タレント・塚本明里、16歳で原因不明の3つの病気を発症。週に2回、全身40カ所に麻酔注射を打ちながら、第1子の妊娠・出産、子育てを
岐阜県在住のローカルタレント・塚本明里さん。高校2年の春、原因不明の発熱や倦怠(けんたい)感、全身の痛みに襲われ、のちに「筋痛性脳脊髄炎(きんつうせいのうせきずいえん)」「線維筋痛症(せんいきんつうしょう)」「脳脊髄液減少症(のうせきずいえきげんしょうしょう)」という3つの病気があることがわかりました。週2回、全身40カ所の麻酔注射の治療が必要な明里さんですが、2023年に入籍、2025年3月に第1子を出産し、現在は1児の母です。明里さんに発症当時のことや、夫・琢也さんとの出会いなどについて聞きました。全2回のインタビューの前編です。
突然、原因不明の不調と全身の痛みに襲われた
――高校生で病気を発症したときのことを教えてください。
明里さん(以下敬称略) 高校2年生の5月、学校で試験中に突然、さーっと血の気が引くような感じがして目の前が真っ暗になり、そのまま机に突っ伏して動けなくなりました。担架で保健室に運ばれたあと、高熱もあったので、迎えにきてくれた親と自宅近くの病院に行くと「風邪でしょう」との診断。自分でも「きっと風邪だろう」と思っていたのですが、その日を境に、インフルエンザにかかったような重い倦怠感がずっと続くようになりました。
3日ほどして熱が下がったので電車で通学しようとしましたが、途中の駅でまた体が動かなくなってしまい、学校にたどり着けませんでした。これはただの風邪じゃない、と思い、母と一緒にいろんな病院にかかりましたが、なかなか診断がつきません。体がとてもしんどいのに治療も処置もできないことも苦しかったですし、病名がないせいで周囲に説明できないこともつらかったです。どんなに体に不調があっても「これは病気なんです」と説明することができないし、周囲からどう思われているかもとても不安に思っていました。
――学校は休んでいたのでしょうか?
明里 私は学校が大好きでどうしても行きたくて、病気発症後は母に頼んで車で送り迎えしてもらったんです。ただ、登校しても階段を上れないので、1階の保健室で寝て過ごしていました。なんとか教室まで行けた日は体の限界ぎりぎりまで授業を受けましたが、1〜2時間が限界。そこから保健室で横になるという生活が続きました。
勉強したい気持ちがあるのに、横になっていないと体がつらくて、椅子に座り続けることができなかったのです。頭痛やしびれ、めまい、吐きけ、少し動くと頭に霧がかかったようにものが考えられなくなるなど、ありとあらゆる体の不調に見舞われました。発症1年後ぐらいには全身痛の症状も現れるようになりました。
――体に痛みも出ていたのですか?
明里 体中がしめ付けられるような痛みや、鈍器で殴られるような感覚や、ガラスが突き刺ささるような痛みです。ときには全身を移動する痛みもあり、とにかく全身が痛くて痛くて・・・痛みがひどすぎるせいで、夜寝ている間に無意識に舌をかんでしまい、朝起きたら口から血が流れていたこともありました。痛みであまり寝られないし、寝られたとしてもひどい痛みのせいで悪夢ばかり見ていました。
診断がつかない間は医師から薬を処方してもらえなかったので、市販薬の痛み止めを試してみましたが、ほとんど意味はありませんでした。
症状が出てから1年半後、やっと治療してくれる医師に出会う
――発症からどのくらいで診断がついたのでしょうか。
明里 母と一緒に病院をいくつもまわって、発症から1年半後の2007年10月、三重県の総合病院を受診し、「筋痛性脳脊髄炎」と「線維筋痛症」と診断されました。16人目の医師にかかり、ようやく診断がついたのです。
筋痛性脳脊髄炎は倦怠感やさまざまな不調が続く病気で、線維筋痛症は24時間全身に痛みが走る病気です。その医師は「岐阜から三重まで通うのは大変だし、明里さんには麻酔が効くタイプ(効かない人もいる)なので、近所の麻酔科医を探したほうがいいでしょう」と助言してくれました。それから県内の麻酔科医を探しましたが、線維筋痛症に理解のある麻酔科医はなかなか見つけることが難しかったです。「線維筋痛症に麻酔は打つ必要はない」と言われてしまったこともありました。現在もかかっているクリニックの医師を見つけるまでさらに6人の医師にかかりました。
――どんな治療をするのですか?
明里 その医師は「我慢しないで痛かったらいつでも来ていいよ」と言ってくれて、当初は週5回ほど通院し、1回の通院で全身40カ所に麻酔注射を打ちました。麻酔を打つと3時間ほど全身の痛みがやわらぐので、麻酔が効いている間だけしっかり眠ることができるようになったのです。
1日3時間だけでもしっかり睡眠を取れるようになってから、ようやく、痛みがさらにひどくなることが止まった、という感じがしました。徐々に通院回数を減らせるようになり、現在は週2回、全身40カ所の麻酔注射に通っています。
――診断が出てから、高校卒業まではどう過ごしましたか?
明里 診断がついたことを学校に報告すると、私の授業に関連する教科の先生全員が集まって会議してくれ、私を卒業させるためにはどうしたらいいかを考えてくれました。相談室の一角に私専用の部屋を作りベッドと暖房器具を入れて、寝ながら課題をこなせば単位が取れるようにしてくださったんです。そのおかげで、同級生たちと一緒に高校を卒業することができました。本当に感謝しています。
“できること”を大事に、モデルや婚活にチャレンジ!
――明里さんは病気とともに生きながら、モデルなどにもチャレンジしてきたそうです。
明里 私は病気を発症する前はやりたいことがたくさんある子どもで、両親はなんでもチャレンジさせてくれました。それが病気になってからは日常生活もままならなくなり、すごくフラストレーションがたまっていたと思います。そんな私を心配した母が、発症から3年後にリクライニング車いすを買ってくれました。
「だれかに押してもらえれば外に出られる!」と、再びやりたいことにチャレンジするようになりました。岐阜美少女図鑑というフリーペーパーで一般人モデルを募集しているとわかり、撮影する時間くらいなら立っていられるかな、と応募しました。そしてSNS発信などでも活動できる、岐阜市・柳ケ瀬商店街のキャラクター「やなな」の広報としての活動もするように。その後、ミスユニバースにも応募。ウォーキングなどの練習を少しずつ重ねた結果、岐阜WEB賞をいただくことができました。
――その後、夫の琢也さんとはマッチングアプリで婚活中に出会ったそうです。病気のことはどんなふうに伝えましたか?
明里 私は真剣に結婚したいと考えていて、2年ほどマッチングアプリを続けていました。真面目にきちんと書かれている彼のプロフィールにひかれてやりとりをしてみたら、すごく優しくて思いやりがある人でした。営業職なこともあってかコミュニケーション能力が高く、自立した大人の男性、という印象でした。何より、いちばんは私の病気を理解してくれたことです。
私はアプリのプロフィール欄に持病があることを記載していましたが、それまでアプリで出会った方たちは、病気のことを詳しく説明するとメッセージが来なくなったり、ブロックされてしまっていました。その経験から私も学び、一気に3つの病気のことを伝えるとびっくりされてしまうから、少しずつ伝えることにしたんです。「あと実はこういう病気もあって・・・」と打ち明けるたびに彼は「えっ、まだ病気があるの?!」と驚いたらしいですが、メッセージのやりとりを重ねるうちに「会ってみたい」と思ったそうです。
彼はYouTubeにアップされていた私のニュース番組の特集動画を見て病気のことを理解した、とも言っていました。会う前に私の病気の様子がわかって「自分も一緒に過ごせるかもしれない」と想像できたということだったので、人前に出る仕事をしていて本当によかったです。
――琢也さんのどんなところにひかれましたか?
明里 実際に彼に会ってみて、思った以上にすてきな人だと思いました。病気のことをオープンにして活動している私に対して「病気がある塚本さん」という前提で接してくれる人も多い中で、彼は「塚本明里」そのものを見てくれました。私の内面を見て「世の中にはなかなかこんな人はいない」と気に入ってくれたようでした。
さらに彼は家事もなんでもできる人です。彼は両親共働きの環境で育ち、両親ともが家事をすることが当然という考え。私は15分ほど頭を起こしていると具合が悪くなってしまうのでほとんど家事はできないのですが、そのことになんの不満ももたず「僕がやるからいいよ」と言ってくれます。料理を作るのもすごく上手で、私の両親にもよく手料理をふるまってくれます。
妊娠は難しいかも・・・と思っていた矢先に自然妊娠
――子どもを持つことについては夫婦でどのように話し合っていましたか?
明里 私はもともと子どもが大好きで、昔から結婚して子どもをもちたいというあこがれがありましたが、病気のために妊娠・出産できるかの不安もありました。夫は、もし子どもに恵まれなくても2人で仲よく暮らしていければいいと言ってくれました。
きっと彼と一緒なら、子どもがいなくても楽しく生きていけるだろうなと思っていた矢先、幸運なことに自然妊娠したんです。生理が遅れていることに気づいて、ドラッグストアで検査薬を買ってチェックしてみたら、なんと陽性。すごくすごくうれしかったです。
――妊娠経過はどうでしたか?
明里 妊娠しているとわかって、うれしかったと同時にあわてました。私は妊娠前は11種類の薬を飲んでいましたし、痛み止めもかなり強力な薬です。おなかの赤ちゃんに影響がないかどうかがとても心配でした。すぐに産婦人科を予約して薬のことを相談すると、「妊娠と薬外来」という機関が全国に設置されているから行ってみては、とアドバイスをもらいました。
「妊娠と薬外来」は、国内外の最新のデータ・資料から得た情報をもとに、専門の医師・薬剤師が、薬の妊娠への影響について情報提供してくれる外来です。私が飲んでいる薬についても調べてもらったところ、薬は飲み続けても大丈夫、と判断することができ安心しました。
その後の妊娠経過はいたって順調。妊娠してからつわりの症状はとてもひどく、それが出産まで続いたのですが、不思議なことに全身の痛みの症状はかなりやわらいで、薬も減らすことができました。
――明里さんは2025年3月に女の子を出産しました。どんなふうに育ってほしいと考えていますか?
明里 私は病気を発症する前は、自分がやりたいことをやらせてもらって育ってきました。だから娘にもやりたいことをやらせてあげたいです。娘はこれから親以外にもおじいちゃんおばあちゃんやいろんな人とかかわって育っていくと思います。いろんな刺激をいっぱい受けて、自分のやりたいことを見つけてもらえたらうれしいです。
私は母から、人に感謝する気持ちを忘れないことや、人に思いやりを持つことを教えてもらいました。私も、娘に必ず伝えたいと思います。
お話・写真提供/塚本明里さん、取材・文/早川奈緒子、たまひよONLINE編集部
明里さんのモットーは「できないことの数を数えず、今できることを数える」です。病気とともに生きながら、自分にできることを精いっぱい頑張っている明里さん。「病気になってできないことが増えたからこそ、このモットーを大切にしています」と明るい笑顔で話してくれました。
「たまひよ 家族を考える」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることを目指してさまざまな課題を取材し、発信していきます。
塚本明里さん(つかもとあかり)
PROFILE
1990年生まれ、岐阜県可児市出身。 “タレント・ライフスピーカー・モデル” として活動。筋痛性脳脊髄炎、線維筋痛症、脳脊髄液減少症という3つの病気がありながら、可児市ふるさと広報大使、岐阜県ヘルプマーク普及啓発大使、筋痛性脳脊髄炎患者会「笑顔の花びら集めたい」の代表などを務める。1児の母。
●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●記事の内容は2025年7月の情報であり、現在と異なる場合があります。