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「産声をあげられないかも」「産道で心臓が止まってしまったらどうしよう」妊娠26週で二男を早産。産後は苦しい思いをだれにも打ち明けられず・・・【体験談・医師監修】

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優子さんはNICUに入院中の奏空くんに、毎日「早くお家に帰りたいね」と話しかけていました。

長崎県で暮らす杉村優子さん(39歳・助産師)、直哉さん(38歳・言語聴覚士)夫婦には、2人の男の子がいます。二男の奏空(そら)くん(4歳)は、妊娠26週のときに、体重1020gで生まれた極低出生体重児でした。優子さんに、奏空くんが生まれたときのこと、極低出生体重児の育児について話を聞きました。全2回のインタビューの1回目です。

1分1秒でも長くおなかにいさせてあげたかった

NICUに入院中の奏空くん。授乳は、母乳を綿棒に湿らせて飲ませてあげていました。

助産師として福岡県のNICUがある病院に10年以上勤務していた優子さん。第1子の龍空(りく)くんは福岡に住んでいた時期に妊娠39週、3740gで出産しました。その後、長崎県に住む直哉さんの両親と同居が決まり、優子さんは福岡の病院を退職し、家族で長崎に引っ越します。そして、引っ越しと同時に第2子の妊娠がわかりました。
第1子の妊娠時もおなかが張ることが多く、妊娠中期のころに子宮頸管が短くなったため早めに仕事のお休みをもらったという優子さん。

「私の場合第2子の妊娠でも注意が必要で、2週間おきくらいのこまめな妊婦健診を受けていました。そんな中、妊娠26週の妊婦健診時にごくわずかな出血があったんです。内診台で診察してもらうと『赤ちゃんがおりてきている』とわかり、周産期母子医療センターがある病院に救急搬送されることとなってしまいました。

まさか、妊娠26週での出産になってしまうのかもしれないと、突然のことにあせる気持ちがあったけれど、とにかく1分1秒でも長く赤ちゃんをおなかにいさせてあげなきゃ、という気持ちが強かったです。一方で、あわててもどうしようもないことも、このあと自分がどういう経過をたどるのかも、助産師の経験でわかっていました。不安な心と反対に頭はすごく冷静で、搬送先の病院に到着し、看護師さんから『なんでそんなに落ち着いてるの』と言われるくらい。心と頭が分離したような状態だったと思います」(優子さん)

頭では常に最悪の事態を想定して・・・

奏空くんが生まれた直後。「小さな産声が聞けてほっとした」と優子さん。

搬送先の長崎医療センターでは、陣痛を抑える点滴をしながら、万が一赤ちゃんが産まれたときに呼吸が苦しくならないような注射を打つなどの処置がされ、そのまま入院となりました。

「先生からの説明はなかったけれど、いつ生まれてもおかしくない状況だということは雰囲気からひしひしと伝わってきました」(優子さん)

院内のLDR(陣痛・出産・回復室)に移動した優子さん。経膣分娩と緊急帝王切開、どちらにも対応できるように準備が進められました。優子さんは、医療者として赤ちゃんの状態についての知識があるからこその不安も大きかったそうです。

「頭の中では常に最悪の事態を想定していました。狭い産道を通って生まれてくることは、赤ちゃんにとってすごくストレスがかかること。体が通常より小さければなおさらです。赤ちゃんが生まれてくるときに苦しくなって心臓が止まってしまったらどうしよう、それだけは避けたい、と思っていました。もし心肺停止してしまったら蘇生してもらっても障害があるかもしれない、ということも心配でした。LDRに移動してから一時は1時間に4回ぐらいの不規則な張りになったこともあり、妊娠の継続ができるかも、と淡い期待を持った瞬間もありました」(優子さん)

しかしやはり、おなかの張りは徐々に強まり、入院して2日目の夕方、優子さんは経膣分娩で第2子の奏空くんを出産します。

「上の子は大きくてなかなか出てこなかったので、生まれたときには『やっと生まれた!』という安堵感がありました。でも奏空は、陣痛がすごく強くなってから3回くらいいきんだだけでスルッと生まれてきました。とってもあっけなく感じて『2人目の妊娠はこれで終わってしまったんだな・・・』と、寂しいような気持ちも重なり涙がこぼれ出ました。

そんな私を励ますかのように、奏空は、生まれてすぐにしっかりとした産声(うぶごえ)を上げてくれたんです。声が出るということは、呼吸ができているということです。とっても小さな体で産道を通ってきたのに、ちゃんとしっかり泣いてくれました」(優子さん)

奏空くんは、体重1020g、身長34.5cmの小さい赤ちゃんでした。

「体温を守るためにすぐにラップで包まれ、さらにタオルでくるまれた奏空を、助産師さんが私の胸のあたりへ連れてきて会わせてくれました。無事に生まれてきてくれたことに感謝する一方で、NICUに1人で行かせることに申し訳なさを感じました。本当なら近くで見守っていてあげたいのに・・・命を守るためだけれど、体に管を入れられたり、点滴の針を刺されたり、痛いこともいっぱい経験させてしまう。そういう試練を与えてしまうことに『ごめんなさい』という気持ちでいっぱいでした」(優子さん)

軽すぎて重さを感じなかった、初めての抱っこ

優子さんが初めてカンガルーケアをしたときの様子

陣痛から出産までの間、夫の直哉さんはずっと優子さんのそばにいて励まし続けてくれました。生まれてすぐに保育器に入りNICUに向かう奏空くんに、夫婦2人で「頑張れ!」と声をかけたそうです。小さく生まれた奏空くんは、幸いにも呼吸などの状態は良好でしたが、優子さんと直哉さんは、医師から『72時間は何があるかわかりません』と説明を受けました。

「『何があるかわからない』と言われた3日間が過ぎるまでは、できる限り奏空のそばにいたいと思いました。3時間ごとに搾乳した母乳を持って面会できたので、夜中も看護師さんに起こしてもらって、搾乳して面会をしました。私の産後入院中は、面会時間ギリギリまでNICUの奏空に会いに行って、自分のベッドに戻って泣いて・・・その繰り返しでした。

私が勤務していたNICUには32週以降の赤ちゃんしかいなかったので、26週で生まれた赤ちゃんに携わったことはありませんでした。保育器にいる奏空は小さくて、皮膚もとても薄かったです。触れただけでこの子の命にかかわるんじゃないか、この子の体の負担になるんじゃないか、と触れることもこわかったのを覚えています」(優子さん)

優子さんは産後5日で退院し、その後は週に3〜4日、車で片道40〜50分の距離にある長崎医療センターまで、毎日搾乳した母乳を持って通う日々でした。

「面会時間の9時から16時まで、昼食の時間以外はずっとNICUの奏空のベッドサイドで過ごしました。ずっと奏空と一緒にいたかったし、自分で状態を確認したかった気持ちもありました。
初めて抱っこをしたのは、奏空が生まれて7日目のこと。軽すぎて重さを感じなかった、というのが正直な感想です。赤ちゃんというよりは、バスタオルだけ抱っこしているような感覚。だけど、やっとこの手に抱っこできたことがうれしくて・・・。保育器に戻したくなくて、このまま連れて帰りたくてたまりませんでした。

面会のときには、奏空の状態がよさそうなときに、看護師さんに『いいですか?』と聞いて、ミルクをあげたり、おむつ交換したりとお世話をしていました。でも自分の子なのに、看護師さんに許可を取らないと抱っこすらできないことに、すごく寂しさを感じました」(優子さん)

2カ月間、だれにも思いを打ち明けられない孤独

呼吸器がとれて、初めて奏空くんの顔が見えた日

妊娠26週で突然の出産となったことや、奏空くんの状態への不安から、優子さんは自分の気持ちの整理がつかず、2カ月の間、出産したことを友人たちに伝えられませんでした。

「NICUに入院している間、とくに生まれて2カ月くらいまでは奏空が最悪の場合は命を失ってしまうかもしれない、と常に考えていたために、家族以外に出産のことを言えないままでした。奏空の生後2カ月を過ぎたころ、たまたま上の子と同い年の子がいるママ友の2人目が早産だったと聞きました。そのママと上の子の遊び場で一緒になったときに『実は2人目が早産になって・・・』と打ち明けてみたら、『私も早産だったよ、夜は心配だよね』と話してくれたんです。同じ気持ちをわかり合える人がいることにすごく安心感があって、自分の本音を口に出すことができました。
それからは、心配なこともうれしい成長もモヤモヤした出来事も、彼女に聞いてもらえて・・・やっと孤独感から救われました」(優子さん)

奏空くんはNICUに入院中、感染症にかかり体調が不安定になったり、急な眼底出血で手術になりそうな危機もありましたが、なんとか病状は持ち直し、生後3カ月のころには体重2612gまで成長。医療ケアなどの必要がなく、退院することができました。

【青木幹弘先生より】赤ちゃんと離れて暮らす家族のケアも必要

NICUに入院する赤ちゃんとご家族は、本来であればずっと一緒にいられることにより築き上げられる家族としての「関係性」が難しくなります。そのことによって、赤ちゃんはもとより、ご家族も大きく傷ついていると感じます。NICUの医療従事者はこの状況を少しでもよくするために、家族ができるだけ赤ちゃんのそばにいられて、家族にもできるケアを行っていただく「ファミリーセンタードケア」を心がけています。このファミリーセンタードケアには家族の自己効力感を高めるだけでなく、赤ちゃんの治療成績を上げることも期待されています。

お話・写真提供/杉村優子さん 監修/青木幹弘先生(長崎医療センター)協力/板東あけみ先生 取材・文/早川奈緒子、たまひよONLINE編集部

助産師として早産のリスクの知識があるからこそ、最悪の事態を想定して不安が募っていた優子さん。自分を責め、苦しい気持ちを2カ月の間だれにも打ち明けられなかった経験から、『自分と同じような思いのママの気持ちに寄り添いたい』とリトルベビーサークルの活動を始めます。インタビュー2回目の内容は、奏空くんの発達の様子と、優子さんのリトルベビーサークル設立についてです。

「たまひよ 家族を考える」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることを目指してさまざまな課題を取材し、発信していきます。

●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●記事の内容は2023年11月当時の情報であり、現在と異なる場合があります。

青木幹弘先生(あおきみきひろ)

PROFILE
1987年長崎大学卒業。独立行政法人長崎医療センター新生児科部長。
日本小児科学会医認定小児科専門医。日本周産期・新生児医学会認定暫定指導医。日本周産期・新生児医学会評議員。日本新生児成育学会代議員。新生児医療連絡会長崎県代表。日本周産期・新生児医学会認定新生児蘇生法「専門」コースインストラクター。

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