3人の子どもを育てながら、37歳で医学部に合格し、医師に。「親になっても自分が咲ける場所を見つけて」【小児科医・鈴木裕美】
香川県でNPO法人親の育ちサポートかがわを設立し、活動をしている小児科医の鈴木裕美先生。活動のキャッチフレーズは“子育てについて学ぶ機会をすべての親へ”です。鈴木先生は、不登校、精神疾患、自傷行為、依存症、虐待、自殺未遂などをした子どもたちを支援し、ネガティブなイメージを持たれがちなこれらの体験を前向きにとらえられるようにユニークなパス(道)をたどってきた人たち、「ユニパスさん」と名づけています。
鈴木先生自身も、紆余(うよ)曲折ある人生でした。鈴木先生が医学部をめざしたのは専業主婦だった34歳のとき、そして小児科医になったのは41歳。鈴木先生が歩んできた人生の道のりについて聞きました。全2回インタビューの1回目です。
大学院生のときに入籍して、その後3人の子を出産
香川大学医学部附属病院の小児科医をへて、同大学医学部衛生学教室で助教を務める鈴木裕美先生。鈴木先生が、医学部を受験しようと思ったのは34歳のとき。8歳、6歳、4歳の3人の子育て真っ最中でした。結婚したのは大学院生のときです。
――結婚や出産について教えてください。
鈴木先生(以下敬称略) 入籍したとき私はハワイで大学院1年生、夫は日本にいました。最初から遠距離結婚でした。一緒に暮らせるようになったのは入籍から10カ月後、夫がハワイ島にあるホテルに就職したときです。
大学院に行くことを夫が結婚前に強くすすめてくれ、経済的にも助けてもらいました。
第1子が生まれたのは、修士論文を発表してすぐの26歳のときです。それから第2子は28歳、第3子は30歳で出産しました。夫は日本人で、調理師です。
――夫さんとの出会いを教えてください。
鈴木 私は、ハワイ大学に入学する前、日本の大学に通っていました。日本にいたころ、ふとしたことから太平洋諸島に興味を持ちました。日本は唯一の被爆国と言われていますが、ミクロネシアのビキニ環礁では何度も水爆実験が繰り返されていて、少しずつ被爆者が増えていることを知りました。そのことが気になって、一度、日本の大学を休学してミクロネシアの島々を旅していたんです。帰国後、さらに太平洋諸島のことを学びたいと思い、日本の大学を中退して、ハワイ大学に編入しました。
夫とは、ハワイ大学の卒業研究で訪れたフィジー共和国で出会いました。夫は当時、フィジー共和国の日本大使館の公邸料理人をしていました。フィジー共和国にいたとき、日本人が集まって食事をする機会がよくあったんです。夫とは、そこで出会いました。
――ハワイ大学大学院では、何を専攻していたのでしょうか。
鈴木 公衆衛生学の中の国際保健です。当時は、ユニセフやWHO(世界保健機関)などの国連機関で働きたいという夢がありました。結婚して子どもが生まれてからも、夢をかなえるために勉強を続けていました。
2人目が生まれたときは、夫の仕事の都合でブラジルに住んでいたのですが、国連の試験に受かりスイスまで最終の面接試験に行きまして。でも不合格で・・・。ちょうど3人目を授かったことがわかり、国連で働く夢をあきらめました。
3人の子育てに追われる日々。子どもはかわいいけれど、寂しい
夫の仕事の都合でブラジルに3年住んでいたときに2人目が生まれ、それから東京に戻って3人目が生まれた鈴木先生。
3人目の子が1歳半になってから、中国で暮らすことになりましたが、夫さんが体調を崩して一時帰国し、鈴木先生は母と同居することに。鈴木先生は母から言われたひと言で、医学部をめざすようになります。
――国連で働く夢をあきらめてからのことについて教えてください。
鈴木 毎日3人の子育てに追われていました。
子どもたちはかわいいのですが、でもどこかで「私、何をしているんだろう?」「あんなに勉強していたのに・・・」「私はこの先、どうなるんだろう?」と自問自答を繰り返す日々でした。社会から取り残されていくような寂しさもありました。社会に出て、イキイキと働いている友だちを見て心の底からうらやましくも思いました。
しかし同居していた母から「まだ若いんだから、何か資格をとって働いたら? 国家資格がいいんじゃない?」と言われて、はっと目が覚めたんです。
――何か資格を、というのが医学部入学につながったのでしょうか。
鈴木 私は大学院生のとき公衆衛生学を専攻していたのですが、中学生のころは小児科医になりたいと思っていました。発展途上国の子どもたちが食べ物がなくて、餓死していく報道を見て「私がお医者さんになって、子どもたちの命を救いたい!」と思っていたんです。でも、その思いはいつしか消えていました。
しかし海外に長いこと住み、適切な医療を受けられずに病気で苦しむ子どもや路上生活する子ども、病気で両親を失ったうえに両親の病気に感染した孤児と触れ合うなかで、中学生のころの夢を思い出したような感じでした。
私は、理数系が苦手なので、自分でも医学部はかなりハードルが高いことはわかっていました。経済的にもけして余裕があるわけではありませんでした。医学部に受かる保証がないのに、夫にお金の負担はかけたくありませんでした。
そのため同居している母に子育てを手伝ってもらいながら、朝5時~9時まで、パートで働いて貯金をしていました。勉強は、子どもが保育園や小学校に行っている間に図書館に行ったり、子どもが夜寝てからしていました。
予備校にも一時通っていたのですが、私のパート代だけでは、授業料や受験に必要な交通費、宿泊費などのお金が払えず、予備校は半年ほどで辞めました。それからは独学で勉強を続けました。
――医学部に受かったときのことを教えてください。
鈴木 医学部受験を決意したのが34歳で、合格したのが37歳です。
経済的な事情もあり国立の医学部に絞って受験したのですが2回落ちています。3度目の正直で、香川大学医学部に合格しました。しかも学士編入の定員が5名のところ私は6番目だったようで、辞退者が出たことによる繰り上げ合格でした。本当にうれしかったです。医学部がどういうものなのかをわかってはいなかっただろう幼い子どもたちも、私が毎日勉強をしている姿を見ていたので、とても喜んでくれました。
夫は、当時、台湾に単身赴任中だったのですが「合格したよ!」と伝えたら、「よかったね」と喜んでくれました。また、私が受験を辞めると言うまでは、何年かかっても何も言わず見守るつもりだったとも言われました。近くに住んでいたお姑さんも「よく頑張ったね」と喜んでくれました。
37歳で医学部に合格。入学してからも葛藤が
鈴木先生は37歳で医学部に合格。しかし子育てと勉強の両立に苦しんだ時期があったと言います。
――医学部に入学してからのことを教えてください。
鈴木 医学部に入学したのが37歳です。子どもは10歳、8歳、6歳でした。当時、夫は1人目の子を連れて台湾に赴任中だったので、私は大学のある香川に下の2人の子を連れて生活拠点を移してワンオペで子育てをしながら大学に通いました。子どもの保育園を通じて知り合った、近所の老夫婦にずいぶんお世話になりました。
医学部の中では私が最年長でしたが、17歳年下の同級生とも同じ医師をめざす仲間として頑張り合えました。しかし20代の学生たちとは記憶力や理解力が違い、私が毎日最前列で真面目に講義を受けて必死に勉強しても、平均点を取るのは難しかったです。
留年しないでいるのがやっとな状況の私に恩師は「鈴木さんは低空飛行でええからな」と廊下で会うたびに声をかけ、励ましてくれました。
台湾にいる夫には、子育てと勉強の両立が難しく、子どもが保育園に行きたがらなかったり、小学校になじめないことをよく話していました。そしたら夫が、海外での仕事を辞めて香川で仕事を探すと言ってくれて、私が医学部3年生の秋に香川に来て一緒に住むようになったんです。
夫は「ホテルの総料理長をする夢もかなったし、自分のキャリアにはもう満足したから、今度は君の夢を応援するよ」と言ってくれました。夫には、本当に感謝しています。
――講演会などで先生の経験を話すこともあるのでしょうか。
鈴木 私は、NPO法人親の育ちサポートかがわの理事を務めて、香川県で子育て支援をしています。保護者や先生、地域の支援者や子どもたちにも講演会で話したり、定期的に発行する「Dr.ひろみのハッピー子育てひろば」で、医師になるまでのことや医師になってからのことに触れたこともあります。
子育てでは、〇〇すべきという固定観念にとらわれず「道はたくさんあること」を教えてあげることも大切です。
私の半生を見て、こういう道もあるんだな・・・と思ってもらえるとうれしいです。
お話・写真提供/鈴木裕美先生 取材・文/麻生珠恵 たまひよONLINE編集部
鈴木先生は自身の経験から「子どもがいても、やりたいことがあればぜひチャレンジしてください。親になっても自分の人生を大切にして、自分が咲ける場所を見つけてほしい」と言います。
2回目のインタビューは、幼児期からの不登校対策や鈴木先生が自身の子育ての失敗から学んだことを紹介します。
鈴木裕美先生(すずきひろみ)
PROFILE
医学博士、 小児科専門医。1995年ハワイ大学マノア校大学院公衆衛生学部国際保健学科卒。2010年香川大学医学部医学科卒。同大学医学部附属病院小児科医員などを経て、同大学医学部衛生学助教。NPO法人親の育ちサポートかがわ理事を務める。
●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●記事の内容は2024年8月の情報であり、現在と異なる場合があります。