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脳性まひ、ダウン症の4人の子の母。妊娠22週で生まれた第2子は「蘇生をするかどうか決めてほしい」と医師に言われ・・・【体験談】

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生まれたばかりの竜吾くん。驚くほど小さかったそうです。

4人の子の親である美園環さん(40歳)、直人さん(40歳)夫婦。第2子・長男の竜吾(りゅうご)くんは脳性まひ、第4子・二男の悠貴(ゆたか)くんはダウン症候群です。竜吾くんは妊娠22週の早産で生まれました。出産前、医師から「障害がある可能性が高い。蘇生するかどうか決めてください」と言われました。それでも夫婦で「この子を大切に育てたい」と出産を決めたそうです。
全3回のインタビューの1回目です。

妊娠中にポリープの切除をしたあと、出血が続いて腹痛も

生後1カ月ほどで心臓の近くの血管をふさぐ手術をしました。

――美園さん夫婦のなれそめを教えてください。

美園さん(以下敬称略) 私たち夫婦は高校3年生の終わりごろ、共通の友人を通じて知り合いました。大学入学してすぐ交際が始まり、25歳で妊娠、結婚することになりました。経済的な心配はありましたが、私はずっと母親になるのが夢だったんです。だからすごくうれしかったです。当時、私はリラクゼーションサロンの店長でしたが、妊娠8カ月まで働き、退職しました。2010年、第1子の長女を出産しました。

――2012年、第2子で長男の竜吾くんを妊娠中、医師から高い確率で障害を持つと伝えられたと聞きました。

美園 妊娠経過に問題はありませんでした。ただ妊娠中、内診をしたら産道に小さいポリープができているのがわかりました。ポリープができること自体はそれほどめずらしいわけではないそうです。ただ、出血があったときにポリープに傷がついているのか、それともほかに原因があるのかわかりにくいから、取ったほうがいいとのことでした。そこで妊娠20週になる前に、簡単な切除手術を行いました。

手術後も出血が続いたので、婦人科クリニックに電話相談をすると「様子を見てください」とのことでした。そんななか夫の姉が急死し、葬儀に参列することになったんです。その間ずっと腹痛が続いていました。帰宅後、妊娠中でも飲める薬をもらおうと思って婦人科クリニックを受診しました。すると「陣痛が始まっている」と言われて・・・。すぐに設備の整った大きな病院に緊急搬送されることになりました。

ところが、受け入れてくれる病院がなかなか見つかりません。ようやく「赤ちゃんを助ける考えがあるのなら受け入れます」と言ってくれる病院があり、救急車で向かうことができました。

――搬送先の病院での様子を教えてください。

美園 いつ生まれてもおかしくない状況でしたが、少しでも長く赤ちゃんがおなかのなかにとどまってくれるよう、絶対安静で陣痛を止める薬を点滴していました。
病院では夫と一緒に説明を受けました。「早産になるため、赤ちゃんの生存率は高くありません。生きられても障害が残る可能性があります。出産後、赤ちゃんを蘇生するかどうかを決めてください」と言われました。

――とてもつらい状況だったと思います。夫婦でどんな決断をしたのでしょうか?

美園 義理の姉が急死してすぐ、こうした状況におちいったので、つらいことが重なった時期でした。私は赤ちゃんをあきらめたくありませんでした。でも、生まれた赤ちゃんは苦しい思いをするのかもしれない、蘇生させるのは親のエゴかもしれないと悩みました。
絶対安静のベッドの上でネット検索をして、超早産で生まれた子が元気に大きくなっているブログなどを見つけ、私も「可能性が低くても、希望を持って赤ちゃんを産みたい」と考えるようになりました。
夫に伝えると同じ気持ちでいてくれたんです。そして「最後は僕が決めていい?」と聞いてくれて「産んでくれる?」と言ってくれたんです。
このとき夫はとても頼もしかったです。何かあったとき、私が自分を責めないようにしてくれたんだと思います。

妊娠22週3日で体重は499グラムの小さな命を出産

竜吾くんは2歳11カ月まで入院していました。

――出産はどのような様子でしたか?

美園 入院して3日目に陣痛が強くなり、妊娠22週3日で自然分娩での出産となりました。赤ちゃんの体重は499グラム、身長は28.8センチでした。分娩室には10人以上のスタッフがスタンバイしてくれていて、生まれたばかりの赤ちゃんをすぐに処置してくれました。
その様子を見ながら「頑張れ・・・頑張れ・・・」と祈っていました。保育器に入ったところで、赤ちゃんを私の近くに連れてきてくれました。初めて見たときは体温を保つためにラップに包まれていました。びっくりするくらい小さくて、皮膚も薄く、血管も透けていました。

生まれてから3日を過ぎると、生存率がかなり上がると聞いていたので、まずは3日が超えられるようにずっと祈っていました。これまでで感じたことがないほど長い時間でした。無事に3日が過ぎましたが、1週間を超えてからも、感染症を起こしたり、未熟児網膜症の治療や心臓につながる血管をふさぐ手術を行ったりと、心配ごとは次々と起こりました。

赤ちゃんには「ごめんね」とは言わないようにしていました。今後、医療的ケアも必要だし、短い命になるかもしれません。でも、彼にとってはそれが当たり前の状況です。母親に謝られていたら悲しいだろうと思いました。だからずっと「ありがとう、大好きだよ」と伝えていました。

――赤ちゃんの名前はどのようにつけましたか?

美園 「竜吾(りゅうご)」と名づけました。生まれた年の干支が壬辰(みずのえたつ)という、60年に1度の縁起のいい年回りだったんです。強くて優しい感じがして、あやかろうと思いました。竜吾は本当に小さく生まれて、成長がゆっくりなのは確実でした。だから自分のペースで、自分をしっかり持って進んでほしいという願いを込めました。

2歳11カ月まで入院。歌や絵本の読み聞かせを録音して届けるように

退院後、3歳のお誕生日は初めて自宅でお祝いしました。

――竜吾くんはどれくらい入院していたのでしょうか?

美園 2歳9カ月まで生まれた病院のNICUに入院していました。その後、在宅医療への指導をしてくれて帰宅後も通院できる病院に転院し、2カ月間入院しました。自宅に帰れたのは2歳11カ月のときでした。

入院中は、できるだけ会いに通っていました。疲れて行けない日もあったり、会いに行けても短時間で帰宅したりすることもありました。ありがたいことに、病院は24時間面会可能でした。当時は夫が遅い時間まで仕事をしていたので、仕事が終わり、日づけが過ぎるころ病院に寄って、少し竜吾を抱っこしてから帰宅するということもしていました。

私に何ができるかを考え、手作りの小さなメリーや肌着を手作りし、絵本の読み聞かせやお姉ちゃんと一緒に歌った歌をボイスレコーダーに録音したものを届けていました。看護師さんが再生して、竜吾に聞かせてくれていました。成長するにつれて表情が豊かになってくるのを見ると、とてもうれしかったです。

――竜吾くんが入院中、2歳年上のお姉ちゃんはどのように過ごしていたのでしょうか?

美園 竜吾が生まれるまでは、私が自宅で育児していました。でも竜吾が入院することになり急きょ保育園に入れることになりました。最初は緊急時に預かってくれる短期保育を利用していましたが、それは最大で4カ月までという上限があったんです。竜吾の入院はそれではたりません。そこで新しい保育園を探しました。ところが、子どもを自宅で介護している場合は入園条件に当てはまるのですが、入院している場合は除外されてしまうしくみでした。
仕事をしていれば入園できるので、宅配便の配達の仕事などを始め、保育園に預けられるようにしました。環境がめまぐるしく変わったため、最初は長女も不安そうになっていました。でも結果的にたくましく育ってくれたと思います。

順調に成長するものの、4歳6カ月で風邪からけいれん重積を起こし急性脳症に

竜吾くんの療育の卒園式の様子。卒園後は特別支援学校に。

――竜吾くんは退院後、自宅でどんな医療ケアをしていましたか?

美園 気管切開をしていたので、夜間は人工呼吸器を使用しました。日中は気管の乾燥を防ぐために吸入をして、痰(たん)を取るために吸引を1日20回ほど行ったりしていました。食事を口からとるのが難しく、胃ろうを使用して栄養剤や水分を1時間くらいかけて1日4~5回入れていました。

――成長の様子はどうでしたか?

美園 自宅で過ごすうちに少しずつ成長して、名前を呼ぶと返事をしたり、背ばいで移動したり、ペースト食を口から食べられるようになってきていました。ところが、4歳6カ月のときに風邪からけいれん重積を起こし急性脳症となってしまったんです。もともと少し熱を出すと、けいれんを起こすことはありました。いつもは5分くらいでおさまっていたのですが、そのときは1時間以上けいれんが止まりませんでした。すぐに救急車で病院に行ったものの、薬で数日間眠っていました。

なかなか目を覚まさないので、MRIで脳の状態を見たところ、脳がダメージを受けていることがわかりました。
2カ月ほど入院したのですが、退院後の竜吾は、以前は名前を呼んだら顔を向けてくれたし、食事も飲み込めていたのに、これまでできていたことができなくなってしまったんです。ショックが大きかったです。それでも成長するにつれて少しずつよくなっていきました。

電車で療育や特別支援学校に通う日々

静岡の伊豆ぐらんぱる公園ではゴーカートに乗りました。

――竜吾くんは幼稚園などには通っていましたか?

美園 母子で通う療育にずっと行っていました。急性脳症になってから、竜吾の変化が大きくて私がショックを受けてしまった時期があります。そのころは休みがちになりましたが、どうにか療育には通い続けていました。

療育には電車で通っていました。長女の保育園や学校にも積極的に連れて行ったり、お出かけも普通にしたりしていました。長女が小学校に進学してから竜吾を連れて学校に行くと、お友だちが竜吾を囲んでいろいろ質問をしてくることもありました。医療器具の説明などをすると、みんな興味深そうにしていました。長女も竜吾を学校に連れてきてほしいと言っていました。

――学校にはどのように通っていましたか?

美園 毎日電車で、片道40分ほどかけて特別支援学校に通っていました。医療的ケアが必要だったため、学校に行っている間は私が待機していました。毎日通うのは大変で、一時期は不登校気味でした。でも先生たちも「無理しないでいいよ」と言ってくれました。

竜吾もだんだん学校生活に慣れ、私は送迎に付き添うだけになりました。そのうち、医療的ケアが必要な子でも乗れ、看護師が同乗する特別なワゴン車で家まで迎えに来てもらえるようになりました。

一緒に過ごした10年間で、多くのことを教えてくれた

家族全員で行った沖縄旅行は楽しい思い出だとか。

――家族で出かけることもあったのでしょうか?

美園 家族旅行をよくしていました。親戚が九州にいるので、家族6人で飛行機に乗って種子島や宮崎にも行きました。10歳の夏の前半は車で東北旅行をしながら岩手まで行き、そこから飛行機で北海道へ行きました。ねぶた祭り、さんさ祭りを見ることができました。後半は沖縄へ行き、那覇、宮古島、石垣島、竹富島をめぐりました。

急性脳症になってから6年、竜吾は2022年、10歳で永眠しました。今でもとてもつらく悲しいです。でも、竜吾がいてくれたからこそ学んだこと、知り合えた人、周囲の思いやりに触れたことが数えきれないほどあります。竜吾はかけがえのない、たくさんの宝物を残してくれたと思っています。

お話・写真提供/美園環さん 取材・文/齋田多恵、たまひよONLINE編集部

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待ち望んでいた出産で、「赤ちゃんを蘇生するか」という苦しい決断を迫られた美園さん。家族でたくさんのことを経験したと思います。「竜吾と過ごした日々があったからこそ、多くのことを学べた」と話してくれたのが印象的でした。

インタビュー2回目は、二男の悠貴くんがダウン症候群だとわかったときのことについて聞きました。

「たまひよ 家族を考える」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることを目指してさまざまな課題を取材し、発信していきます。

美園環さん(みそのたまき)

家族で描いた絵を、季節に合わせて飾っています。

PROFILE 
1984年生まれ。4児の母。2012年生まれの長男・竜吾くんは妊娠22週と超早産で生まれ、4歳6カ月で急性脳症に。2020年生まれの二男・悠貴くんはダウン症候群。2022年、竜吾くんが永眠してから、これまでの経験をだれかのためにいかそうと産後ドゥーラの資格を取り、働き始める。

美園環さんのinstagram

●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●記事の内容は2024年8月当時の情報であり、現在と異なる場合があります。

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