42歳で出産した平野ノラ、結婚も出産もしない覚悟で31歳でお笑いの道へ。夫婦で臨んだ妊活術のアレコレも!
「OKバブリー!」や「おったまげ〜」など、バブリーネタでおなじみのお笑いタレント・平野ノラさん。プライベートでは、4歳になる娘のママであり、ノラさんらしい笑いにあふれた子育てを実践しています。全2回インタビューの前編では、41歳で始めた温活&妊活のことや、とことんつき合って大満足だったという母乳育児の様子について聞きました。
コロナ禍をきっかけに始めた妊活。今までで一番、夫婦で同じ方向を向いている時間に
――41歳から妊活を始めたそうです。「子どもがほしい」と思ったきっかけは?
ノラさん(以下敬称略) それまでは、仕事がとにかく好きでしたし、芸人を始めたのも31歳と遅かったので、結婚や出産はしないかもな・・・という覚悟でいました。まずは、芸人としての土台づくりが大事だったし、それで自立できるようになろうと必死でしたね。
そのあとに、運よく結婚もできて、夫も私の仕事に対してすごく理解がある人だったので、「結婚後もこのまま仕事を続けていきたい」と伝えていました。子どもが欲しいという気持ちも、とくになかったんです。
そんな中で、世の中がコロナ禍になって、エンタメ業界もストップしてしまいましたよね。あのとき、私自身は、心と体が本当に休めた期間だったんです。仕事がないのは自分だけじゃないから、仕事がなくなるというあせりも、実はあまり感じていなくて。それで、その期間に本当に心身が休めたなと感じたときに、ふと、「私、子どもはどうするんだろう」と考えたんです。
そのとき、私は41歳だったのですが、自分が45歳ぐらいになったことを想像して、妊活にトライをしていなかったら、すごく後悔しそうだなと思ったんです。もし、41歳の時点で妊活にトライしていて、それでダメだったらあきらめもつくけど、何もしないのは違うかなと思ったんですね。
――それで、妊活を始めたんですね。
ノラ そのころには、生活も安定していたし、今なら、子育てもできるかなとも思いました。それで初めて、妊活してみようかなと思ったんです。とはいえ年齢のこともあるので、1年間という期間を設けて、「妊活」というと大変そうに感じてしまうので、「温活」をしようという感覚で取り組みました。もともと、体温が35度台とすごく低かったんです。
「体温を1度上げるためには?」と考えて実践していたので、そんなにしんどいという気持ちはなかったです。健康になった先に、子どもができたらラッキーだよねという気持ちでいました。私たちの場合は病院には行かずに、自分たちでできることをやろうと決めました。
温活は、とにかくいろいろなことをしました。NASAが開発したという温かくなるシートを使ったり、おふろに入れると温かくなる石を買ったり、ツボ押しやはり、お灸もやったし、決まった時間に白湯を飲んだりもしました。そんな感じで、ありとあらゆることをやりつくしました。そうしたら、半年で体温が1度ぐらい上がったんです。それによってよく眠れるようにもなったし、体もすごく調子がよくなりました。
――ご主人の反応はどうでしたか?温活(妊活)をしていたその時期は、ご主人と気持ちの共有などはしていたのでしょうか?
ノラ 「それもいいかもね」という感じで協力的でした。私が温活をしているときには、夫にはマカと亜鉛のサプリを飲んでもらっていましたね。
ただぶっちゃけて言いますと、10年近く一緒に暮らしていたので、なかなか夜の営みも数がうてないわけです(笑)
それでも、私ははっきりと「こうしたい」と言うほうなので、「排卵日当日とその前後の3Daysにすべてをかけろ!」と伝えていました。
ちょっと恥ずかしいんですけど、インターネットで、「エロい気分になる音楽」を検索して、うっすらかけておいたり、照明を少し変えたりしてみたり(笑)。そういう工夫もしていましたね。
夫婦で頑張ったこの時間は、今思い返すと、これまでの中で一番、同じ方向を向いてすごく協力し合っていたと思います。それまでは、なんとなく友だちみたいな関係の夫婦だったんですが、「これが夫婦なんだ」と初めて思えたんです。
私、とにかく後悔だけはしたくない性格なんですよ。それで、これでできなかったら踏んぎりもつくなと思いました。結果的には、半年ぐらいで妊娠することができたんです。
――妊娠中はどんなふうに過ごしていたんですか?
ノラ 最初は食べづわりもありましたが、妊娠中はとにかく、めちゃくちゃ楽しかったです。子どもが生まれたらいろいろとできないことも増えてくるからと、妊娠中にやりたいことリストを作って、それを実践していました。
たとえば、大きくなったおなかにバレーボールを描いてマタニティフォトを撮ったり、三つ星レストランに行ったり、ミュージカルを見に行ったり。あとは、アルバムを整理したり、歯医者に行って歯を全部きれいにしてもらったりもしました。今しかできないことを、この機会にめっちゃ楽しもうと思ったんです。
42歳で、思いがけないフルコース出産!産後の回復までは1年かかった
――42歳での出産はどうでしたか?
ノラ 出産は地獄でしたね。あんなに痛いものだと思っていなくて・・・。こういう仕事をしているので、いろいろなことがネタにできたらいいなと思ったし、私の母親も経験しているので、軽い気持ちで自然分娩を選んだんです。
でも、いざ出産となったら、陣痛が来てから24時間以上も赤ちゃんが下りてこなくて・・・。陣痛促進剤を入れてもダメで、バルーンを入れても全然下りてこなかったんです。それが本当につらくて、「先生!もう無理です!やめたいです!」と言ってしまったぐらい。
そうこうしているうちに、少し血圧が下がってきてしまったようで、帝王切開に切り替えましょうとなってしまったんです。私はそのとき、「とにかく何でもいいから、早くしてくれ〜」と叫んでいました。結局、出産は自然分娩から始まり、24時間以上の陣痛をへて、帝王切開への切り替わり・・・。予想外すぎる、出産のフルコースになってしまいましたね。妊娠中にフルコースを食べたのがいけなかったのか(笑)
――娘さんが生まれた瞬間は、どうでしたか?
ノラ 帝王切開で先生が取り上げてくれたうちの娘を見て、私の隣にいた助産師さんの第一声が、「毛量、多っ!」だったんですよ。普通なら、「かわいい女の子ですよ〜」と言うじゃないですか。それで、私も娘を見てみたら、本当に毛量が多すぎて(笑)。それが、出産直後の衝撃的なできごとでしたね。
夫はコロナ禍の影響で立ち会いができず、退院時に迎えにきてくれたんですが、例の助産師さんが夫を見て、「だんなさんも毛量が多いんですね」とひと言。「どんだけ毛量のチェックしてんだよ!」と、思わず心の中でツッこんでいました。
――出産後の体調はどうでしたか?
ノラ 産後は、帝王切開の傷がとにかく痛くて動けないし、せきするだけで激痛だし・・・。そのとき、コロナ禍で本当によかったなと思いました。これ、だれかが面会に来てくれても、笑える自信はなかったですね。人に会う余裕すらなかったです。
産後の回復のために、先生からは「2日後ぐらいから歩いてください」と言われたので、しかたなく、1歩1歩ゾンビのように歩いていました。そのときに、前から20代ぐらいの若いママが、フルメイクに髪もきれいに巻いた状態で、「めちゃ余裕だったー!めちゃ暇だわ〜」と電話をしながら歩いていたんです。そのときに初めて、これが高齢出産の現実なんだなと実感しました。やっぱり、若いうちに産めとはこういうことかと。同じ世界とは思えなかったですね〜。
――娘さんが生まれた直後は、どんな気持ちでしたか?
ノラ まだ目もしっかり開いていないのに、一生懸命におっぱいを求めている娘の姿を見て、「ああ、本当に産んだんだな」とあらためて思いました。あとは、「でかしたな、私」「私、頑張っている、えらいえらい!」と、自分をほめまくりましたね。そうしないと、やっていけないような状態でした。産後は、うれしい気持ちよりも、しんどいのほうが勝っていたかもしれないです。
ちなみに、出産直後の親子写真も、私が“かろうじて生きてます”状態で写っていて(笑)。その写真を見るたびに、「42歳、丸出しだわっ」って感じで、もう少し身なりとかきちんとしておけばよかったな〜と。それはかなり後悔です。もう少し、きれいにして撮りたかったなと今でも思います。
――退院してからの体調はどうでしたか?
ノラ 全然回復しなくて、普段どおりに戻るまでに1年はかかったと思います。帝王切開の傷はまだ痛いですし。そのことをブログで質問したら、「20年たっても痛いです」とか、「雨の日は痛くなります」というママさんがけっこういました。ほかにも、尿もれがあったり、常に寝不足状態だったので、ずっと体が疲れているような状態でしたね。
あとは、“子育て脳”になっているからか、今までのように反射的にボケるとか、ツッこむとかができなくなっていたんですよ。ラジオ番組で、普通に本名で自己紹介してしまったこともありました。
バレーボールの強豪チームで培った精神力が、芸人としての自分の土台に!
――中高時代は、バレーボールの強豪チームでキャプテンもつとめたそうです。当時の経験は、芸人としての仕事にいかされていますか?
ノラ それはもう、すごくいかされています。私の今の人生の土台になっているのは、小中高で経験したバレーボールですね。監督やコーチから愛情を持って厳しく指導してもらったおかげで、心技体が鍛えられました。たぶん、バレーボールをやっていなかったら、芸人になろうとは思ってなかったし、人格さえも違っていたと思います。
キャプテンをやった経験があったから、今、人前に堂々と出ていったり、しゃべることができていると思うんです。精神的にも肉体的にも鍛えられてきたから、ロケなどで大変な仕事があっても、心が折れずに頑張れるのかもしれないです。
――31歳でお笑いの道に再挑戦したことや、41歳で妊活にトライしたことにも、バレーボールでの経験が関係していますか?
ノラ 小学校で所属していたクラブチームが強豪で、私の上の代と下の代が全国で優勝したんですが、私たちの代は思うような結果が出ませんでした。悔しかったですね、初めての挫折でした。そのときに、努力をすれば結果は出ることもあるし、それでも努力が報われないこともあるというのを、小学生ながらに知ったんです。それでも結果が出なかったとしても、頑張れた自分は誇れる。そんなバレー経験が今でも自分を励ましてくれたり、勇気づけてくれています。何においても、自分が後悔なく納得するまでやりきる事が大事。だから、31歳で芸人にもう一度挑戦したり、妊活ができたんだと思います。
卒乳時期は人それぞれ。自分も後悔しないように、娘のタイミングにとことんつき合った
――Instagramで投稿していましたが、娘さんが3歳のときに卒乳したそうです。
ノラさん(以下敬称略) 3歳になったばかりの春から保育園に入園したのですが、それまでに、だんだんと飲む回数や飲んでいる時間が減っていって、おっぱいから卒業していった感じでした。最後のほうは、飲む日もあれば飲まない日もあったりで、たぶん母乳は出ていなかったと思うので、おっぱいを吸って安心して眠るためにおっぱいを吸っていっていたんだと思います。「そういえば、おっぱいを飲まなくても眠るようになってきたな」という感じで、いつの間にか授乳の終了となりました。
卒乳までの3年間の授乳は、いろいろなことがありましたね。仕事をしながら搾乳したり、冷蔵庫がない場所では泣きながら水道に母乳を捨てたり。乳腺炎になってしまったこともあるし、娘にかまれて乳首が血まみれになったこともありました。
卒乳のタイミングは娘にまかせていて、最後までとことんつき合おうと決めていました。だから、娘自身も満足して卒乳できたと思うし、私自身も授乳に関しては悔いがないぐらいに授乳に関してはやりきれたので、それはもうすがすがしい気分でしたね!
――卒乳の時期などについてに関しては、いろいろな意見があると思います。とことん娘さんにつき合えたことで、よかったなと思うところはありますか?
ノラ 私、何歳のころかは覚えていないんですけど、母親のおっぱいを飲んでいた記憶があるんです。すごく安心できて幸せで、温かくて、あれは天国だったなと。母が私を抱っこしながら背中をトントンしてくれていているのも覚えていますね。この幸せな時間を、娘にもなるべく長く感じさせてあげたかったんです。
でも、私のおっぱいがいつか出なくなるかもわからしれないし、娘が飲んでくれなくなる可能性だってありますよね。娘が、もうおっぱいはいらないとなっても、私自身が後悔しないように、できることはしようと思っていました。
ただ1歳を過ぎると、まわりから、「まだおっぱいあげてるの?」なんて言われるようにもなったんです。なんだかわからないけど、“母乳は1歳でやめるもの”みたいな風潮があるんですかね・・・。そういう周囲からの言葉を、当時はストレスに感じていたし、母乳ハラスメントじゃないかと思っていましたね(笑)。「じゃあ、どうして1歳でやめないといけないんですか?」と逆に聞いても、何も返ってこないんですよ。
私も自分なりに調べてみたけど、母乳のあげ方に決まりはなくて、人それぞれだと思うんです。だったら、私は、娘が欲しがるうちはあげたいなと思ったんです。
3歳になって、おっぱいを卒業して、保育園にも入園して。まだまだ子育ては続くけど、ひとつの区切りとして、夫と母と3人で乾杯しました。「お疲れ!」「頑張ったよね」と、お互いにねぎらい合いましたね。
お話・写真提供/平野ノラさん 取材・文/内田あり(都恋堂)、たまひよONLINE編集部
一度は社会人を経験し、31歳から再び芸人をめざしたノラさん。41歳のときには自己流で妊活に挑戦したり、母乳育児では娘さんにとことんつき合うなど、自分が後悔しないために全力でやりきることをずっと大切にしてきました。子どものころにはバレーボールの競合チームでキャプテンを経験。そこで培った精神力の強さも、今のノラさんの土台になっているようです。
後編では、ノラさんの人生を変えた“片づけ”との出会いや、娘さんとの日常について聞きます。
平野ノラさん(ひらののら)
PROFILE
1978年、東京都出身。お笑いタレント。31歳のとき、ワタナベコメディスクールに13期生として入学し、2010年12月にデビュー。2017年12月に一般男性と結婚し、2021年3月に第1子となる女の子を42歳で出産。日本バレーボール協会評議員や、芸能人バレーチーム「KANORA JAPAN」の代表もつとめる。片づけ本『部屋を片付けたら人生のミラーボールが輝きだした。』(KADOKAWA)が発売中。
●記事の内容は2025年5月の情報で、現在と異なる場合があります。