切迫流産を乗り越えるも先天性の心臓病がわかり…。そして産後に判明したダウン症。「どうして?」と、涙が止まらなかった【体験談】
神奈川県に住む中山広美さんは、12歳の長男と9歳の長女、2人の母です。長女の由梨ちゃんは生後2週間でダウン症候群(以下、ダウン症)と診断されました。また、長男の慶一くんは7歳で小児がんが判明。2人の子どもの障害や病気と向き合いながらの子育てについて、そして仕事について広美さんに話を聞きました。
全3回のインタビューの1回目です。
妊娠14週での切迫流産を乗り越えるも、心臓病があるとわかり・・・
長女の由梨ちゃんの妊娠がわかったのは、長男の慶一くんが2歳のころのことでした。都内の出版社で編集者として働いていた妊娠中の広美さんは、ある日、会社での会議中に体に異変を感じます。
「妊娠14週のころのことです。会議中に尿もれのような感覚がしたと思ったら止まらなくなり、あわててトイレに駆け込みました。個室に入ったとたんに、尿もれではなく大量の出血だとわかり、ドアなどの周囲に血が飛び散ってしまうほどでした。何が起こっているのかパニックになりながら、助けを呼びたくてもそのときに限ってだれもトイレに入ってこなく、私も身一つだったので、とってもあせりました。
40分ほどたってトイレに来た同僚に助けを求め、会社を早退して産院に。診察してもらうと『切迫流産です。羊水ももれているから妊娠継続が難しいかもしれない。絶対安静に』と言われ、突然の入院生活になりました。赤ちゃんの命が助からないかもしれない、と絶望的な気持ちでした。
2週間で退院はできましたが、自宅安静の指示が。切迫早産で休職した経験がある会社の先輩にも相談し、迷った末、仕事は出産まで休ませていただくことにしました」(広美さん)
慶一くんの保育園の送迎は近所に住む広美さんの両親にお願いし、広美さんは自宅で安静にしながら過ごしていました。ところが、妊娠21週の妊婦健診で、おなかの赤ちゃんに異常が見つかります。
「産院のエコー検査で赤ちゃんの心臓に異常があるとわかり、神奈川県立こども医療センター(以下、神奈川こども)へ転院することになりました。神奈川こどもでさまざまな検査をすると、赤ちゃんの病気は『極型(きょくけい)ファロー四徴症』との診断でした。
心臓から肺動脈への血管がふさがってしまって肺に血流がいかない肺動脈閉鎖と、心室の壁に穴が開いている心室中隔欠損症(しんしつちゅうかくけっそんしょう)の症状があるとのことでした。そして出産後まもなく、赤ちゃんに手術が必要だとの説明でした。
妊娠22週の直前に赤ちゃんに大変な病気があるとわかり、夫と2人、赤ちゃんをこのまま産んでいいのか、話し合いをしました。私は、なんとなくこの子は手術をすれば強く生きられるんじゃないかと感じて、この子を産みたい、そう強く思っていました」(広美さん)
すぐに妊娠22週は過ぎ、広美さんは出産に向かっていくことになります。
なんと夫に脳腫瘍があると判明
自宅でできるだけ安静に過ごしていた広美さん、妊娠30週ころからは状態が安定して、慶一くんの保育園送迎など、外出もできるようになりました。
しかしこの時期に、夫の公一さんの体調に異変が起こります。
「妊娠34週を迎えたゴールデンウィークのころ、夫が頭痛と嘔吐で寝込んでしまいました。休日診療を受診し頭痛薬を飲んでもあまりよくならず、ひどく嘔吐したり、寝込んでぐったりしていてあまりに異常な様子でした。再度別の休日診療を受診したところ、たまたま脳神経の先生がいて検査してくれたんです。
その結果、夫の頭の中に『下垂体腺腫』という良性の脳腫瘍があり、かなり大きくなっているとわかりました。
良性の脳腫瘍ですが、このまま大きくなると脳の神経を圧迫し、視神経に影響して目が見えにくくなったりするとの説明でした。『そこまで急ぐ必要はないが数カ月以内に手術する必要がある』と言われ、夫はひどくショックを受けていました。夫の手術は私の出産後にすることに決まりました。
おなかの赤ちゃんもやっと状態が落ち着いて、産後1カ月ほどで心臓の手術をすることが決まったところでした。そこへ夫まで手術することになるなんて・・・いろんなことが一気に押し寄せた時期でした」(広美さん)
出産翌日、遺伝子検査を受けることになった娘
妊娠37週を過ぎたころ、広美さんに陣痛が始まりました。
「自宅で陣痛が始まり、病院に着いて40分ほどで娘が生まれました。娘は心臓の病気のために処置をしないと呼吸が難しくなるのですが、産後数時間は大丈夫らしく、1時間ほどカンガルーケアができました。生まれたばかりの娘の顔はくしゃくしゃとした新生児ちゃんそのものでなかなか目が開かなかったので表情はわかりませんでした。でも、とてもかわいかったですし、無事に生まれてくれたことにとってもほっとしました」(広美さん)
由梨ちゃんを出産した翌日、広美さんと公一さんは医師から「これから赤ちゃんの遺伝子検査をします。結果は2週間後にわかります」と告げられます。
「医師たち複数人に囲まれた深刻な雰囲気の面談だったんですが、そのときは、娘の心臓病のためにたくさん行う検査の1つだろう、と夫婦そろって深く考えていなかったんです。その後、NICUの娘のところへ行ったときに、娘の顔を改めて見て『おや?』と違和感を覚えました。
私も夫も、それまで少しもダウン症の可能性を考えていませんでした。でもその瞬間、2人して『きっとこの子はダウン症なんだ、だから検査をしたんだ』と思いました。目がほとんど開かないし、うっすらあいたまぶたから見える目は、視線が安定しない様子で、長男のころとは違う感じがしたんです」(広美さん)
「ダウン症かもしれない」と気づき、涙が止まらなかった
「娘はダウン症があるかもしれない」と気づいた広美さんは、ネットでその特徴などを調べました。
「『ダウン症候群』とネットで検索して、特徴を読んでみると、そのほとんどが娘の様子に当てはまったのです。涙が止まりませんでした。心臓の病気は手術すれば治ると思っていたけれど、さらに障害もあるかもしれないなんて。どうやって育てていけばいいのか、ただただ不安ばかりで、病院のベッドでずっと泣いていました」(広美さん)
由梨ちゃんにダウン症があるかもしれないとなり、公一さんもかなり動揺していました。
「夫は自分の手術のこともあって精神的にかなり不安定な時期でした。私が産後退院してまもなく、娘の心臓手術の同意書にサインをして提出しなくてはいけなかったのですが、夫はその書類にサインすることもためらっていました。夫は『障害がある子を育てるなんて自分たちにできるんだろうか』と思いつめていました。
夫とは話し合いもままならないほど、お互い絶望感に襲われていました。私は産後すぐに毎日通院する生活の疲労もあり、これから一体どうすればいいのかと途方に暮れていました。夫婦で一緒にこの子を育てられないとしたら、離婚をすべきか、この子の里親を探すのか・・・などあれこれ考えてみるものの、考えがまとまるわけもありません。思考を停止して、3時間おきに搾乳して入院中の娘に届ける、ただそのことを繰り返していたように思います」(広美さん)
悩んでいた広美さんは、由梨ちゃんが生後2週間ほどでNICUからハイケア病棟に移ったころに院内のソーシャルワーカーに出会います。
「家族の問題をだれかに聞いてほしかったけれど、だれに相談したらいいかまったく思いつきませんでした。そんなとき、院内巡回していたソーシャルワーカーさんが、何気なく話しかけてくれたんです。私は娘のことや夫のこと、そのとき抱えていた悩みすべてを話すことができました。ソーシャルワーカーさんが話を聞いてくれ、心が救われました。夫とどう話し合えばいいかのアドバイスももらい、娘の手術の同意書にもサインすることができました」(広美さん)
心臓の手術は成功。娘のペースでゆっくり成長してきた
由梨ちゃんは生後2カ月のときに1回目の手術を受けました。
「1回目の手術はシャント手術といって、チアノーゼの症状を緩和する手術でした。手術後に娘は鼻管がついたまま退院し、在宅酸素療法を半年続けました。月に数回の外来では、抱っこひもで娘を抱え、酸素ボンベを背負って通っていました。
その後、生後8カ月のときに、心臓の根治手術を受けました。8時間ほどかかった手術は無事に成功。手術後、酸素療法は終わり、娘の首がすわりはじめるなど、成長を感じることができました。
夫の手術も無事に済んで、一緒に暮らすうちに、夫も少しずつ娘に障害があることを受け入れていったようでした」(広美さん)
心臓の根治手術をしたあとの由梨ちゃんについて「すっかり病気の子という印象はなくなった」と広美さんは言います。
「ダウン症があるために成長発達はゆっくりでしたし、療育センターでのサポートは必要でした。たとえば歩くための練習で理学療法士の指導を受けに通ったり、食べる際に丸飲みしてしまう傾向があったので、そしゃくして飲み込む訓練が必要で、摂食外来に通ったりしました。風邪などで体調を崩すと長引くなど、体調管理の大変さもありました。それでも、流産の危機や心臓病の手術を乗り越えた娘が、少しずつ成長してくれていることを、とてもうれしく感じていました。
根治手術から半年後に医師から集団生活の許可が出て、私も仕事復帰をめざして保育園探しを開始、ちょうど自宅近くに新しく障害児も受け入れてくれる保育園が開園し、無事入園できました。翌年には、長男と同じ保育園に転園しました」(広美さん)
由梨ちゃんは今、9歳になりました。慶一くんと同じ小学校の、個別支援学級に通っています。
「娘は今、小学3年生ですが、まだおしゃべりはできません。コミュニケーションは、なんとなく、伝わっているのかな、という感じです。
私は娘と出会うまでの人生で、障害がある人とあまり触れ合ったことがなく、身近に感じていませんでした。ダウン症のある娘の子育てに不安はたくさんありましたが、私の場合は『不安を減らすには知ること』だったので、ネットや本を調べまくり、支援してくださる方々に質問をしては、少しずつ不安を解消してきたと思います。娘を育てる中で、常に弱い立場やマイノリティーの人の状況に思いをはせるようになったのが、自分にとって大きな価値観の変化になったと感じます」(広美さん)
障害児の親も働きたい、と声を上げたい
ダウン症のある由梨ちゃんを育てる中で、広美さんは障害児の親が働くことに課題を感じたそうです。
「娘の障害を知る医療関係者や役所の窓口の人などから『無理に働かなくていい』というアドバイスをたくさんされました。きっと母親を追いつめないための厚意からの声だったんだと思います。でもそう言われるたびに『障害児の母は働くべきではないのだろうか』と悩み、『働きたい』と言い出しにくくなりました。
私と同じような状況で仕事を辞めたママ友もいます。そして、障害のある子を育てるママたちからは『仕事を辞めて後悔している』という声もよく聞きます。仕事をしながら障害のある子を育てることは、もちろん大変なこともあります。でも自分にとって働くことは、育児と同じくらい重要なことでしたし、職場の理解にも恵まれ、これまで仕事を続けることができました。
障害児の親もためらわず仕事を続けることができるように、当事者が声を上げやすい環境が大事だと思います」(広美さん)
お話・写真提供/中山広美さん、取材・文/早川奈緒子、たまひよONLINE編集部
広美さんは書籍編集者として今も働いています。「本という形でメッセージを発信できる場所にいる間は、自分の使命と思って、障害や病気に関するテーマは意識的に扱っていきたいと思う」と話してくれました。
由梨ちゃんのダウン症を受け止めて寄り添って、育児に仕事にほん走する広美さん。そんな中、長男の慶一くんが小児がんと診断されます。インタビューの2回目は、慶一くんの小児脳腫瘍の闘病について聞きました。
「たまひよ 家族を考える」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることを目指して様々な課題を取材し、発信していきます。
●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●記事の内容は2024年10月当時の情報であり、現在と異なる場合があります。