息子は日本に50人しかいない希少難病「アレキサンダー病」。医師からの「確実に死ぬ」という残酷な言葉に涙が止まらなかった【体験談・医師監修】
日本に50名ほどしかいないといわれる希少難病「アレキサンダー病」。遺伝子の変異により脳が発達せず、けいれんをはじめ知能や運動に遅れが見られる病気です。石川県に暮らす中村太一さん(18歳)は生後11カ月からけいれん発作を繰り返し、3歳6カ月のとき、「アレキサンダー病」と診断されました。太一くんの母・優子さん(54歳)に、確定診断を受けてからの日々を振り返って聞きました。全3回のインタビューの2回目です。
泣いてばかりいたら、精いっぱい生きている太一に失礼
1歳3カ月のころに脳に異常が見つかりながらも原因がわからずに過ごしていた中村さん家族。しかし、ついに「アレキサンダー病」という、初めて聞く病気がわが子の体の中にあることを知る優子さん。3歳6カ月のときでした。しかも医師からは「確実に死ぬ」という残酷な言葉が・・・。
「診断後の病院のロビーで会計待ちをしているとき、涙があふれてきて、まわりの目も気にせず、わんわんと声を上げて泣きました。あんなに声をあげて泣いたのは記憶にある中で生まれて初めてじゃないかと思うほど・・・。
なんで?なんで?というやり場のない悲しみに打ちひしがれていました。その後もしばらくはショックが抜けず、太一の寝顔を見るたびに泣いていました」(優子さん)
そんなときも太一くんは毎日ニコニコと幸せそうでした。
「私はなぜ悲しいのだろう。太一はこんなに幸せそうなのになぜ、こんなに泣けるのだろうと考えたんです。太一はニコニコしているのに、なんで私は泣いているのだろう・・・と。すると『なんだ、自分のために泣いているんだ、自分がかわいそうで、太一がいなくなって1人になったらどうしようと悲しくて泣いているんだ』ということにふと気づいたのです。
そしてそれは、毎日を精いっぱい生きている太一に失礼だ、ということにも気づきました。そう思えてからは、もともとの強気な自分に戻れました(笑)」(優子さん)
4歳になるとけいれんが頻繁に起き、年に30回は救急車に
それから優子さんは、太一くんが笑顔で毎日を暮らせることを第一に考えるようになります。太一くんが大好きな保育園には、病院の検査結果をそのまま知らせました。
「太一の状態を説明した後、『太一のこと、引き受けてもらえますか・・・?』と、園長先生におそるおそる聞きました。すると園長先生は『私たちに見させてください!』と言ってくださったんです。とてもうれしかったです」(優子さん)
大好きな保育園に再び通えるようになった太一くんでしたが、4歳になるとけいれん発作がひんぱんに起こるようになります。
「1年間に30回は救急車に乗りました。電話が鳴ると、また保育園からでは、と恐怖の日々でした。
保育園ではまだ歩行が安定していなかった太一に配慮をしてくれて、『少しでも先生の数が多いクラスに』と、2歳児クラスに3年間在籍。小学校入学を控えた5歳のとき、ようやく年少クラスに進級しました。
保育園側の配慮はうれしくもあり、また、年長クラスを経験せずに小学校で過ごせるのか、という不安も正直ありました」(優子さん)
市の教育委員会による太一くんの判定は特別支援学校への進学でした。
「社会にできるだけ近い場所で経験を積んでほしい、また、できるだけ安全な場所で過ごさせてあげたいというのが私と夫の願いでした。市の教育委員会の判定はありましたが、太一は地域の小学校の支援学級へ入学させることを選びました」(優子さん)
保育園を無事卒園し、地域の小学校に入学
小学校入学を前に、かかりつけの病院に近い小学校を選び、家を引っ越した中村さん一家。入学後1カ月間は親の付き添いが条件だったといいます。
「小学校生活では、発達に遅れがある太一はまわりについていけない部分もありましたが、人の話を30分おとなしく聞けたり、合唱コンクールや発表会では周囲の空気を読んで人に合わせたりと、協調性が身についたと思います。
小さい学校で、6年間同じクラスメートでしたが、みんな優しい子ばかりでした」(優子さん)
小学校生活にも慣れてきた2年生の2学期、授業参観がありました。
「机を向かい合わせにして図工の授業をしていました。前の子の画用紙が太一の机にはみ出してきたので太一が『いや~!』と怒り気味に相手の子に戻していたのです。前の子は『すまんすまん』というリアクションをしながら黙って画用紙を戻していました。それを見ていて、優しい行動ができるクラスメートに対してすごいなと思うと同時に、太一からその子へのフォローはもちろんなく、親としては申し訳ないな、という気持ちになりました。
そんなこともあり、太一の病気のこと、発育の遅れのことを手紙にまとめて保護者全員に渡すことにしました」(優子さん)
担任から太一くんのことは話されているはずですが、発症からこれまで太一くんを見守ってきた母としてしっかり説明する必要があると感じての行動でした。
「次の日に、太一死んじゃうの?と聞いてくる子もいました。手紙を機に、保護者と話す機会ができ、それぞれの考えを聞くことができました」(優子さん)
やさしいクラスメートとともに、太一くんはゆっくり成長していきました。
8歳を目前にして初めての急性脳症。「太一の脳の中で何かが起きている」
あと少しで8歳という11月のある日。日中、ショートステイやリハビリを利用している病院の施設から、太一くんがけいれんしていると優子さんに電話が入りました。優子さんが急いで向かうと、太一くんのけいれんは止まっておらず、顔はうっ血し、唇の色も悪くなっていました。
「なぜ、注射で止めないのか施設の医師に聞くと『うちの子たちは、みんな坐薬か、飲み薬で止まるから。頑張れ~』と声をかけていました。これ以上はまかせられない、3歳からの主治医である小松市民病院の大月先生に診てもらおうと、時計を見るとあと15分で17時でした。まだ間に合う!と電話をして状況を伝えると『すぐ搬送して!』と言われ、救急車を呼びました。
その時点でけいれんが始まってから45分は経っていました。小松市市民病院に到着し、抗けいれん薬のセルシンを注射してけいれんはすぐ止まったものの、1時間後にまたけいれん・・・。その夜には右手に今まで見たことのない妙な動きが見られ、その後嘔吐して4度目のセルシンを注射し、翌3時半、やっといつもの寝顔になりました」(優子さん)
しかし、2時間後にはまたけいれん、注射、けいれん、注射と繰り返すことになったと言います。
「太一の脳の中で何かが起こっているのではないか?」と、優子さんはこれまでとは違う、病気の進行を感じていました。
1週間の意識障害のあと、左半身にまひが残るも・・・
太一くんはMRIの結果、脳症の可能性があるとして大学病院に搬送されることになり、大学病院の検査をすると急性脳症の診断がつきました。
「太一は、ICUに入って治療が続きました。たくさんのチューブにつながれ、機械に囲まれて眠る太一をただ見守ることしかできずにつらかったです。
急性脳症のことを調べてみると、後遺症が残るのが当たり前とか、悪いことしか書いていなくて。1週間後にはICUを出ましたが、意識障害がしばらく続きました。
両手で顔のまわりをハエかなにかをはらうような動きをしたり、目が合ったかと思えば見ているようで見ていなかったりと、私のこともだれかわからないような状態でした。何かをこわがるように泣いたり、触られるとこわがったり・・・。
体もぐにゃぐにゃで力が入らず、このような状態を寝たきりというのか・・・、と先の見えない不安が続いて心身ともに私も限界でした」(優子さん)
どうなってしまうのか不安と恐怖で寝られない日々が続いた優子さんでしたが、太一くんは驚異的な回復力を見せ、少しずつ元気を取り戻していきました。
「その後しばらくたち、大好きな人がお見舞いに来てくれたら反応を見せるなど、日に日に感情も戻ってきました。
ある日、わきのしたを抱えて歩かせようとすると、私の手をふりはらい、ポッコンポッコンと1人で長い距離を歩いていったのです。医師たちは『奇跡だ!』と驚いていました」(優子さん)
【大月先生より】生活が落ち着いてきたころに起きた急性脳症。入院治療となってしまいました
このときのけいれん発作は長引きながら、いつも以上に繰り返し起こる状態でした。頭のMRIで急性脳症を疑う所見がみられたため、大学病院へ緊急搬送となりました。小学校生活にもなれて、毎日家族や学校・施設の友だちや先生方と明るく元気に生活をしている真っただ中でした。大学病院では1カ月以上の入院でした。年末の大学病院退院後、年明けに当院外来に来たときは、自分で歩くことができており、笑顔で元気な様子にとてもうれしく思いました。
お話・写真提供/中村優子さん 監修/大月哲夫先生 取材・文/岩﨑緑、たまひよONLINE編集部
8歳の誕生日を病院で迎えることになった太一くんでしたが、誕生日の翌日、奇跡的に後遺症もなく退院することができました。太一くんの驚異的な生命力に驚かされながらも、もうこんな思いは二度としたくない、と優子さんは思ったと言います。
「たまひよ 家族を考える」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることを目指してさまざまな課題を取材し、発信していきます。
監修/大月哲夫(おおつきあきお)先生
PROFILE:小松市民病院 小児科担当部長。小児科専門医。2007年から現職。
●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●記事の内容は2023年9月の情報であり、現在と異なる場合があります。