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「病が進むと産めなくなる」切迫流産を乗り越えての出産。治療法のない遠位型ミオパチーになった母の覚悟

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織田さん夫妻と当時1歳の栄一くん。

大学4年生のとき、治療法の確立されていない進行性の筋疾患「遠位型ミオパチー(※)」と診断された織田友理子さん。当時交際していた洋一さんとの結婚を経て、長男・栄一くんを出産しました。その後、病気と闘いながらも患者会を立ち上げ、同じような状況にある人たちのためにさまざまな活動を続けています。織田さんに、診断までの経緯や出産・育児の経験、そして現在の栄一くんへの思いを伺いました。

「たまひよ 家族を考える」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることを目指してさまざまな課題を取材し、発信していきます。

※遠位型ミオパチー…体幹から遠い筋(遠位筋)である手足から全身の筋肉が低下していく難治性疾患。20~30代で発症する人が多い。日本の患者数は400人程度と推測されている。

「今より病気が進行したら出産できない」と言われて…

――織田さんが、遠位型ミオパチーと診断されるまでの経緯を教えてください。

織田 大学2年のころから、だんだん体の変化を感じはじめました。1日1回は転ぶようになって、ひざにいつも擦り傷があるほどでした。キャンパスでは友達と同じ速度で歩けないばかりに、申し訳なくてだんだん1人で行動するようになっていました。

 当時は公認会計士を目指して勉強に励んでいたので、そういった体の不調には目を背けていたんです。でも大学4年生のとき、必死に勉強したのに不合格になってしまって…。そのころには自宅の階段を這うようにしか上がれなくなって、体がだまし切れない状態になったことに気づきました。心配した父親の勧めもあって病院に検査入院して、遠位型ミオパチーだと診断を受けました。

 病名がついたことは、むしろスッキリしました。今は治療法もわからず、治療薬もないけれど、名前がわかれば戦いようはある、と。神経内科系の病気って診断が難しいと聞くので、先生方には「見つけてくださってありがとうございます」という気持ちでした。

――当時お付き合いしていた洋一さんとの結婚は、主治医の先生の言葉がきっかけだったそうですが…。

織田 彼とは大学2年生のときにお付き合いを始めたのですが、実は遠位型ミオパチーの診断を受けたときに「別れたほうがいい」と伝えていたんです。彼は「別れない」の一点張りでしたが、同情で付き合ってもらうのは絶対に嫌で、ことあるごとに別れ話は何度もしていました。

 告知から3年後に、主治医の先生の異動が決まったので、ご挨拶に伺ったときに「異動になるから、言いっぱなしになって申し訳ないけど…あなたたち、ご結婚は?」と聞かれて。彼も同席していたのですが、突然の質問に驚きつつも私は「まだですよ~、24歳だし!」と笑って話しました。先生は真剣な顔で「彼は席を外してくれる?」と言って、彼が外に出ていくと「できる限り早く結婚・出産しないと、今より進行したら産めなくなる可能性がある」という話を伝えられました。

 私は特発性血小板減少性紫斑病という血液の病気もあり、血が止まりにくい体質で、帝王切開もリスクが高いとのことでした。私の病状を良く知る先生の、私の今後の人生を考えてのアドバイスだと感じました。そのときは「そうですか…」と聞いていたんですけど、診察室を出たらショックで立っていられなくて、泣き崩れてしまいました。外で待っていた彼は驚いて「どうしたの、どうしたの」と駆け寄ってきました。

――2人でどのようなお話をされたのですか。

 私の話を聞いて彼は「じゃあ、(結婚・出産は)今だね」と言ったんです。この人何も考えてないんじゃないか!?と私は逆にイラッとしたんですけど…(笑)。私の中では結婚と出産ってセットではないし、「子どもができなかったら、そもそもこの結婚はどうなんだろう?」と思ってしまって。それで彼に「ブライダルチェックを受けましょう。どちらかに不妊の可能性があったら、この結婚はなかったことにしましょう」と伝えました。いいアイディアだと賛同してくれると思ったら、「そんなの受けない」と突っぱねられて。

――そういう理由で結婚したいわけじゃない、と。

 「自分がパートナーとしてそばにいたいから結婚するんだ」と言ってくれて。そのあとで、彼はご両親や親戚の方々とも話をしてくれたのですが、誰も反対しないで「頑張って」と言ってくれました。当時の私は、もうちゃんと歩けていなかった時期だったので、彼の覚悟が伝わりましたし、私の覚悟も決まって、結婚することになりました。

「自分の筋肉よりも、おなかの赤ちゃんが大事」と思えた

出産直後の写真。母乳をよく飲む2812グラムの元気な男の子が生まれました。

――ご結婚の翌年に出産されました。

織田 妊娠5か月目から、切迫流産で4か月ほどずっと入院していたんです。子宮頸管が短くなっていて、流産の可能性があるのでおなかの張り止めの点滴を24時間打って、トイレと食事のとき以外はずっと横になっていました。

 私の病気は、だんだん全身の筋肉が萎縮して、いちど弱った筋肉は元に戻りません。無事に生まれるかわからないけれど、もし生まれてきてくれたとしても病気が進行していたら、ちゃんとお世話できなくなっちゃうかもしれない。当時はまだギリギリ歩けていたので、このまま筋肉がなくなるのが怖くて怖くて…。それで先生に「ベッドの上でリハビリさせてください」と言ったんですが、絶対安静だからだめですと言われました。

 でもエコー写真で日に日に大きくなる子を見るうちに、「この子も頑張ってる。自分の筋肉より、赤ちゃんの命のほうが大事」って、ストンと納得できました。それからはずっと病室で安静にして、同室の妊婦さんたちと励まし合って過ごしました。前駆陣痛が始まってしまってMFICU(母体胎児集中治療室)に緊急搬送されたこともありましたが、なんとか臨月まで過ごすことができて、元気な男の子(栄一くん)を出産しました。

――産後の生活はいかがでしたか。

織田 そこまで筋力は落ちていなかったのですが、もし私が転んで赤ちゃんが頭を打ってしまったら大変だとか、心配ばかりしていました。そのときはまだ車いすユーザーではなかったんですけど、私が車いすに乗ってひざの上で赤ちゃんを抱っこして、夫が車いすを押す方が安定しているし安全です。治すことをあきらめたような気がして内心乗りたくない気持ちが強かったのですが、車いすに乗ることを選びました。

 栄一が1歳になるころ、普段お世話を手伝ってもらっていた私の両親が、半年くらい父の仕事で海外に行くことになりました。夫は大学院に通っていて、日中は家にいません。両親は私と栄一を心配して「行っていいの?」と言っていましたが、せっかくの海外なのに両親が私のせいで行けなくなるのがイヤで「大丈夫!」と見送りました。

 栄一が絶対に外に出られないようにドアに鍵をかけたり、手の届くところに絶対に物を置かないようにしたりして、トラブルなく毎日を過ごしていました。でも、両親が帰国するちょうどその日に、栄一がどこかに置きっぱなしになっていた電池を手に取って、ニコニコしてなめていたんです。あのときは本当にびっくりして「栄くん!やめてっ!」とあわてて床を這いながら栄一に駆け寄りました。電池を飲み込むことなく回収することができたのですが、本当に肝が冷えたのを覚えています。

息子は息子、私は私の人生を歩んでいく

当時3歳の栄一くんと織田さん。車椅子を押してくれました

――栄一くんは高校2年生になった年でしょうか。大きくなりましたね。

織田 小さいころは本当にかわいくて、かわいくて。今でも私はかわいいと思っているんです、私に似たのか気が強くて憎まれ口ばかりきくのですが…(笑)。あまり多くを語らない子なんですけど、周りの友達や先生のことをいろいろと気にかけたり、プレゼントを用意したりしているみたいで、心が育っているから大丈夫かなと思っています。

――栄一くんとの親子関係で気をつけていることはありますか。

織田 3歳の誕生日に、栄一が「大きくなったら、ママをおんぶしてあげるね」と言ってくれたことがあるんです。でも、ある取材でスタッフさんに「大きくなったら、いろいろ(お世話を)してくれたらいいですね」みたいなことを言われたことがあって。そのとき「いや、私はそんなつもりで息子を生んだわけじゃないんです」という話をしたんです。私が障害者だからといって息子が制約を受けるようなことがあったら、それは私がいちばん悲しいことなので、私の障害に関わらず息子には生きていってほしい。そんなふうに説明していたのですが、それを聞いていた栄一が「ママ、えいくんがおんぶするの、こわい?」って言っていて…。子どもって、大人の考えていることを本当によく見ているんだなと感じました。

 症状が進行して、私は今では自分で飲んだり食べたり、顔にかかった髪をはらうこともできなくなりました。夫や周りの方々のサポートのおかげで生活していくことができているのは本当にありがたいことだと思っています。栄一もちょっと気がついたら飲み物にストローを指して「飲む?」と言ってくれたりして、そうやって気にかけてくれるのはうれしいです。

 ただ、息子は息子の人生を、これまでと変わらずに歩んでいってほしい。私は私で、遠位性ミオパチーの患者会としての活動や、車いすでもあきらめない社会をつくるための活動を続けていきたい。その気持ちはこれからもずっと変わらないですね。

取材・文/武田純子、たまひよONLINE編集部

●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●記事の内容は2023年7月の情報で、現在と異なる場合があります。

織田友理子さん

1980年千葉県生まれ。一般社団法人WheeLog代表理事、NPO法人ウィーログ代表理事およびNPO法人PADM代表。2002年に難病「遠位型ミオパチー」の診断を受け、2008年にその患者会「PADM」を発足させる。2014年にYouTubeチャンネル「車椅子ウォーカー」開設。2015年のGoogleインパクトチャレンジでグランプリ受賞。2017年にバリアフリーマップ「WheeLog!」アプリをリリース。“車いすでもあきらめない世界をつくる”をミッションに活動を展開する。

車いすでもあきらめない世界をつくる!ウィーログ2023(クラウドファンディング、7/31まで)

一般社団法人WheeLog

NPO法人PADM -遠位型ミオパチー患者会-

YouTubeチャンネル「車椅子ウォーカー」

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