012年に報道局から編成部の映画班に配属となり、そこで理解ある上司と出会います。上司に「女性」として生きたい気持ちを伝えると、上司は私の生き方を応援してくれ、社内でも理解を得られるようにアドバイスをくれました。ちょうどそのころ通っていたメンタルクリニックで正式に性同一性障害の診断が出たこともあり、女性ホルモンの処方を受けて、「女性」として生きることを決意しました。39歳のときでした。

――現在のパートナーとはどのように出会い、結婚したのでしょうか?

谷生 パートナーとはカイロ支局長としてエジプトにいるころに出会い、日本帰国後に再会しました。日本で再会したときは、私はフルメイクをして女性の装いだったんですが、彼女はそれを自然に受け入れてくれました。実は大きな葛藤を乗り越えてくれたことを今回、本を執筆して知ったのですが・・・。
何度か食事をしたり話をするなかで、「魂が触れ合うような特別な存在」だと感じるように。男とか女とか関係なく、人として最高にひかれる存在同士だと思ったんです。2013年の7月にプロポーズをして「Yes!」の返事をもらい、2014年の4月に私たちは戸籍上の「夫婦」となりました。

不妊治療のチャレンジは、簡単ではなかった

娘さんが生まれた日、初めての抱っこの瞬間。生まれたばかりの赤ちゃんの肌は「きれいな赤い色をしていて、感動しました」という谷生さん。

――パートナーとの間に子どもを持とうと思った理由について教えてください。

谷生 私が女性ホルモンの摂取を始めたのは2012年、39歳のころでした。女性ホルモンを摂取すると、体が女性らしく変化する一方で、男性機能は著しく減退し、半年以上続ければ生殖能力は失われる、と言われています。子どもが大好きでいつか子どもがほしいと思っていた私にとっては重い決断でした。そのとき、自分自身の血縁関係のある子どもを持つという選択肢を放棄したのです。だから、私からパートナーに子どもの話をしたことはありませんでした。

パートナーと婚姻関係を結んで2年ほどたった2016年のゴールデンウィークに、パートナーから話があると言われました。「もし自分の子どもを持てる可能性があるんだったら、チャレンジしてもいいんじゃないかなと思っているんだけれど、どう思う?」って聞かれたんです。
私は「子どもが好きだし、いたら楽しいよね。でも、もう無理だと思うよ」と伝えると、「わかってる」との返事でした。でもそれから、2人で家族を増やすことを真剣に考え始めました。

彼女は当時児童福祉の仕事をしていたので、子どもを持つことについて養子縁組や養育里親など、さまざまな可能性を知っていました。そこで、もし自分たちの血縁の子どもができなければさまざまな選択肢を考えよう、と話し合い、まずはメディカルチェックを受けることにしました。
その結果、私の生殖能力をもった精子の数は10以下だとわかりました。健康な成人男性では生殖能力のある精子は数千万以上あるそうです。「あ、やっぱり…」と思いました。極めて少ない数字でしたが、顕微授精なら可能性があるとわかり、チャレンジすることに。

――谷生さんとパートナーの不妊治療はどんなふうに進んだのでしょうか?

谷生 まずは顕微授精で受精卵を作るところから始まりました。顕微鏡を使って、抽出した精子を細いガラス針で卵子の細胞質内に直接注入して、受精させる手助けをします。その卵子が受精卵となれば、母体の子宮へ戻し、着床して妊娠が継続するかどうか、という流れになります。

当初、私のわずかしかない生殖能力を持った精子で、奇跡的にいくつかの受精卵ができたんです。その瞬間は「え!この子たちがみんな生まれたら子ども何人もになっちゃう!」なんてすごくテンションが上がりましたが、そこからが問題でした。

受精卵ができても、それを母体に戻して着床し、さらに妊娠になるかどうかということは、本当にどうなるかがわからないことなんです。
私たちの場合は、受精卵を何度か母体に戻しても、なかなか妊娠にはつながりませんでした。

ニュージーランドでリフレッシュしたあとに妊娠が判明

――治療の間、2人でどんなふうに支え合っていましたか?

谷生 受精卵を子宮に入れる前には、身体を整える必要があります。そして一度流産すると、母体の回復のために時間が必要になります。経験をしている多くの人が、メンタル面でも「赤ちゃんが育たないのは、自分の体が問題なんじゃないか」と自分を責めてしまっているのではないでしょうか。
パートナーは口には出しませんでしたが、すごくストレスを感じて、精神的なダメージを受けているようでした。私も、私の精子に問題があったかもしれないと、自分を責めました。「次こそは・・・」と期待して流産してしまったときのショックが大きすぎるんです。

不妊治療はそう簡単なことではないとわかってきてから、過度に期待するのはやめて、粛々としかるべきタイミングで母体に受精卵を戻す、という治療を続けました。2年ほどの長い期間不妊治療を続けたころ、パートナーの精神状態が相当しんどそうだな、と感じたので、「ちょっとゆっくりしようか」と2人で1週間ほど休暇を取ってニュージーランドで過ごすことに決めました。2018年の3月、ニュージーランドの自然に触れる場所でゆっくり過ごしたんです。そうしたら、彼女が本当に大地のエネルギーを吸収して、目に見えて元気になったように感じました。いいリフレッシュになったんじゃないかな。

――その後、ドイツ旅行の際に妊娠していたことがわかったそうです。

谷生 ニュージーランド旅行の前までは、妊娠のためにお酒をやめたり、生活に気をつけたりしていたんですが、もうあまり気にしすぎないで普通の暮らしをしよう、と2人で決めました。不妊治療を再開後、秋の休暇で2人でドイツ旅行をしたときには、ドイツの名産ビールやワインを飲んで、リラックスして楽しみました。

ドイツから帰国し、私が「news zero」にコメンテーターとして出演し始めたころ、パートナーがクリニックに検査に行ったら、着床しているかもしれない、とわかりました。さらにその次の健診では「心臓がトクトク動いていた」と言うんです。本当にびっくりしました。

その後も赤ちゃんはパートナーのおなかで少しずつ育ち、程なくして正式妊娠に。産婦人科を紹介され、パートナーは妊婦として妊婦健診を受けるようになりました。

奇跡的な巡り合わせで誕生した長女

娘さん1歳の誕生日に、パートナーと3人でバルーンでデコレーションしてパーティ!

――妊娠中の経過はどうでしたか?

谷生 エコー写真に映る小さな命を見て最高にうれしい気持ちでしたが、私もパートナーも妊娠中はずっと「何があるかわからない」と意識していました。思いが強ければ強いほど、万が一のことが起きてしまったら、よりショックを受けると思うんです。彼女はそれを強く意識していたんだと思います。それでも、『たまごクラブ』で妊娠時期ごとの赤ちゃんの実物大の大きさや成長の様子がわかる特集ページを見て、「今、赤ちゃんはこのくらいの大きさなんだね!」と楽しみにもしていました。

妊娠7〜8カ月となった2019年の2月ごろには、4Dのエコーが見られるクリニックにも行きました。おなかの中で赤ちゃんが動いている様子や指しゃぶりしている様子が見られて、とっても感動しましたし、「こんな私でも、本当に親になれるのかも」と実感しました。「この子に恥ずかしくないように生きよう」と心に誓いました。

――2019年、5月に娘のももちゃんが誕生します。出産には立ち会いましたか?

谷生 はい。予定日を5日過ぎてもお産にならなかったので、入院して陣痛促進剤を投与することになりました。入院した朝から夜まで陣痛促進剤を打ったけれどなかなか子宮口が開かず、パートナーはその日の夕方から深夜0時を越えるころまでずっと痛がっていました。
深夜未明に私はいったん帰宅したんですが、翌朝病院へ行くとパートナーは「痛みに慣れた」と朝ごはんを食べてニコニコしていたので驚きました。そこから再び陣痛促進剤の投与が始まったんですが、それからは彼女はひと言も「痛い」と言わずに陣痛に耐え続けていました。

午前11時をすぎるころに子宮口が全開大になり、パートナーがいきみ始めました。女性が子どもを産み落とすときの、全身でいきんで全部を吐き出すような、全身全霊の頑張りを目にして、感動で震えるほどでした。感動のあまり、私は赤ちゃんが生まれる前から泣いていました。

――娘さんが誕生した時の思いについて改めて教えてください。

谷生 助産師さんが「おめでとうございます」と取り上げた赤ちゃんを目にした瞬間「わぁ――ー!生まれた――――!!」と泣きながら叫びました。すごくきれいな赤い色をした赤ちゃん。「赤ちゃんって本当に赤いんだ。きれーい!」とも感動して。本当に不思議な気持ちでした。

私の生殖能力がないと思っていたところから、わずかな可能性にかけて2人でチャレンジを始め、長い期間実を結ばなかったつらい時期を経て、娘は生まれてきてくれました。一度はあきらめたはずの奇跡が目の前に現れたんです。「感動」という言葉では表せないくらいの、ものすごく強い喜びの感情に包まれました。

お話・写真提供/谷生俊美さん、取材・文/早川奈緒子、たまひよONLINE編集部

生殖能力を失うリスクが伴う女性ホルモンの投与という重い決断をしたあとでの、不妊治療へのチャレンジ。パートナーを支える谷生さんの様子から、2人の愛情と絆(きずな)の強さがうかがえます。次回のインタビューは、娘さんが誕生してからの生活について聞きます。

「たまひよ 家族を考える」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることを目指してさまざまな課題を取材し、発信していきます。

●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●記事の内容は2024年1月当時の情報であり、現在と異なる場合があります。

谷生俊美さん(たにおとしみ)

PROFILE
日本テレビ映画プロデューサー。1973年京都生まれ、神戸育ち。東京外大大学院博士前期課程修了後、日本テレビ入社。社会部警視庁担当やカイロ支局長として報道に携わったのち、映画番組「金曜ロードショー」などのプロデューサーを務める。2018年には「news zero」にコメンテーターとして出演。現在、映画プロデューサーとして、細田守監督『竜とそばかすの姫』、百瀬義行監督『屋根裏のラジャー』などを手がける。

『パパだけど、ママになりました』

子どものころから自身の性別に違和感と嫌悪感を抱え、ついに女性として生きることを決意した「パパ」が、パートナーの「かーちゃん」との間に生まれた愛娘に、「ママ」としてつづった感動の手紙。谷生俊美著/1760円(アスコム)

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