「産んでくれてありがとう。私はこんなにも幸せ」という娘から母への言葉。“ありのままでいい”を受け止めて・・・【ダウン症のアマチュア落語家・村上有香】
詩人であり、アマチュア落語家としても活動する村上有香さん(25歳・兵庫県在住)にはダウン症候群(以下、ダウン症)があります。母の喜美子さんに、有香さんがダウン症であることを自覚し受け入れるまでの過程や、詩人やアマチュア落語家として活動する現在までについて聞きました。全2回のインタビューの後編です。
通常学級への入学を希望したけれど・・・
出産後に赤ちゃんがダウン症候群(以下、ダウン症)との診断を受け、最初はどう育てたらいいか戸惑った喜美子さんでしたが、「今できることに一生懸命に取り組んだ」と話すとおり、療育に通いながら知育に役立つおもちゃを手作りしたり、自尊感情を育む声かけをしたりと、有香さんを手塩にかけて育てました。
喜美子さんに、子育てを振り返ってとくにショックを受けたことを聞くと、「小学校入学のとき」のことだそう。有香さんが年長になり就学を控えた時期に、喜美子さん夫妻は有香さんを公立小学校の通常学級に入学させたいと考え、地域の小学校の校長先生と面談しました。
「校長先生との面談では、通常学級への在籍を断られたわけではありませんが、歓迎されていないと感じました。夫と2人、打ちひしがれて小学校の門をあとにしたことを覚えています。ダウン症の告知を受けたときよりもつらい経験でした。
特別支援教育が始まる前年のことだったので楽観視していましたが、国と小学校の現場には温度差があったのです。でも、20年ぐらい前の話です。現在はこんなことはないと思います」(喜美子さん)
喜美子さん夫妻が有香さんの通常学級進学を希望した理由は、小学校でも保育園と同様に大勢の子どもたちの中で過ごさせてあげたい、という思いがあったからです。
「有香が成長していく上で必要な社会性を身につけるには、かかわってくれる子どもたちが多いほうがいいと思いました。コミュニケーションの力は、周囲にたくさんの人がいてこそ育つもの。だから、有香がわかる言葉が少ないとしても、たくさんの子どもたちの言葉が飛び交う中で過ごさせてあげたかったんです。また、親はどんなに頑張っても、友だちの代わりにはなれません。
面談の結果を療育の先生に相談すると、有香の立場に立ってのご指導をいただきました。『たった数年でも普通の暮らしをすることは有香ちゃんにとって生涯の財産になる』との言葉が心に響き、支援学級に傾きかけていた気持ちを立て直し、今度は私1人で校長先生に会い『あれから専門家や大学の先生に相談し、夫婦で十分に話し合いました。やはり通常学級でスタートさせていただきたいと思います』と静かに伝えました。すると校長先生は『わかりました。職員一同で協力して取り組みます』と言ってくださいました」(喜美子さん)
通常学級で過ごす、すばらしさと難しさ
通常学級に進学した有香さんは、小学校でお友だちと過ごす中でたくさんのことを学びました。
「入学して間もないころ、有香はお友だちの持ち物に色鉛筆で落書きをして怒られて『こういうことはしてはいけない』と学びました。
11月に、急に自分のことを「有香ちゃんは~」ではなく「私は~」と言うようになったので理由を聞いたら、お友だちが「有香ちゃんじゃなくて私って言うのよ」と教えてくれたとのことでした。
冬休み明けにお友だちから『有香ちゃん、あけましておめでとう』と言われ、『ありがとう』と返したときのお友だちの驚いた表情から「おめでとう」の返事は『ありがとう』だけではないと学びました。
1年生が終わるころにはお友だちのおかげで、逆上がりや縄跳びも出来るようになっていました。通常学級に在籍したからこそ、チャレンジする機会があり、社会性が育つと実感する日々でした」(喜美子さん)
一方で喜美子さんにとって大変だったのは、有香さんがお友だちに迷惑をかけずに過ごせているか、孤独になっていないか、など細心の注意を払わなくてはいけないことでした。
「有香が通常学級のみんなと同じ学習ができないときのプリント教材などは私が準備していました。有香の授業態度などを知るために授業参観にはすべて参加しました。2年生からは、毎日ではありませんがボランティアさんにもお世話になりました。
親として、“みんなの中で過ごさせてあげたいけれど、劣等感を味合わせたくない”、“みんなの中で過ごさせてあげたいけれど、みんなの学習の邪魔になることは慎みたい”、この2つの思いの折り合いが難しかったように思います」(喜美子さん)
ユニークな言葉の才能を開花させた詩
ダウン症のある有香さんにとって、努力をしても学習や宿題に取り組むことの難しさがありました。
喜美子さんは有香さんができないことにとらわれず、できることを伸ばして個性を輝かせるためにどうしたらいいのかを考えるようになります。注目したのは、有香さんが発する言葉のユニークさでした。
「たとえば、幼児期にはワンピースのセーラー襟を『首の葉っぱ』と言ったり、小学校2年生のころには、登校時に急いで小走りになったときにランドセルに下げた給食袋が足にポンポン当たるのを『給食袋に“早くしなさい有香ちゃんアホや”って怒られた』と言ったり・・・。有香には独特な感性があるなと思っていました。
有香を育てる上では否定しないことと、失敗を怒らないことを大事にしていました。また、清らかな心でいれば楽しい発想やきらめく言葉が出てくると思い、とくに父親や祖父母など、身近な人の悪口を聞かせないように気をつけました」(喜美子さん)
そんなかかわりをする中で、有香さんの言葉の才能が開花したのは、小学校4年生のころです。
「4年生の春にテレビで、ある小学校の先生が『子どもには身近な物をタイトルとして与えると、とても面白い文章を書く』と話しているのを見ました。そこで有香が大好きなピアノの先生の愛犬・こうちゃんのことを『どう思う?』と聞いてみたのです。すると『やさしい たまにはほえる ワンワンワンワン ピンポンならすと ワンワンワンワン・・・』と、リズミカルな言葉が有香の口からあふれ出してきたのです。
それまでは日記などに『今日は〇〇に行きました』『今日は〇〇を食べました』とその日のできごとを羅列するだけだったので、この子は『思い』や『考え』を表現することが苦手なんだ、と思っていたんです。でも、有香の心にこんなにもきらめく言葉の世界があったことに大きな衝撃を受けました。その日から有香は詩を書き始め、やがて有香が書いた詩がNHKハート展に入選。有香の大きな自信となりました」(喜美子さん)
そして2020年、有香さんが小学校4年生から20歳までに書いた詩をまとめた詩集『弱いはつよい』が出版となりました。自費出版ではなく、喜美子さんが目指した商業出版でした。
「私は出産と子育ての経験を通して、偏見や差別は無知から起こると知りました。この本には『ダウン症者の心の世界に触れ、ひとりひとり、かけがえのない尊い命であることに思いをはせてほしい』という強い願いをこめています。『弱いはつよい』がダウン症者の心の世界を知り、偏見をなくす一助になればと願っています」(喜美子さん)
思春期にダウン症がある自分自身と向き合い、受け入れるまで
有香さんは小学校卒業後、中学校ではなく支援学校に進学しました。
「小学校では仲よしのお友だちもできて、放課後は何人もの子が遊びに来てくれるような日々でしたが、やはり通常学級での勉強は有香にとっては大変だったと思います。6年生の6月に『私はみんなみたいに難しい勉強ができない。私はみんなみたいに早くスラスラ歩けない』と言いました。
そこで支援学校の体験入学に行ってみたところ『こんないい学校があるんだ!』と感じたようで、『小学校を辞める』と言い出したので、小学校卒業後の進路は中学校ではなく支援学校中学部に入学することを決めました」(喜美子さん)
有香さんがダウン症という言葉を知り始めたのもこのころです。支援学校中学部に入学すると、直後から障害に関する授業が始まりました。中学部では自身の障害と向き合う時期を過ごします。
「有香が最初に『自分はダウン症』だと知ったのは、5年生の9月に、NHKハート展に有香の詩が入選したことを取り上げたニュースを見たときです。でもそのときには『ダウン症』というものと、有香がお友だちのように勉強や運動ができない理由とは結びついていなかったと思います」(喜美子さん)
やがて有香さんからダウン症のことを聞かれるようになり、喜美子さんはどのように伝えるか悩みます。
「支援学校中学部1年生の6月に、唐突に『ダウン症って何?』と聞かれました。その日以降、『ダウン症から抜け出したい』『私はなんでダウン症で生まれたん?』『ダウン症って病気でしょう?』などと聞いてくるようになりました。そのころには『みんなよりゆっくり大きくなるのよ』と答えるのが精いっぱいでした。
有香もつらかったんだと思います。自分がダウン症だとわかって、それを受け止めるのは本人にしかできないことです。親がどうしてあげることもできません。私たちにできるのは『ダウン症があってもなくても、お父さんとお母さんは有香ちゃんのことが大好きよ』と伝え続けることだけでした。その後、中学部2年生になってから『人間の体の中には染色体というのがあってね。お母さんの染色体は46本だけど、有香ちゃんの染色体は47本なの。それがダウン症よ』と、医学的な知識を交えて説明しました」(喜美子さん)
悩みながら過ごした中学部時代。有香さんが自分自身を受け入れる大きなきっかけとなったのは、ある映画の主題歌でした。
「中学部3年生のときにヒットした映画『アナと雪の女王』の主題歌『Let It Go』が大好きになり、YouTubeで繰り返し聴いて、日本語でも英語でもほかの国の言語でも、暇さえあれば歌いまくっていました。この歌を知って『ありのままの自分でいいんだ』と思えるようになったようです」(喜美子さん)
仕事、大学での学び、そして落語。チャレンジして世界が広がる今
有香さんは、支援学校中学部・高等部に通い、卒業後は自立訓練の事業所に2年間通いました。
「事業所は、公共交通機関を3つ乗りついで片道2時間弱かかる場所にありました。親と離れて車内で自由に過ごす時間が楽しかったようです。25歳になった現在は、社会福祉法人が運営する高齢者デイサービスで働き、清掃とカウンター業務を担当しています。
また、22歳のころから神戸大学の『学ぶ楽しみ発見プログラム(KUPI)』を受講しています。大学の後期の期間に、知的障害のあるKUPI学生は一般学生と一緒に学んだり、メンター学生と対話や活動を行うプログラムです。神戸大学の学生さんが学びを支えてくれ、有香の世界が広がったと感じます」(喜美子さん)
さらに2023年、日本ダウン症協会主催のイベントで漫才を見たことをきっかけに、有香さんは落語に取り組み始めました。
「有香が取り組むのは古典落語ではなく創作落語です。台本は、私が有香の子育て記録をもとに考えています。仕事のあとに自宅で練習し、滑舌や発音をよくするための口のトレーニングも地道に続けています。先日、2025年社会人落語日本一決定戦の1次予選を通過しまして、12月には2次予選に参加し、お客さんの前で落語を披露する予定です。お客さんには、楽しいエピソードに笑いながらダウン症への理解を深めてもらえたらな、と思っています」(喜美子さん)
これまでの子育てを振り返って、喜美子さんは「有香のおかげで知らなかった世界をたくさん見せてもらえた」と話します。
「有香を出産した当初は、障害があるからきっとこんなこともあんなこともできなくなる、と思い込んでいました。だけど、できなかったことはひとつもありません。障害があると支援を受けるだけの人生になる、と思い込んでいました。でも、有香には人を励まして笑顔にしたり、場を盛り上げたり、人の心を察知したりする能力があります。それらは私たち親にはできないことです。有香のお陰で現在は笑いが絶えない毎日を過ごしています」(喜美子さん)
障害のある人や家族の生き方を発信すると、思いがけない意見が寄せられることがありますが、喜美子さんは「受け止め方は人それぞれでいい」と話します。
「現在の私はダウン症は障害の一種と認識しています。なので、『ダウン症は個性です』と言うつもりはありません。いろんな捉え方があるので、『ダウン症は障害』『ダウン症は個性』その判断は人それぞれでいいと思っています。ただ多くのダウン症のある成人が『働きながらダンスや水泳、音楽や絵画などに挑戦して楽しく暮らしている』と知ってもらえて、少しでもダウン症者への間違った思い込みや偏見がなくなればいいなと思っています。
有香は祖母たちに『優しいお母さんを産んでくれてありがとう』『大好きなお父さんを産んでくれてありがとう』と言っていました。そして私に『産んでくれてありがとう。私はこんなにも幸せ』と言ってくれるのです。私はその度に、実母にそんな優しい言葉をかけられなかった自分自身を反省します。有香が生まれてからのほうが、私たち家族は格段に幸せになりました」(喜美子さん)
お話・写真提供/村上喜美子さん 取材・文/たまひよONLINE編集部
取材時、有香さんも喜美子さんの隣に座り、にこにこしながら質問に答えてくれました。有香さんの笑顔とほがらかさからは、周囲を自然に笑顔にする人なのだろうということが感じられました。
「たまひよ 家族を考える」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることを目指してさまざまな課題を取材し、発信していきます。
●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●記事の内容は2025年11月当時の情報であり、現在と異なる場合があります。
「弱いはつよい」
ダウン症の詩人・村上有香が9歳から20歳までにつづった詩66編を収録。素直でユニークな言葉が、読む人の心に優しく響く。絵はダウン症の画家・伊藤美憂が担当。村上有香・文、伊藤美憂・絵/1760円(風鳴舎)


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