「この子と一緒に、この世を去ろう」と、二女の顔に枕を押し当てそうになった夜も。絶望の日々が続く中で【自閉スペクトラム症】
インスタグラムのフォロワー数、約23.2万人(2025年12月現在)の大人気インスタグラマー・蓬郷由希絵(とまごうゆきえ)さん。重度知的障害と自閉スペクトラム症がある二女ゆいなちゃん(14歳)と向き合う姿がとても印象的です。
ときにはユニークなフェイスペイントをしてのインスタライブなど、明るい家族の様子が伝わってきます。楽しそうな蓬郷さんですが、ゆいなちゃんが自閉スペクトラム症とわかったときは、落ち込み、悩んだそうです。ゆいなちゃんの成長について聞きました。全2回のインタビューの前編です。
話さない、笑わない…「お姉ちゃんとは何か違う」という違和感
――ゆいなちゃんの様子が気になるようになったのはいつごろからですか?
蓬郷さん(以下敬称略) 1歳くらいまではとくに気にすることがありませんでした。それがだんだん「何か変だな?」と思うことが増えて…。
目が合わないし、言葉もまったく発しません。呼びかけても振り向かず、抱っこしようとすると嫌がって大暴れでした。
いちばん気になったのは、笑わないこと。どんなにあやしてもまったく反応がなかったんです。そうかと思うと、コップの水を見て楽しそうに笑っていて…。
目の前に私がいても、まったく関心を示しません。ゆいなより3歳年上の姉・ここなが赤ちゃんのときの様子とはまったく違いました。
「もしかしたらゆいなは自閉スペクトラム症かもしれない…」と不安に感じていました。
「困ったことはありますか?」の質問に大号泣
――ゆいなちゃんの様子を見て「自閉スペクトラム症かもしれない」と感じたのは、なぜでしょうか?
蓬郷 私は大学で福祉について学んでいました。あるとき、たまたま自閉スペクトラム症児の育児を描いたマンガ『光とともに…』(秋田書店・戸部けいこ)を友人から借りたんです。「言葉を理解せず、コミュニケーションが取りづらい子がいるんだ」と驚いて。それから障害児に関するゼミを履修し、卒業論文のテーマには「自閉スペクトラム症」を選びました。
そんな学生時代の学びにより、自閉スペクトラム症に関する知識はあったんです。でも、だからといって自分の子どもの状況を簡単に受け入れられるわけではありませんでした。「まさか自分の子が…?」と、不安でいっぱいで。さまざまなことを検索しすぎて、追いつめられていきました。
――専門家とつながったきっかけはありますか?
蓬郷 1歳半健診のときに、保健師さんに相談したのがきっかけとなりました。集団健診だったのですが、ほかの子たちは、いろんなことができていました。ちゃんと指示は伝わるし、ママが保健師と話をしているときは、きちんとおすわりして静かに待てる子ばかりで。
ところが、ゆいなは検査をひとつもまともに受けることさえできませんでした。気になるものがあると、周囲を気にすることなく、バーッとはいはいで移動してしまって。会場のなかで悪目立ちするほどでした。
保健師に「子育てで不安なことはありますか?」と聞かれ、「何もかも不安です。毎日すごく大変なんです」と涙がボロボロあふれてしまいました。
本当はすぐにでも、自閉スペクトラム症かどうかを調べる検査を受けたかったものの、順番待ちで、かなり待つことになりました。
「一生話せないかもしれない」と言われ目の前がまっくらに
――ゆいなちゃんが検査を受けたのはいつですか?
蓬郷 2歳になり、ようやく病院で脳波を調べてもらい、その後、児童相談所で田中ビネー知能検査を受けました。初回の知能検査では中度と診断されたものの、その後「重度知的障害を伴う自閉症(※)」との診断を受けました。そして医師からは、「おそらくこの子は一生話すことはないでしょう」と言われました。
――診断を受けたときはどんな気持ちでしたか?
蓬郷 未来が閉ざされたようで、目の前がまっくらになりました。「一生話せないってどういうこと?『お母さん』と呼んでもらえないなんて・・・」と、衝撃で何も言えなかったです。一方で、頭の片すみでは「やっぱりそうだったんだ…」と納得もしていたんです。
唯一の希望は、発達に特性がある子どもに、生活や社会性を身に着けさせるための支援である療育を受けることでした。そのときの私は、「療育さえ受ければ、困りごとはきっと解決する」と思っていたんです。ところがそれは大間違い。本当に大変なのは、療育を受け始めてからでした。
※現在は自閉スペクトラム症、または自閉症スペクトラム障害という診断名が使われる。
マイナスからのスタートだった療育に疲弊…
――療育ではどんなことが大変だったのでしょうか?
蓬郷 療育に行く前までは、「療育に通い始めれば専門の先生がすべて対応してくれる」と思っていたんです。
ところが、療育は、支援が必要な子が生活ができるようになっていくための練習方法を教えてくれる場所でした。実際に訓練するのは親の私だったということです。
そのころの私は日々の生活だけでいっぱいいっぱいで。自分がこの子にさらに教えていかないといけないのかと思うと、療育を続けていけるのか不安になりました。
ただ、最初に担当の先生に会ったとき、先生はズバズバとゆいなのことを言い当て、将来の姿を予言してくれました。たくさんの子を見て来ていたから、ゆいなの将来の予測がついたのだと思います。
――どんなことを言われたのでしょうか?
蓬郷 「ゆいなちゃんは言葉が出ないだけで、ちゃんとわかっていますよ。いろんなことをよく見て、じっと観察もしています。この子は何もわかってないわけではない」と言われました。
その指摘にハッとしました。私は、ゆいなは何も理解できていないと思いこんでいたからです。先生は、私のそんな思いを鋭く指摘してくれたんです。
さらに驚いたことに「ちゃんと座って鉛筆を持って、地元の小学校の特別支援学級で授業を受けましょう」と、私には想像のつかないようなゆいなの未来を考えて伝えてくれたんです。
それまで私は、ゆいなは特別支援学校に入学するものとばかり思っていたので、とても驚きました。
特別支援学校か、特別支援学級か
――「特別支援学校」への入学を考えていたのはどうしてですか?
蓬郷 特別支援学校は障害があったり、医療的ケアを必要としていたりする子たちが通う学校です。専門の先生がいて、自立のための訓練をしてくれます。
一方、特別支援学級は、心身に障害がある子たちのために、地元などの小学校内にある学級です。一般的に、特別支援学校のほうが支援の範囲が大きく、1クラスを担当する教員の数も多いです。
療育を受ける前のゆいなは、言葉を理解できていませんでした。今後、身のまわりのことを自分でするのも難しいだろうと私は考えていました。だから、特別支援学校以外の選択肢はないと考えていたんです。
――「特別支援学級進学を目標に」と言われたときは、どう思いましたか?
蓬郷 「無理に決まってる・・・」と、先生の言っていることの意味さえよくわかりませんでした。だって、目の前のゆいなは指示もわからず、きちんと座ることもできません。言葉もまったく発しなかったんです。
でも、先生は一条の光のような存在でした。何があっても信じていくしかないと、がむしゃらについていくことにしました。
「この子と一緒にこの世を去ろう」と顔に枕を押し当てようとしたことも
――療育はどのように進みましたか?
蓬郷 言葉を理解していない子に、日常生活のごく当たり前のことを教えることは至難のわざでした。たとえば「いすに座る」という動作を教えるにも、そもそも「座るとはどんな動きか」、「いすとは何か」ということも理解していないんです。だから体で覚えさせるしかなくて。どんなに嫌がっても無理やり座らせるしかありません。
言葉で指示することがかえって混乱につながるので、言葉をあまり使わず、指差しなどで伝える場面を多くしました。
――ゼロからのスタートだったと思います。
蓬郷 ゼロどころか、出発地点はマイナスだったと思います。どんなに頑張っても、何度も何度も練習しても、いっさい変化はなくて。泣いて嫌がるゆいなを見て「私はこんなに必死に頑張っているのに、どうして伝わらないんだろう・・・」と、私も一緒になって涙をこぼしていました。
「この子と一緒に、この世を去るしかない」と思い詰めたこともあります。眠るゆいなの顔に、枕を押し当てそうになった夜も・・・。
――とてもつらかったのが伝わります。なぜ思いとどまれたのでしょうか。
蓬郷 なぜかその夜、ゆいなと姉のここなが手をつないで寝ていたんです。その姿を見て「ここなから妹を奪ってはいけない」とわれに返りました。あのときの私は、取り返しのつかないことをするギリギリのところにいました。
現在、ゆいなは当時からは想像もできないほどのおしゃべりです。ほかの子の何倍も時間をかけ、地道に一歩、また一歩、と成長してくれました。
少しずつ変化してきて、希望が芽ばえるように
――ゆいなちゃんの成長を感じたのはいつごろですか?
蓬郷 療育に通い始め、半年くらい経ったあたりからです。ゆいな自身も「先生やかーかん(蓬郷さんのこと)がやろうとしていることは、何か意味があることかもしれない」と気づき始めたようでした。
変化のきざしが見えたことで、私も腹をくくることができました。「ゆいなのペースで成長しているんだ」と、できるまでじっと待ち続けました。
少しずつ言葉も出てくるようになりました。障害の診断のとき「この子は一生話せないかもしれない」と言われていたにもかかわらずです!
――普段の生活の中で、言葉が出るための工夫はしましたか?
蓬郷 私はどうしてもゆいなに話をしてもらいたかったんです。だから、ゆいなの気持ちを先回りして言葉を代弁しないようにしていました。お菓子を手の届かない場所に置き、だれかに頼まないと食べられないようにもしました。
そのおかげでゆいなが初めて発した言葉は「取って」でした。当時は怒とうの日々を過ごしていたので、具体的にいつごろだったか、はっきりと覚えていません。でも、療育を始めてまもなくだったと思います。
――診断で「言葉が出ないかも」といわれたのに、あきらめなかったのはどうしてでしょうか?
蓬郷 ここなが「ゆいなは全然おしゃべりしないなあ。お話ができないの?」と聞いてきたからです。ほかのお友だちの弟や妹が話をしているのがうらやましかったようで。ここなと話ができるようになってもらいたいと思いました。
ゆいなに言葉を教える際は、わんわん・ブーブーなどの幼児語は使いませんでした。後から言葉が変わると混乱しやすいからです。最初から日常で使われる呼び方で教えるようにしていました。家族以外の人ともコミュニケーションをとれるようになったのは、もう少し先、小学4年生くらいからです。
就学を考えるころには、療育を始めた当初からは想像もできないくらい、ゆいなはいろんなことができるようになってきました。
特別支援学級では教師と連携をとり、大きく成長できた
――ゆいなちゃんは療育での最初の目標のとおり、特別支援学級への進学をしたのでしょうか?
蓬郷 はい。特別支援学級に進学しました。家族で特別支援学校も見学したのですが、ここなが「ここで教えてくれることは、ゆいなは全部できるよ」と言っていて。いちばん身近で見ていたここなの言葉を信じました。もちろん、特別支援学校を選ぶのもいい選択だと思います。でも、これまで特別支援学級で学ぶことを目標にしていたゆいなには、この進路が合っていると判断しました。
――実際に進学して、いかがでしたか?
蓬郷 学校の先生と連携を取り、親子で頑張りました。ゆいなも大きく成長したと思います。
現在、ゆいなは14歳になりました。診断を受けたときは「言葉は出ないでしょう」と言われたけれど、今はしっかりと会話できます。身のまわりのことも、料理や洗濯もできます。
もしかすると、私の話を聞き「うちの子は障害があるだろうか?」と心配になってしまう人がいるかもしれません。
でも過度に不安にならないで、と伝えたいです。もし気になることがあれば、早い段階で専門機関に相談してほしいです。そうすれば療育などともつながることができます。
情報を得ることができると、きちんとした対応がとれるはずです。どんな人たちも 「大丈夫。どうにかなるっちゃ!(どうにかなる)」です。
お話・写真提供/蓬郷由希絵さん 取材・文/齋田多恵、たまひよONLINE編集部
とても明るく、おしゃれな蓬郷さん。SNSでは前向きさはもちろん、これまでのつらかった出来事も隠さず発信してくれています。子どもと向き合うことをあきらめず、「今はつらい人も、きっとどうにかなる」という力強い言葉に、励まされる人が多いのではないでしょうか。
インタビュー後編では、蓬郷さんが発信を続けている、現在の様子について聞きます。
「たまひよ 家族を考える」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることを目指してさまざまな課題を取材し、発信していきます。
蓬郷由希絵(とまごうゆきえ)さん
PROFILE
インスタグラマー。1984年生まれ。岡山県津山市在住。重度知的障害のと自閉スペクトラム症がある児の母。長女・ここな、二女・ゆいな、釣り大好き夫の4人家族。インスタグラムで家族の日常や子育てのリアルを、ユーモアを交えて発信。多くの共感を呼び、全国から講演会のオファーが絶えない。2025年9月に初めての著書『どうにかなるっちゃ 知的障がいのある自閉症児ゆいなの母の記録』を出版。
●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●記事の内容は2025年12月当時の情報であり、現在と異なる場合があります。
『どうにかなるっちゃ 知的障がいのある自閉症児ゆいなの母の記録』
全国から講演会オファーが殺到、メディア出演でも話題。知的障害を伴う自閉スペクトラム症児ゆいなちゃんの母、蓬郷(とまごう)由希絵さんの初エッセイ。キャラも濃いけど、愛はもっと濃い。子育てで心折れそうになっているすべての親・家族に、「大丈夫だよ。」と伝える希望の書。蓬郷由希絵著/1760円(KADOKAWA)


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