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健診で「赤ちゃんの手足が短い」ことが判明、出産しても生きられないかもしれない…「それでも、可能性がある限り産みたい【骨形成不全症の赤ちゃん体験談】

更新

2020年の夏、恵愛(えま)ちゃんは誕生しました。それはある意味、ママであるのんさんとパパにとって、覚悟の出産でした。妊娠中から、おなかの中の赤ちゃんはほぼ間違いなく「骨形成不全症」であるといわれていたからです。

全2回のインタビューの前編では、恵愛ちゃんを妊娠してから病気と診断され出産を決意するまで、そしてNICUに入院中のことについてママ・のんさんに話を聞きました。

※骨形成不全症…骨がもろく弱いことから、骨折しやすくなり、骨の変形を来たす生まれながらの病気。2〜3万人に1人くらいの割合で生まれるとされる。なお、恵愛ちゃんはその中でも重いタイプのII型。(公益財団法人 難病医学研究財団/難病情報センターのHPを参照してまとめたもの)

胎動を元気に感じていた健診で「赤ちゃんの手足が短い」と…

妊娠14週のころの恵愛ちゃん

――恵愛ちゃんの妊娠は、ご夫婦にとってどんなタイミングでしたか?

のんさん(以下敬称略) 実は恵愛の妊娠の半年前に1度、妊娠したのですが、異所性妊娠(子宮外妊娠)でした。とても妊娠を望んでいたのに、あきらめざるを得ない形になってしまったのが、残念で悲しくて。その半年後に再び妊娠がわかって、本当にうれしくて。待って、待って、やっと来てくれた!という感じでした。わが家は私が再婚のステップファミリーで、中学生の長男と小学生の二男がいました。結婚して1年たち、また新しい家族が増えることが、とてもうれしかったです。

――恵愛ちゃんに疾患があるとわかったのが妊娠20週とのことでしたが、妊娠経過はどうでしたか。

のん 初期に少し出血があった程度で大きなトラブルはありませんでした。妊娠20週になり、元気な胎動も感じていて「元気だね」と夫と話していたほど。

恵愛に病気の疑いが指摘された日は、初めて夫が健診についてきてくれたタイミングで「今日、性別がわかるかな」と楽しみにしていました。
腹部でエコーを診てくださった先生が、やけにじっくりと時間をかけて画面とにらめっこしていたので、性別を調べるのに時間がかかっているのかなと思っていたんです。
ところが「ちょっと待ってて」と言われ、別の医師が加わって2人で話しながら一緒に調べている様子でした。そして、「赤ちゃんはすごく元気です。ただ、手足が短く、四肢短縮症の疑いがあります」と疾患の可能性を告げられ、大きな病院ですぐ診てもらうように、と言われたのです。まさに青天の霹靂(へきれき)。おなかの赤ちゃんはこんなに元気に動いているのに、四肢の短縮といわれても、まったく実感がわきませんでした。

――それから大きな病院で「骨形成不全症」と診断されたのですね。そのときのお気持ちはどうでしたか。

のん おなかの中でこんなに元気にしている子が、もしかして生きていけないのかもしれないと思うと本当につらくて、その日はもう、ずっと泣いていました。とくにつらかったのが、病院側から「どうしますか」と聞かれたときです。「次の(妊娠の)機会を待ってもいいんだよ、何を選択してもだれもあなたを責めないよ」と、暗にあきらめたほうがいいというニュアンスのことも言われました。
もちろん私のことを思って言ってくださっているのはわかりましたが、元気に動いているこの子を、私の決断でどうにかしてしまうということが信じられないし、考えられませんでした。診断結果を受けて、どうするか決断するまでの期間がいちばんしんどかったです。

――ほかの家族の反応はどうでしたか。

のん 私の父や母も、私たち家族のことを本当に心配してくれて、そんなに苦労する道を選ぶ必要はない、だれも責めたりしない、ということを言われました。
実はそのころ、夫の気持ちを怖くて聞けずにいました。私は勝手に、きっと夫も父や母と同じ気持ちなんだと思っていました。当時の夫のふるまいや言動を軽く感じて、私ほどつらくないんだろうなと決めつけていたんです。私はただ1人で、涙ってこんなに出るんだなというくらい、人生でいちばん泣きました。

ずっと逃げているわけにもいかないと、思いきって夫に気持ちを聞いたら、「だれがなんと言おうと、この子の可能性にかける」と。まったく私と同じ気持ちでいてくれたんです。

――2人の気持ちが固まったのですね。「骨形成不全症II型」というのは、どのような疾患なのでしょうか。

のん 「骨形成不全症II型」は、「骨形成不全症」のなかでも「周産期致死型」と呼ばれるもので、おなかの中で亡くなってしまったり、たとえ出産できたとしても、生まれて数時間から数週間で亡くなってしまう可能性がある重たい病気です。骨形成不全症の赤ちゃんは、肋骨(ろっこつ)が小さいために肺も小さく、呼吸障害になることもあるそうです。
でも、生きる可能性もある。私たち夫婦は、元気に生まれてきてくれる可能性があるのに、それを信じずにあきらめることができませんでした。
この子がどうなるのか、この目で見届けたい。それが私たちの命に対する向き合い方だと思ったんです。
周囲の人の気持ちを考えると、いろいろな葛藤があったことは事実ですが、出産までの間、産むのをあきらめようと思ったことは1度もありませんでした。気持ちが固まった時点で、お兄ちゃんたちにも話をしました。

――お兄ちゃんたちは、どういう気持ちで受け止めたのでしょうか。

のん 長男は当時中学2年生だったので、あとでそのときの気持ちを聞いてみたのですが、「正直、実感がわかなかった」と。まだ生まれてもいないのに、その子が病気だとか、生きられないかもしれないと言われてもピンとこなかったみたいです。二男も小学校6年生だったのであまりよく状況がわかっていなかったようです。でも2人とも、子どもなりに私を「大丈夫?」と気づかってくれたり、励ましてくれたりしていましたね。

「出産=お別れ」になってしまう可能性のなかでの帝王切開

産後にベッドごと移動してNICUの恵愛ちゃんと面会

――出産は予定帝王切開だったんですね。そのときの気持ちを聞かせてください。

のん それから出産までは何のトラブルもなく、本当に骨の病気なの?というくらいおなか中で元気でした。出産は、骨が弱い赤ちゃんが骨折してしまうリスクを考えて予定帝王切開を選択しました。
ただ、出産が楽しみという感じはなく、とても複雑でした。やっぱり、生まれたらそれが同時に赤ちゃんとのお別れかもしれないと思っていたんです。逆にいうと、お別れを覚悟して挑まないと、気持ちがもちませんでした。だんだん出産の予定日が近づいてくるにつれて、落ち込むことも増えました。でも、夫はまったくぶれずにいつでも支えてくれたので、すごく救われていましたね。

――帝王切開で生まれたときの状況を教えてください。

のん 生まれてすぐ、泣き声が聞こえた気がしました。そして出産後の最初の目標は「NICU(新生児集中治療室)に行く」ということでした。というのは、その場で亡くなってしまったら、NICUに行くこともできません。だから、まずなんとかいい状態を保って、NICUに行ってほしいと思っていたんです。出産には新生児科の先生も立ち会ってくれて、「これから(NICUに)行ってくるね」と言って、生まれたばかりの恵愛とタッチさせてくれました。「あ、NICUに行けるんだ」と思ったことを覚えています。

――パパはどうしていましたか。

のん コロナ下だったこともあり、手術室の外で待っていました。NICUに運ばれる恵愛に会うことができたそうですが、そこで先生に「ちょっとこれはまずいかもしれない」ということを言われたそうです。先生は、私には前向きな言葉をかけてくれたのですが、実際は厳しい状況だったようです。

――その後、NICUの恵愛ちゃんには、いつ会えましたか。

のん 出産した当日、ベッドごと運んでもらって夫と会いにいきました。保育器の中に入っている恵愛を見てまず思ったのは、「生きてる、よかった」でした。かわいいよりも、生きていてくれてよかったと。あと「思ったより手足が短くないじゃん」とも。
そして印象深かったのが、目力が強いこと(笑)。生まれたての赤ちゃんって、あまり目が開いてなくて、くちゃっとしているイメージがありますが、恵愛は、目をカッと見開いて、とても目が大きかったんです。夫も「体は小さいけど、目が大きいな」と思ったそうです。

朝と夜、NICUに通う日々。支えはブログの執筆

NICUへ毎日お見舞いに

――のんさんが退院したあとは、毎日NICUに通っていたそうですね。どのような生活だったのでしょうか。

のん 私が退院したあとは1日2回、NICUに通っていました。朝は私だけ、夜は仕事が終わった夫と一緒に行きました。途中でコロナ禍になり、1日1回になったり、時間制限ができたりしましたが、病院側が毎日会えるように配慮をしてくださって、1日15分でも会いに行きました。
毎日通うのはたしかに大変でしたが、とにかく会いたかったし、日課のようになっていましたね。NICUのスタッフの方たちをとても信頼していたので、安心しておまかせできました。

――NICUに入院中のある日、恵愛ちゃんが肌着を着ていてびっくりしたとか。

のん そうなんです。それまではおむつだけだったのが、生後2カ月くらいのとき、いつの間にか肌着を着ていて。肌着を着るとまた印象が変わって、かわいいなと思いました。
恵愛はそのころ身長が30cmくらいで小さかったので、病院のほうで肌着を切って、恵愛ちゃんサイズに合わせてくれて(笑)。赤ちゃんが肌着を着るのは当たり前のことなのかもしれませんが、そんな当たり前のことがうれしかったのを覚えています。

――一方で、NICUの入院中は何度か危険な状態になっては持ち直す…のくり返しだったそうですね。そのころに支えになったものはなんでしたか。

のん ブログを書くことでした。当時、やはり家族以外に相談できる人がいなくて。もちろん夫に相談できるのは心強かったのですが、どうしても吐き出せない気持ちがあると、それをブログに書いていましたね。書くことで、状況を冷静に見られたり、気持ちを整理したりできて、私自身、落ち着くことができました。ブログを読んでくださった方からコメントをいただけるのも支えになりました。

「気をつかわれたくない」人間関係も一変

NICU・GCUを経て無事退院。おでかけもできるように

――恵愛ちゃんのことを家族以外の友だちなどに相談することはなかったんですか。

のん なかなか友だちには相談できませんでした。実は同時期に妊娠したママ友がいたんです。「生まれたら同級生だね」なんて話をしていたのですが、恵愛の病気がわかって、話さざるを得なくなって話したんです。そうしたら、とても気をつかわれてしまって。
しかたがないことだとは思うのですが、気をつかわれるのが私にはしんどくなってしまったんです。腫れ物に触るような対応だったり、逆にあえて恵愛の話題に触れないようにして、まるでなかったことのようにされてしまったり。
わかっていてもどうしても傷つくし、いらだってしまうこともあります。だからほかのだれかに相談ができない、というよりは相談したくない状況でした。傷つくくらいなら、もうだれにも言わないようにしよう、と。
そのあと、恵愛のことを話せる人、話せない人ができて、人間関係もいい意味で変わっていったような気がします。

――その後、NICUからGCU(新生児回復室)に移られたんですよね。

のん GCUに移ったのは1歳の誕生日の1週間後でしたね。でも先生からはっきりと、「GCUに移ったからって別に調子がいいわけじゃないからね」と釘(くぎ)を刺されました。もう1歳になったから、移りましょうということだったようです。
恵愛をずっと診てくださっている先生はとても親には厳しくて、私も何度も泣かされたのですが、それだけ赤ちゃんにすごく愛情を注いでいる先生なんです。
「こんなんじゃ生きていけないだろう」とか、ズバッと口にしてしまう先生で。でも、それぐらい親として覚悟を持ちなさいと言ってくれているのがわかるので、厳しいことを言われるたびに身が引き締まり、とても信頼しています。

お話・写真提供/のんさん 取材・文/樋口由夏、たまひよONLINE編集部

▼続きを読む<関連記事>後編

妊娠中、恵愛ちゃんの疾患がわかってから出産を決断するまでの話には、夫婦の並々ならぬ覚悟と強い愛情を感じました。迷うことなく前を向いて進んでいるのは、のんさん夫婦2人のぶれない気持ちがあるからにほかなりません。そしてそれを支えてくれるお兄ちゃんたちや家族、病院のスタッフ、先生の存在も大きいのでしょう。

後編では、恵愛ちゃんが一般病棟に移ってから待ちに待った退院、家での様子とともに、のんさんが現在、力を入れている活動などについても聞きしました。

「たまひよ 家族を考える」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることを目指してさまざまな課題を取材し、発信していきます。

のんさん

PROFILE
2020年夏に生まれた第3子の恵愛ちゃんが骨形成不全症II型と判明し、その日々の成長の記録をSNSなどで積極的に発信。また、同じ志を持つママと岡山市を中心に「LeLien(ルリアン)」という難病児・障害児・医療的ケア児家族が気軽に集える居場所づくりの活動をしている。

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●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●掲載している情報は2024年9月現在のものです。

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