故瀬戸内寂聴の秘書、瀬尾まなほ。「先生に会えなかった二男の名前は、先生と一緒に考えた」。寂聴先生から学んだものとは?
瀬戸内寂聴さんの元秘書・瀬尾まなほさん(37歳)。寂聴さんが存命のころは66歳の年齢差も話題になっていました。現在瀬尾さんは、講演や執筆活動を通して2021年に99歳で亡くなった寂聴さんの小説や人柄を伝えています。5歳と3歳の男の子の母でもある瀬尾さんに、寂聴さんと長男との思い出や、仕事をもつ母親として考える社会課題などについて聞きました。全2回のインタビューの後編です。
先生と長男はとっても仲よし。特別な関係だった
――瀬尾さんは長男が生後4カ月で秘書の仕事に復帰し、長男を連れて寂庵で過ごすことも多かったそうです。
瀬尾さん(以下敬称略) 私は毎月のように長男を連れて寂庵に行っていました。長男は歩けるようになると、寂庵に着くなりすぐ先生の部屋に向かって、先生の机の上にある原稿用紙や筆などを触って遊んでいました。先生もそんな長男を受け入れてくれていました。
「今日、長男を連れてきますね」と私が先生に伝えると、先生はうれしそうにそわそわしていましたし、「チビは今どうしてる?」といつも長男を気にかけてくれました。そのころは、寝室の隣の台所まで歩くのも「しんどい」と言って渋ってたのに、長男が来ると元気になって、長男に手を引かれて歩いたりしていました。
――2人はとっても仲よしだったんですね。
瀬尾 長男は先生のことを「あんちゃん」と呼んで、頭を触ったり顔をなでたり好き勝手にしていました。「あんちゃん」は、「庵主」の「あん」です。先生はそんな長男を「私の頭をたたくのは、今やこの子しかいない」と言って笑っていて、2人は本当に特別な関係だったと思います。
残念ながら、今では長男はほとんど先生の記憶がありませんが、「あんちゃんの部屋でお絵描きした」のような記憶は少しだけあるようです。私にとって、先生に自分の子どもを会わせることができたのは、唯一できた恩返しだったと思っています。生まれたばかりの子が少しずつ成長していく姿を、間近で一緒に見てもらえて本当によかったです。
――寂聴さんが亡くなって3カ月後に二男を出産したそうですが、そのときの気持ちを教えてください。
瀬尾 二男の妊娠後期は本当に大変な時期でした。体調を崩して入院していた先生が亡くなってしまったからです。私の感情が不安定だったことも影響して、赤ちゃんのことを気づかう余裕がまったくなくて、切迫早産気味で薬を飲んだりもしていました。
でも、健康に生まれてきてくれて、悲しみや寂しさに飲み込まれそうだった私に新たな光を与えてくれました。生まれてきてくれた喜び、赤ちゃんがすくすく育つ喜びは、私にとって希望でした。長男と二男の存在は、大きな支えでした。
長男のときは産後4カ月で仕事復帰しましたが、二男の産後は1年間育休を取ることにしました。先生がいない寂庵に通うことがとてもつらくて、行くたびに「先生がいない」現実を突きつけられるのが耐えられなかったんです。子どもたちのお世話に没頭できたことが私にとって救いでした。その1年で、自分の心も少し落ち着いたと思います。
――二男の名前は寂聴さんと一緒に考えたそうです。
瀬尾 先生の入院中に、いくつか名前の候補を書き出して「これがいいかな」「そっちがいいかな」といろいろと話し合いました。明確に決めたわけではなかったんですが、最終的に「やっぱりこれかな」と相談して丸をつけた名前を、二男につけました。「この子が私たちの希望の光となるように」との願いを込めています。
「絶対大丈夫!」と応援できる親になりたい
――瀬尾さんが子育てするなかで、寂聴さんの影響を受けたと感じることはありますか?
瀬尾 先生が20〜30代のころは。女性が子どもを連れて1人で家を出て生きていくことが難しい時代でした。経済力もない中で、先生はペン1本で生きる覚悟で娘を置いて家を出る決断をしました。そのことをずっと自分の中で悔いていたように思います。その後悔から「自分の子どもは自分で育てなければならない、でなければ親ではない」という強い思いがあったようです。そんな先生のそばにいたからこそ、「自分の子どもは自分で育てる」という意識は私の中にも強くあります。
同時に先生の姿を見て、母親としてだけでなく、1人の女性として「自分をあきらめたくない」という気持ちが強くなりました。母親であることはもちろん大切ですが、それと同時に自分自身のために働き続けたいという思いもあります。先生も自分1人でだれに頼ることなく生き続けてきました。だからこそ、自分のしたいように生きることができたんだと思います。
私もだれかに依存せず、自分が働いて自立していることを大事にしたいし、自分というものを確立し続けたい。それが先生の姿から学んだことです。
――現在瀬尾さんは、執筆や講演の仕事をしています。秘書の仕事とはまた違うと思いますが、寂聴さんが「まなほなら絶対大丈夫!」と背中を押してくれたそうです。
瀬尾 先生のもとで働き始めたころの私は、何かに秀でていたわけではなく、執筆や講演の依頼をいただいたときにも「私には無理!」と思ったんです。でも先生は私のダメなところも見たうえで、それでも「まなほなら絶対大丈夫」と言ってくれ、私自身をすべて肯定してくれました。とても心強く、挑戦する勇気がわきました。
先生がそうやって私を認めてくれたように、私も子どもたちを信じて応援できる親になりたいと思っています。子どもに対して「無理じゃない?」と決めつけるのではなく、「絶対できるよ、やってみよう」と背中を押してあげられる存在になりたい。子どもの無限の可能性を信じてあげたいと思っています。
――息子さんたちとのかかわり方で意識していることはありますか?
瀬尾 子育てしていると、自分の未熟さを痛感します。親だからと言って立派なわけでも、できた人間でもなくて。だからえらそうに言えることは何もないんですが、それでも子どもに「できるよ」と背中を押してあげられる存在でありたいと思っています。先生も、「子どもの“好き”や“得意”を見つけて、伸ばしてあげるのが親の役目だ」と言っていました。
そのために意識していることと言えば、「大好きだよ」「大切だよ」といった言葉を日常的にたくさんかけることです。幼稚園に行くときも「いってらっしゃい、大好き」と指ハートを作って送り出します。子どもたちも今はまだ「ママ、大好き」と返してくれ、本当にかわいいです。「自分はお父さんとお母さんにすごく愛されている」と感じてほしいから、スキンシップだけでなくて言葉でもきちんと伝えていきたいと思っています。
自分が大事にされていると感じていれば、子ども自身が好きなことが見つかったときに、安心してチャレンジできると思うからです。
「母親ばかりになってない!?」大変な子育てに思うこと
――瀬尾さんはエッセイ『寂聴先生が残してくれたもの』のなかで、子育てをする母親の育児負担についても書いています。
瀬尾 私は、自分の時間を削ってやりたいことを後回しにして、まず子どものことに時間を費やしている感覚が強くあります。もちろん夫も休みの日には積極的にかかわってはくれますが、勤務先が自宅から遠かったり、子育てを理由に仕事を調整しづらい環境ということもあり、子どものことについてはどうしても母親の私が主に担当することに。すべてとは言いませんが日本の男性の働き方に問題があるのではないかと思いながら、母親ばかりが大変だな、と感じることが多いです。
そんなふうに育児や仕事で悩んだとき、SNSで私と同じように感じている人の投稿を見ると、とっても励まされます。自分の気持ちを理解してくれる人がいると思うだけでも、すごく救われるんです。 だからこそ、エッセイにこうしたことを書いたのは、「自分だけじゃない」と思ってもらえたらいいなという気持ちがあったからです。
――今後子どもが育っていく社会に対して、変わってほしいと思うことはありますか?
瀬尾 今の日本では母親の役割が多すぎると感じています。どうしても「育児は母親がするべき」という価値観が根強く残っていると思います。そのせいで、能力があっても時短勤務を選ばざるを得なかったり、努力しても子育てのためにキャリアをあきらめなければならないことがあります。
子どもを産むことで、ある時期何かを後回しにしなければならないのはしかたない部分もありますが、子育てに関する不安は、女性のほうが抱えている割合が多いように感じます。
子どもに教育を受けさせたくても、女性がキャリアを手放せば、経済的に2人目をもつことが難しくなることもあるでしょう。少子化が問題になっているのに、子どもを育てにくい環境はなかなか改善されませんよね。今も根強くある、前時代的な価値観が変わってほしいと強く思います。
若草プロジェクトとこれからの取り組み
――瀬尾さんは「若草プロジェクト」という貧困、虐待、DV、いじめ、薬物依存などの問題に苦しむ女性たちを支援する活動にもかかわっています。かかわり始めたころと今とで、課題に変化はありましたか?
瀬尾 私は以前、平和ボケしていた部分もあって、そもそも日本でそういう深刻な問題が起きていることすら知らなかったんです。厳しい現実を知り、研修会で学ぶことからスタートし、支援にかかわってきました。最近ではトー横キッズがニュースに取り上げられるなど、少しずつ世の中にも周知されてきたと感じています。
ただ、このような問題が簡単に改善できるとは思っていません。支援する団体の数よりも、困っている少女や女性の数のほうが圧倒的に多いですし、そうした女性たちを利用しようとする存在も残念ながら多くあると思います。
若草プロジェクトでは、困っている少女たちに寄り添い、サポートし続けていますが、まだまだ簡単に解決できる問題ではないと感じます。これからも、困っている人たちが安心して眠れて生活できる場所や居場所となり「困ったときは若草プロジェクトに相談すれば大丈夫」と思ってもらえるように、活動を続けていきたいと思います。
お話・写真提供/瀬尾まなほさん、取材・文/早川奈緒子、たまひよONLINE編集部
母親としてだけでなく、1人の女性として仕事を続けることの大切さを語ってくれた瀬尾さん。子どもを保育園に送るときのエピソードで、笑顔で指ハートを作ってくれ、とってもチャーミングな一面も見せてくれました。
瀬尾まなほさん(せおまなほ)
PROFILE
瀬戸内寂聴元秘書。1988年2月22日、兵庫県神戸市出身。京都外国語大学英米語学専攻。大学卒業と同時に寂庵に就職。著作に『おちゃめに100歳!寂聴さん』、 『寂聴先生、ありがとう』、『寂聴さんに教わったこと』、『#寂聴さん 秘書がつぶやく2人のヒミツ』。困難を抱えた若い女性や少女たちを支援する「若草プロジェクト」理事。現在は5歳と3歳の2人の男の子の母。育児と両立しながら引き続き瀬戸内寂聴先生に関する仕事をし、執筆や講演活動を行っている。
●記事の内容は2025年9月当時の情報であり、現在と異なる場合があります。
『寂聴先生が残してくれたもの』
瀬尾まなほさんがつづる、瀬戸内寂聴さんとの日々と教え。秘書として過ごした10年の記憶から、人生を前向きに生きるヒントを優しく届けるエッセイです。瀬尾まなほ著/1650円(二見書房)