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フリーアナウンサー・岡副麻希。最愛の母を亡くし、流産も経験したこの1年。乗り越えられたのは、夫の支えとかけがえのない娘の存在だった

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岡副さんの親友に撮影してもらったという、家族3人のナチュラルな家族写真。
岡副さんの親友に撮影してもらったという、家族3人のナチュラルな家族写真。

2024年5月に第1子を出産したことを自身のインスタグラムで発表した、フリーアナウンサーの岡副麻希さん。2022年にレーシングドライバーの蒲生尚弥さんと結婚し、現在は静岡県御殿場市にて家族3人で暮らしています。昨年、最愛の母を亡くしたときの話や、流産を乗り越えての今回の妊娠について聞きました。
全2回インタビューの2回目です。

母の死と流産が重なり落ち込む日々。そのとき、新しい命が救ってくれた

親友と、大好きなファミリア本店へ行ったときの岡副さん。
親友と、大好きなファミリア本店へ行ったときの岡副さん。

――結婚して、いつぐらいから子どもについて意識しましたか?

岡副さん(以下敬称略) 夫と結婚してから、赤ちゃんはすぐに欲しいなと思っていたんです。でも当時の私は、排卵がいつ起こっているのかなどの知識がほとんどなく、月経が来ている人なら、生理のとき以外であれば妊娠できると思っていたんです。その程度の知識からスタートしたので、なかなか妊娠はできませんでした。

いろいろと勉強し始めたら、妊娠の可能性が高いタイミングが月に1度しかないということがわかって、ブライダルチェックをしてもらうことに。そこで、甲状腺の数値が少し気になると言われ、数カ月に一度、検査をすることにしたんです。

その流れで排卵のタイミングも診てもらって、そこから、なんとなくの周期を把握し始めました。そして先生には、夫の出張が多いことを伝えると、体外受精という方法があると教えてもらったんです。

夫と話し合ったのですが、結局は、まだそこまでしなくていいのではということに。そこから、排卵検査薬を使って自分たちでタイミングを取る方法を選びました。

ただ自己流だと、やっぱりズレてまうこともあるようで、なかなかうまくいきませんでした。夫も出張でいないことが多いので、自分の排卵のタイミングと、夫が家にいるタイミングが合わないんですね。そうすると、自分の中ですごくストレスになってしまって・・・。それで、一度全部やめてみたのですが、その直後にすぐに妊娠することができてびっくりしました。妊活には、ストレスがよくないんだなということと、病院選び、先生との相性は大切だと感じましたね。すごく信頼できる先生に会えたことは幸運なことで、この先生に娘もとり上げてもらいました。

――流産を一度経験されたということですが、どんな状況だったのですか?

岡副 母が2023年の4月にくも膜下出血で亡くなり、実はそれと同じ時期に妊娠がわかったんです。妊娠できたことはすごくうれしくて、でも、判明した直後に「もしかしたら子宮外妊娠かもしれない」と言われてしまって、大きな大学病院を紹介されて受診しました。

そこでは、子宮外妊娠の可能性と、片方の卵巣がはれてしまっていると判断され、経過を見ることになりました。これが、妊娠が判明して2週間後ぐらいのことですね。経過を見てもらっている間は頻繁に受診をしましたが、成長したり成長してなかったりという感じで、そのたびに一喜一憂。とにかく不安な日々でしたね。「○週目 赤ちゃんの大きさ」などとネットで検索ばかりしてしまって・・・。あのころは、とにかく安静にして、成長するように祈るしかなかったです。

結果的に、心拍が確認できず、先生からは「赤ちゃんは難しいかもしれない」と言われてしまいました。そして、自然排出にするか手術をするかを聞かれたのですが、私は自然排出を選びました。自然排出といっても、それがいつ起こるのか、どんな状態で出てくるのかもわからないのですごく不安でした。

そしてある日、生理痛のもっと強い痛みがあって、トイレに行ってみると、血の塊が出ていたんです。それを拾って病院に持って行き、病理にかけてもらいました。

かなり初期の流産だったので、実感もあまりなかったのですが、それでもショックでしたね。そこからはまたネット魔になって、同じ境遇の人のブログやSNSなどをたくさん読みました。自分だけじゃないと思えることで、少し楽になったり。ただ、育ててあげられなかったことは申し訳なかったです。

母が亡くなった直後に、流産もしてしまって、なんでこんなにいろいろなことが続くんだろうと落ち込みました。でも、ブログなどでみなさんの体験談を読んで、かつてつらい経験をした人でも、その後に前向きになっている様子を知ることができて、もしかしたら時間が解決してくれるのかなと思いました。

病院の先生は、「すぐに次の妊娠を考えてもいいし、今は何も考えなくてもいいだろうし」と。私は、とにかくストレスをなくしたいと思って、何も考えずに、前向きになることばかり考えていました。すると、次の生理が来たか来ていないかというタイミングで、すぐに妊娠することができたんです。

夫が不在の中、つわりで点滴に通う日々。それでも、夫はできることを精いっぱいしてくれた

戌の日に安産祈願へ行く岡副さん。
戌の日に安産祈願へ。つわりがひどくて、1カ月遅れで行ったそう。

――妊娠中の体調などはどうでしたか?

岡副 つわりが7〜8週目ぐらいから始まりました。早い人だと11〜12週にはつわりがおさまってくると聞いたのですが、私の場合はその時期はまだ点滴に通っていて、つわりが落ち着いたのは20〜21週でした。

この期間は胎動もまだないし、おなかもそんなにふくらんでいないので、妊娠している実感があまりないのに、ただただしんどいという状況でした。一度流産を経験しているので、余計に安定期前にはまわりにも妊娠したことを報告できなくて、マタニティマークも付けづらかったです。

さらに、つわりがピークのとき、主人が出張で丸々2カ月間いなかったんです。入院まではしなかったのですが、頻繁に点滴に通っていて、車で30分かかる病院まで自分で運転しないといけないので、それがかなりつらかったですね。

夫は地方や海外などを行ったり来たりする日々でしたが、その間に少しでも時間ができると、家に一瞬戻ってフルーツを切っておいてくれたり、小さなおにぎりを握っておいてくれました。1人じゃないんだなと思えることが、ありがたかったです。

このころの妊婦さんって、みなさん、いろいろ悩まれていますよね。同じく妊娠中の、電車通勤の友だちからは、安定期に入るまではまわりにも言えないし、でも通勤電車はとてもつらくて大変と聞きました。つわりなどで一番つらい時期なのに、マタニティマークを付けづらかったり、ときには隠してしまったり・・・。

夫は私が妊娠するまでは、マタニティマークのことを知らなかったみたいで。まだまだ認知度は低いんだなと感じましたね。

式の最中に虹が見えて、母がそばにいると感じた

亡くなる前、最後のお母さんの誕生日をお祝いしたときの写真
亡くなる前、最後のお母さんの誕生日をお祝いしたとき。お気に入りのイタリアンで。

――お母さんを亡くされたときのことを教えてください。

岡副 昨年の春に、結婚式を挙げようということが決まって、その1週間後に母が倒れてしまいました。たまたま私が実家に帰省していて、母が倒れたときも、ソファで隣に座っていたんです。「結婚式どうしようか」という話をしていたときに、急に倒れてしまったんです。そこから病院に運ばれて治療をしていましたが、一度も意識が戻ることなく、2週間後に亡くなりました。

そのころ、まだコロナ禍ということもあって面会がいっさいできなかったんです。看護師さんがテレビ電話で母を映してくれるのですが、そこに映っている母は、たくさんの管につながれていて別人のようでした。画面の向こうからは、機械の音しかしないんです。それを見るのが、とてもつらかったです。

亡くなる直前の3日間だけ、15分だけ面会を許可してもらえて、母に会いに行くことができました。最初に会いに行ったときは、母がどうしても別人に思えてしまって、触れることもできませんでした。とてもつらい気持ちになってしまいましたね。

2日目には母に触れることはできたのですが、何をしてあげたらいいかわからなかったんです。すると看護師さんから「マッサージをしてあげるといいですよ」と教えてもらって。その帰り道に、母が好きだったボディクリームを買って帰り、3日目にそのボディクリームでマッサージをしてあげました。マッサージをすると手が温かくなってきて、ピクっと動いたんです。その日に初めて、母を直視できました。

そして、その翌日に亡くなってしまったんです。母が倒れてからの2週間は、心が追いつかない、とてもつらい日々でした。先生いわく「痛みも感じてないから、本人は苦しくないと思いますよ」という言葉だけが救いでしたね。

実は、倒れる数日前から頭痛がすると言っていたので、もう少し早く気づいてあげられたらという後悔だけはずっとあります。

結婚式は、母が手作りしてくれたブーケを持って

岡副さんとお母さんの写真
岡副さんとお母さん。小さいころからいつも一緒で、親友のような関係だったそう。

――お母さんは、岡副さんにとってどんな方でしたか?

岡副 すごく明るくて、天真らんまんな人でした。私はひとりっ子なんですが、いわゆるワンオペで子育てをしてくれて、どこに行くにも私を連れて行ってくれました。小さいころから、休みの日になると、母が運転する車で2人でいろいろな場所に遊びに行っていましたね。本当に、親友のような存在でした。今、私が子育てで大変なときに、母なら絶対に来てくれただろうなと思います。

母は、私たちの結婚式のために、和装用と洋装用のブーケを作ってくれていたんです。当日は、それを持って式を行うことができました。式の最中にふと空を見上げたら、虹が見えたんです。実は、母が亡くなった当日も虹が見えて。それで、母が近くにいてくれているような気がしました。

子どもができる前に、たまたま母と一緒に友人の出産祝いを買いにファミリアへ行ったんです。関西人はファミリアが大好きなので(笑)。そのときに、母が「かわいいからこれ買えば?」と言ってくれて、母子健康手帳ケースを2人で選んで買っていたんですよね。そのあとに、本当に赤ちゃんができたので、なんだか不思議な感じでした。今は、それを使うたびに母を思い出しているんです。

母が亡くなった後に、実家で私の母子手帳も見つけたので、それも娘の母子手帳と一緒にケースにしまっています。健診に行くたびに、体重変化や腹囲などを記録するのですが、それを見比べていたら、8カ月ぐらいまで母と変化が一緒なんです!しかも、母もつわりがひどかったみたいで、そこも似ているな〜と。妊娠中のことなどを直接は聞けませんでしたが、この母子手帳を通して、母からいろいろなことを教えてもらっているような気がしています。

お話・写真提供/岡副麻希さん 取材・文/内田あり(都恋堂)、たまひよONLINE編集部

岡副さんにとってこの1年は、お母さんとのつらい別れを経験し、そして自分自身が母となった激動の日々。それでも、お母さんが残してくれたモノや思い出に力をもらいながら、まだまだ始まったばかりの家族3人での暮らしを大切にしています。

岡副麻希さん(おかぞえまき)

岡副さんのプロフィール画像

PROFILE
1992年、大阪府出身。早稲田大学在学中に芸能事務所セント・フォースに所属し、『めざましテレビ アクア』にて現役女子大生キャスターとしてレギュラー出演。現在はキャスターのほか、ラジオやYouTubeで幅広く活動。2022年にレーシングドライバーの蒲生尚弥さんとの結婚を発表し、静岡県への移住も公表。2023年11月に第1子妊娠を発表し、翌年5月に出産。

岡副麻希さんのInstagram

●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●記事の内容は2024年7月の情報で、現在と異なる場合があります。

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