妊娠24週4日、664gで生まれた三男。呼吸状態が悪くなり何度も命の危機を乗り越えて・・・。ドナーミルクも経験【体験談】
長野県伊那市でヨガ&ファスティング講師として働く高橋由里絵さん。夫の竜也さんと、7歳、4歳、2歳の3人の男の子を育てる母親です。三男の吟糸(ういと)くんは、由里絵さんが妊娠24週4日のとき664gで生まれた超低出生体重児でした。由里絵さんに吟糸くんの出産のときのことや、NICUでの治療の様子について聞きました。全2回のインタビューの前編です。
待望の第3子妊娠。でもある日大量の出血が・・・
竜也さんと結婚後、由里絵さんの地元でもある千葉県に住み、第1子、第2子を出産した由里絵さん。結婚前に長野県に住んだ時期があっていい場所だったこともあり、のびのびした環境で子育てしたいという思いから、コロナ禍をきっかけに家族で長野への移住に踏みきりました。
自身も3人きょうだいで育った由里絵さんは、竜也さんと「子どもは3人欲しいね」と話していました。そして、長野に移住ししばらくしたころ3人目の妊娠が判明します。
「地域の産婦人科クリニックで妊娠を確認したあと、妊娠17週2日でピンクのおりものがありました。産婦人科に電話すると『おなかの痛み、張り、出血量が増えたら再度連絡するように』と言われ様子を見ながら過ごしました。過去2回の妊娠と違ってだるさが強く、寝ていることが多かったと思います。
しばらく出血がなく少し安心していたのですが、妊娠19週3日の朝、起きると生理2日目のような鮮血の大量出血が。産婦人科を受診して処方された止血薬を飲んでも出血は止まらず、翌週に市内の総合病院を受診するように、と紹介されました」(由里絵さん)
由里絵さんは金曜の午前中に上の子たちを保育園に送ってから総合病院へ向かいました。
「上の子たちに『今日は早めに迎えに行くね』と伝えてから病院で診察を受けたら、羊水(ようすい)がかなり少なくなっていて破水している可能性があると診断されました。出血の原因はわかりませんでしたが、医師からは『無事に生まれてくるかわからないし、もし22週を過ぎて生まれたとしても生きられるかわからない。後遺症が残るかもしれない。妊娠継続するなら覚悟が必要です』と告げられました。
自宅に戻れるつもりで受診したのに、『自宅には帰れません』と言われそのまま入院することに。まさかそんなに大変な状態になっていたとは・・・。かなりの衝撃でした」(由里絵さん)
妊娠22週未満の出産は、通常「流産」として扱われます。そのとき由里絵さんは妊娠20週6日。もし22週を過ぎて赤ちゃんが生まれるとしたら、NICUがある病院に移ったほうがいいとのことで、由里絵さんは翌週、長野県立こども病院へ転院することになりました。
「日曜日に総合病院を退院し、月曜日の朝、夫に車で送ってもらって長野県立こども病院に入院しました。そこでも検査したところ、羊水が少なくなっている状態ではありましたが、赤ちゃんが羊水を取り込んで排出するサイクルはできている、とのこと。おなかの張りもなかったために、院内では売店や庭を散歩してもいいし、週末は医師の許可があれば家族と一緒に過ごしていいとも言われ、絶対安静にしなくてはならない、という状況ではありませんでした。それは医療的エビデンスに基づいての対応だそうです。
体は自由でストレスフリーな状況ではありましたが、毎日おなかの赤ちゃんのことが心配でたまりませんでした。このまま少しでも長くおなかにいさせてあげたい、という思いとともに、無事に生まれてくるのか、生まれたとしても生きていけるのか、そんなことばかり考えていました」(由里絵さん)
生きて生まれてくれたわが子に感謝
長野県立こども病院に入院して、妊娠24週を過ぎたある朝、由里絵さんは腰のあたりに鈍い痛みを感じました。
「すぐに張り止めの点滴が始まり、赤ちゃんが未熟な状態で生まれたときに肺の成長を促すステロイド注射もしました。医師からは『なるべく妊娠継続できるようにしていきましょう』と話がありました。
それから2日後の朝、張り止めの点滴がもれてしまい刺し直すことになったのですが、私の血管が細く、アトピーがあるので血管をとらえづらいために、再び点滴を入れるのに2時間ほどかかってしまいました。でも深夜にまたその点滴がもれてしまって・・・助産師さんがすぐ点滴を入れ直してくれてほっとしたのですが、翌朝7時過ぎ、おなかの張りや背中の違和感が。長男の陣痛の時と同じような感覚でした。診察の結果、産道も短くなっているとのことで、そのまま緊急帝王切開での出産となりました」(由里絵さん)
数日前に助産師さんから「バースプランをたてましょう」と話があり、由里絵さんは心の中に『ひと目、ひと声、ひと触れ』のプランを立てました。
「医師からは『もしかしたら赤ちゃんはすぐにNICUに搬送されて会えないかもしれない』と言われました。でもやっぱりひと目会いたかったし、声をかけて、できれば少し肌に触れたいと思ったんです。緊急帝王切開のお産だけれど、この日が赤ちゃんの誕生にふさわしい日だと思うようにして、とにかく感謝あふれるお産にしようと思いました」(由里絵さん)
手術室に入り、しばらくして由里絵さんは帝王切開手術で664gの男の子を出産しました。
「生まれるまでわからなかったのですが、性別は『男の子です』と。男3きょうだいの母ちゃんになったんだな、と、うれしかったです。
しばらくして医師と看護師さんが、おなかを縫合し終わったばかりの私のところに閉鎖型の保育器に入った赤ちゃんを連れてきてくれました。私は手術台から手を伸ばして保育器の丸い穴から手を入れ、小さな小さな赤ちゃんに触れることができました。そして『ちっちゃいねえ。頑張ってくれてありがとう』と声をかけました。生きて生まれてくれたわが子に会えた喜びと、感謝の気持ちでいっぱいでした。希望どおり、NICUに行く前に触れ合えてよかったです」(由里絵さん)
緊急帝王切開することに決まったと由里絵さんからの連絡を受けて、仕事中だった竜也さんはすぐに病院へ向かいました。
「夫は私が産科の個室に戻ってしばらくしてから会いに来てくれました。マスクの鼻の部分がぬれていたから『泣いたの?』って聞いたら、主治医からの説明を聞いてくれたみたいです。『大変な状況の中、お父さんもお母さんも大変な決断をして頑張ってきましたね。いい出産に立ち会えてよかったです』と言葉をもらったそうで、ほっとしたのと感動とで涙が出たようでした」(由里絵さん)
由里絵さん夫婦は、生後数日して赤ちゃんに「吟糸(ういと)」と名づけます。
「『1本1本細い糸をじっくりと紡ぎながら、強い心と体を築いていけますように。』『人と人とを強いきずなで結ぶかけ橋であり、自分も家族も仲間も大切にする人になりますように。』そんな思いを込めました」(由里絵さん)
まったく母乳が出ず、ドナーミルクを利用することに
上2人の男の子たちの産後は母乳の出がよかったため、心配していなかった由里絵さんでしたが、吟糸くんの産後は母乳が出始めるまでに苦労したのだとか。
「上の子たちは卒乳までほぼ母乳で育てたので、今回も大丈夫だろうと思ってました。でも吟糸を出産してすぐは、母体の準備ができていなかったのか、初めはまったく母乳が出ませんでした。そのため、新生児科の医師から母乳バンクのドナーミルクの説明を受けました。それまで母乳バンクについてはまったく知りませんでしたが、これまでの子育ての経験で赤ちゃんには早めに母乳をあげたほうがいいと聞いたことがあったので、私の母乳が出るまでの間、利用することに。1mLを1日8回、6日間利用させてもらいました。
その間も私は3時間おきの搾乳を続けました。産後2日目でようやく綿棒に少ししみる程度の母乳が出始め、4日目からは1回30mLを取ることができるように。しっかり出るようになったので、ドナーミルクから切り替え、搾乳した母乳を胃管チューブからあげるようになりました。
その後の吟糸は、肺がとても弱かったんですが、消化吸収力にはまったく問題がありませんでした。今振り返ると、それは初めにあげたドナーミルクの力が大きかったんだと思います。新生児科の医師から、後に『腸管機能や栄養にはほとんどトラブルがなかったのはドナーミルクが貢献している可能性が大いにある』と聞き、母乳バンクに本当に感謝しています」(由里絵さん)
いくつもの命の危機
産後7日ほどで退院した由里絵さん。千葉から来てくれた両親の手助けを得て、家から車で1時間半の距離にある長野県立こども病院へ、面会に通う日々が始まりました。
「赤ちゃんの成長は心配だけれど、私たちにやれるだけのことをやろう、と夫と話して、会いに行ったらホールディング(保育器から手を入れ赤ちゃんを包むようにする)して体に触れたり、絵本を読んだり歌を歌ったりしました。夫は金曜の夜や週末にNICUへ通ってくれました。
ところが生後18日のこと。急きょ、主治医とベテラン医師、担当看護師とのインフォームドコンセントになり、吟糸の肺の状態が悪いことを告げられました。酸素投与の設定を変えたり、弱いステロイド投与を開始したが効かず、強いステロイドを投与して反応がなかったら打つ手がないと言われました。命にかかわる状況、ということです」(由里絵さん)
吟糸くんには、肺低形成、肺高血圧症、慢性肺疾患、気管・気管支軟化症など、呼吸にかかわるいくつもの病気があり、酸素や一酸化窒素を吸入する治療が必要でした。生後18日で迎えた山は越えたものの、その後もいくつも命の危機があったと言います。
「医師たちは、吟糸の呼吸状態によって、酸素や一酸化窒素の量を調整してくれていましたが、山を越えて持ち直して、このまま落ち着くかと思ったらまた悪い山が来て、という繰り返し。
生後127日にも主治医から電話があり、酸素や一酸化窒素を最大量使わなければならない状況になった、と言われ、『きっとまた悪化したんだ・・・』と心が折れそうになったこともありました。
吟糸が明日生きていてくれるのか、いつ急変してしまうかもわからない不安でいっぱいでした。家にいるときは上の子たちがいるから気がまぎれましたが、面会に行くまでの間にネガティブなことを考えてひどく落ちこんだり、面会のあとに車の中で涙が出たりしたこともあります。逆に頑張ってポジティブに考えようとしたりして、感情の起伏がかなり激しい日々を過ごしました」(由里絵さん)
【小田 新 先生より】優しい気持ちがこめられたドナーミルク
とくに早産児であるほど母乳は欠かせません。それは未発達な腸管には牛乳由来の人工乳だと腸に負担がかかり、最悪、壊死性腸炎などの生命にかかわる合併症を引き起こしてしまう可能性があるからです。母乳バンクはドナー登録をしてくださったお母さんから余った母乳を無償で提供してもらい、それを登録施設に配分しています。しかし全国どこのNICUでも使えるわけではありません。長野県であれば当院だけが登録施設です。病院の予算も限られており、母乳バンクの登録にかかわる費用を公的に補助してもらえるような体制を望んでいます。ドナーミルクは単なる余った母乳ではなく、どこかのお母さんの優しい気持ちが込められています。
お話・写真提供/高橋由里絵さん 監修/小田 新先生 取材・文/早川奈緒子、たまひよONLINE編集部
NICUでの入院は600日と長期に及んだ吟糸くん。お兄ちゃんたちとやっと面会できたのは、1歳を過ぎてからでした。お兄ちゃんたちはとっても弟思い。退院して自宅で暮らすようになった今は毎日吟糸くんと遊んでくれ、吟糸くんもニコニコで過ごしているそうです。
2025年5月末、東京都は2025年度より「ドナーミルク利用支援事業」を開始することを発表しました。母乳バンクのドナーミルク使用施設登録を行っている施設に、ドナーミルクの使用料を補助する事業です。ほかの自治体での導入も期待されます。
後編は、NICUでのファミリーセンタードケアという治療のことや、その後の吟糸くんの成長について聞きます。
「たまひよ 家族を考える」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることを目指してさまざまな課題を取材し、発信していきます。
小田 新 先生(おだ あらた)
PROFILE
長野県立こども病院 新生児科部長。
昭和大学卒業、公立昭和病院初期研修、小児科後期研修終了。長野県立こども病院小児集中治療科、新生児科勤務後、フィンランドトゥルク大学へResearch fellowとしての留学を経て、2018年より長野県立こども病院新生児科に復帰。 Family centered care(家族と共に築く医療)の実現のため、家族に寄り添った医療を心がける。
●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●記事の内容は2025年6月当時の情報であり、現在と異なる場合があります。