出産後第4子・二男のダウン症が判明。「長男に脳性まひがあるのに、障害児2人の子育てなんて抱えきれない・・・」と不安ばかりの日々【体験談】
2020年、美園環さん(40歳)、直人さん(40歳)夫婦は第4子を授かります。生まれた二男・悠貴(ゆたか)くんは、ダウン症候群(以下ダウン症)と診断されました。美園さん夫婦の第2子の長男・竜吾くんは脳性まひで、車椅子ユーザーでした。悠貴くんがダウン症だとわかったとき、環さんは「自分には抱えきれない」と思ったそうです。それでも前を向くようになった過程を母親の環さんに聞きました。
全3回のインタビューの2回目です。
出生前検査を受け、病気は指摘されていなかった
――美園さんの第2子で、2012年に生まれた長男の竜吾くんは、超早産の後遺症で脳性まひになったそうです。美園さん一家には4人の子どもがいるとのことですが、下の子どもたちを産もうと思った経緯を教えてください。
美園さん(以下敬称略) 夫婦ともに子ども好きだったのが大きいです。竜吾は医療的ケアが必要でしたが、体調は安定し、周囲のサポート体制が整っていました。そこで次の子どもを望んでも大丈夫だろうと考えたんです。そこで2018年に第3子となる二女を出産しました。
子どもたちが一緒に遊ぶ様子を見ていると、子ども同士で刺激を与え合い、成長しているのをとても感じていました。年齢が近いきょうだいがいると楽しいだろうと思ったんです。そこで2020年に第4子の二男を出産しました。
――第3子、第4子のときは出生前検査を受けたそうですね。
美園 はい、血液検査を受けました。超早産で生まれ脳性まひが残った竜吾はその後脳症にもかかったため、医療的ケアが必要です。だからこれから生まれる子どもたちについて、事前にわかることは知っておきたかったんです。検査結果は、第3子、第4子とも問題がないとのことでした。正直なところ、もし検査で引っかかっていたら、子どもはあきらめていたかもしれません。
生後2~3日目で赤ちゃんの顔に違和感を抱くように
――第4子の悠貴(ゆたか)くんを出産したときの様子を教えてください。
美園 さかごがなおらなかったので最初から計画帝王切開で出産することが決まっていました。予定よりも早く陣痛が来たため、37週5日で出産することになりました。4回目の出産が初めての帝王切開で、部分麻酔で意識があるままおなかを切られるということは、すごく怖かったです。生まれたとき、悠貴は出口の部分に首がはさまったらしく、呼吸ができず、産声(うぶごえ)を上げなかったんです。付き添いの助産師が蘇生処置をして、すぐに回復しました。呼吸ができなかったこともあり、NICUに入りました。
――悠貴くんがダウン症かもしれないと感じたのはいつですか?
美園 最初に違和感を抱いたのは生後2~3日目くらいです。最初は顔つきが気になりました。むくみが取れ始めると、つり目で二重まぶたという、ダウン症の特徴的な顔に似ていると感じたんです。「夫もくっきりした二重まぶただから似たのかもしれない」と思いつつ、筋力の弱さなどがダウン症の特徴に当てはまるような気がしていました。ちょうどコロナ下だったため、夫となかなか面会できず1人で不安を抱えていて・・・。ずっとモヤモヤしていたので、とても長い時間に感じました。生後5日目ころ「この子はダウン症かもしれない」と、夫に伝えました。
悠貴はNICUに入っていたので、私が先に退院しました。そのとき病院から「悠貴くんの退院に向けての説明をしたいので、ご夫婦で来てください」と言われました。それまで病院からはダウン症に関することを何も伝えられていなかったんです。だから説明があると言われた際も「生まれたときにNICUに入ったから、それに関することかもしれない。先生の話が終わったらダウン症について聞いてみよう」程度に思っていました。
ところがいざ医師と対面し、説明されたのが「赤ちゃんはダウン症の可能性があります。遺伝子検査をおすすめします」というものでした。
――そのときはどのように感じましたか?
美園 目の前が真っ暗になりました。私は小さいころ、ダウン症の子が身近にいたんです。小学生のときに取り組んでいたバレーボールで、チームの先輩と後輩のきょうだいにダウン症の子がそれぞれいました。一緒に遊ぶ機会も多く、すごく純粋でかわいい子たちだと思っていました。
一方で、大人になってから得た知識で、ダウン症の人は疾患を多く持つ場合もある、大人になっても話せない子もいるなど、症状に幅が大きいことも知っていました。
わが家は、長男の竜吾が車椅子を使っています。もし生まれた子に合併症があったり、歩けなかったりしたら、車椅子ユーザーが2人になります。ケアもこれまでの2倍になり、さらに長女と二女を育てていく・・・想像するだけで大変です。「私には無理かもしれない」と、悪いことばかり頭に浮かんでしまいました。
信頼する訪問看護師の寄り添いがあり、本音を吐き出せた
――当時、だれかに相談はしましたか?
美園 竜吾のケアのため、毎週自宅に来てくれていた訪問看護師さんに相談しました。家族全員を支えてくれた方で、私が悠貴を妊娠したときもすごく喜んでくれたんです。悠貴がダウン症かもしれないと言われ、まっさきに顔を思い浮かべ「話を聞いてもらいたい」と思った方でした。もし私の母親に話をしたら母親がかなりのショックを受けるかもしれない、今の私にはそれを受け止めるだけの余裕がないとの思いもありました。
ふだんは訪問時間以外ではなるべく連絡しないようにしていたんです。でも、そのときはすぐにその方に電話をしました。「竜ちゃんママ、どうしたの?」というやさしい声を聞くだけでホッとして・・・。「赤ちゃんがダウン症だった」と伝えると「え・・・、竜ちゃんの弟が・・・?」と言葉を失っていました。その方は看護師だからいろんなダウン症の子を見ていると思います。かわいい子がいるのも知っているはずです。でも安易に前向きな言葉をかけるのではなく、私の気持ちを受け止めて、一緒に落ち込んでくれたような感じでした。そのような形で寄り添ってくれたことがとてもありがたかったです。
――美園さんの思いを共有してくれたのがよかったのでしょうか?
美園 もし「大丈夫だよ」などと励まされても、そのときの私は受け止められなかっただろうし、強がって本音を言えなかったかもしれません。その方とは約6年のつき合いで、すごく信頼していました。私の思いに共感し、寄り添ってくれたからこそ、「私には無理かもしれない」など、胸にためこんでいた弱音を吐けました。そのときの私は不安でいっぱいでした。ネガティブな感情を吐き出せたことで気持ちが楽になりました。
子どもたちに説明をすると、ごく自然に受け止めてくれたのが励みに
――長女や二女には悠貴くんのことをどのように説明したのでしょうか?
美園 悠貴は生後2週間で退院することができました。退院後、家族全員の前で「実は、悠貴はダウン症っていう疾患があるんだ」と説明しました。すると、2010年生まれで当時小学4年生だった長女が「ダウン症って何?」と聞くんです。ダウン症の子の写真を見せると、長女は「あ、こういう子たち、学校にもいるよ」と、ごく自然に受け止めてくれました。それがとても明るく、当たり前の様子だったんです。
私たち夫婦は、長女の反応がいちばん心配でした。でも、長女のその様子を見て夫は「俺はもう大丈夫だ、前を向いていける」と言っていました。
――そのとき、美園さんはどのように思いましたか?
美園 長女の様子に安心すると同時に、夫の切り替えが早くてすごいなと思いました。長女は竜吾の療育が大好きでよく一緒に行っていました。いろんな病気の子もいるのですが、みんなのことをすごくかわいがっていました。長女は竜吾がいるおかげで、親の私たちより多様な人たちを受け入れる器の大きさがあったんだと思います。
でも、私はその時点ではまだ心配が大きかったです。今振り返れば「どうしてあんなにネガティブにとらえていたんだろう」と思います。でも、当時はあれもできない、これもできないと全部を悪いほうへ考えていました。
その後の日々の積み重ねによって「大丈夫、心配ない」と少しずつ思えるようになっていったと思います。悠貴と過ごしていると、何も身構えることはなかったんだなと今では感じるんです。
――悠貴くんの名前はどんな思いを込めて名づけましたか?
美園 夫と常々「子どもたちには豊かな人生を歩んでほしい」と話しています。子どもたち全員の名前は「豊かな人生を歩む」思いを込めて名づけました。悠貴の「ゆたか」という読みは最初から決めていて、後から合う漢字を探しました。
夜間のケアで睡眠不足が続くことも
――竜吾くんと悠貴くんを育てていく中で大変だったことはありますか?
美園 竜吾は夜間、人工呼吸器を付けていたのですが、アラームが鳴ったり、姿勢を整えたりするため、夜間1~3回は起きる日々でした。睡眠不足が続き、メンタルに影響を受けて大変でした。一時期、竜吾が食事を注入しても吐いてしまうことが続き、原因がわからず困ったことがあります。
悠貴は筋力が弱いせいで赤ちゃんのころは飲み込む力が弱く、ミルクをあげている途中で疲れて眠ってしまうことがありました。現在3歳ですが、大人から見ると困ったいたずらと思えることをする時期が長いかもしれません。たとえば、テーブルにのり、置いてあるものを下に落とす、かばんや財布の中身を全部出す、壁や家具にペンで落書きをするなどです。長女の部屋を荒らすので、すべての部屋にロックをかけました。
子どもたちのおかげでたくさんの経験ができた
――長女と二女には竜吾くんと悠貴くんのことをどのように伝えていますか?
美園 竜吾はとにかく生命力が強い子でした。子どもたちにも「すごく強くてかっこいい男の子なんだよ」と伝えていました。妊娠22週という早産で、とても小さく生まれたのに、しっかり育ってくれて、危険な感染症も乗り越え、脳症はあったけれど、本当にたくましくて強い子でした。2022年に亡くなりましたが、私たちに教えてくれたことは数えきれないほどあります。
悠貴も、出生前検査を受けたときはダウン症と診断されませんでした。もし事前にわかっていたら、生まれていなかったかもしれません。「すごく運の強い子だね」と話しています。2人の娘には「悠貴は同じ年の子とくらべたらゆっくり成長するよ」と伝えています。
でも、竜吾と悠貴がいたからこそ経験できたこともたくさんあります。
――具体的にどんな経験ができたと思いますか?
美園 長女と二女を連れて、一緒に療育に行くことがありました。2人とも、療育で「いろんな子がいる」ということを自然と学べたと思います。また、お医者さんや看護師さんが自宅に来てくれて、普通に話ができるのもよかったと思います。また、家族でパラリンピックの公式文化プログラムの映像作品に出演させていただいたり、ジャパンバリアフリープロジェクトでチェコ大使館にご招待いただき視野の広がる特別な経験ができました。
私も子どもたちを通して、これまで知らなかった世界をたくさん教えてもらったり、見せてもらったりしました。もちろん大変なこともありましたが、それよりもずっと「私たちのところに生まれてきてくれてありがとう」という思いが強いです。
お話・写真提供/美園環さん 取材・文/齋田多恵、たまひよONLINE編集部
医療的ケアが必要な竜吾くんがいて、さらに悠貴くんがダウン症とわかり、美園さんはショックが大きかったと言います。それでもしっかり現実を受け止め、多くの喜びを見いだした美園さんは強さと温かさを秘めているように感じられました。
「たまひよ 家族を考える」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることを目指してさまざまな課題を取材し、発信していきます。
インタビュー3回目は、長男の竜吾くんが永眠し、美園さんが産後ドゥーラとして働き始めたことについて聞きました。
美園環さん(みそのたまき)
PROFILE
1984年生まれ。4児の母。2012年生まれの長男・竜吾くんは妊娠22週と超早産で生まれ、4歳6カ月で急性脳症に。2020年生まれの二男・悠貴くんはダウン症候群。2022年、竜吾くんが永眠してから、これまでの経験をだれかのためにいかそうと産後ドゥーラの資格を取り、働き始める。
●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●記事の内容は2024年8月当時の情報であり、現在と異なる場合があります。