難産の末に生まれた直後、重症のてんかんを起こした長女。生後1カ月で「一生歩くこともしゃべることもできない」と【大田原症候群】
永峰玲子さんの長女、楓音(かのん)さん(16歳)は、生まれて数時間後にてんかん発作を起こし、生後1カ月のとき大田原症候群(おおたはらしょうこうぐん)と診断されました。
大田原症候群とは、新生児~生後3カ月ごろに発症する重症のてんかん性脳症。
小児慢性特定疾病情報センターによると、国内の患者数は約500人ほどと推測されている、とてもまれな病気です。
生活のすべてに介助が必要な楓音さんのお世話をしてきた母親の玲子さんに聞きました。全2回のインタビューの前編です。
幸せをかみしめた直後、「急変したから救急搬送する」と・・・
玲子さんと夫の雄介さんは、レゲエ好きという共通の趣味がきっかけで知り合い、2017年に結婚。その翌年、30歳のときに玲子さんは妊娠し、地元の産婦人科クリニックで妊婦健診を受けていました。
「初めての妊娠・出産で不安はありましたが、妊婦健診は毎回問題なし。私は小さいころから大きな病気をしたことがなく、健康優良児そのものだったので、子どもも健康で元気に生まれてくると信じきっていました」(玲子さん)
予定日が近づいたある日、陣痛が定期的に来るようになり、子宮口も順調に開き、いよいよ出産に。そのとき、想定外のことが起きました。
「胎児にへその緒が巻き付いている可能性があるって先生が言うんです。そのせいで、陣痛が10分間隔になってから出産までに、ほぼ24時間かかりました。私は痛みと疲労と眠気でボロボロ。出産時のことはほとんど記憶がありません。
でも、生まれた瞬間に産声が聞こえず、『おかしいな』と思ったことは覚えています。看護師さんは『羊水を飲んでしまっているから処置してきます』というようなことを言いながら、娘を別の部屋に連れていってしまいました。
疲れてボロボロの中、心配したけれど、30分くらいしたら娘が無事戻ってきて、カンガルーケアをさせてもらえたんです。
楓音を胸に乗せると温かく、その重みに『命』を感じました。ぎゅっと抱きしめながら、『生まれてきてくれてありがとう』と伝え、幸せをかみしめていました」(玲子さん)
その後、玲子さんは生まれて初めて母乳を飲ませる練習をしました。
「楓音を抱っこして胸に近づけたら、ものすごい力でのけぞりました。でも、私も娘も初めての経験。母乳を飲むことに慣れていないのかな?くらいにしか考えませんでした。
そばにいた看護師さんが、『先におむつの交換をしてみましょうか』って声をかけてくれたので、娘をマットに寝かせたら、その看護師さんが急にあわて出したんです。娘をサッと抱きかかえると、『少し待っていてください』とだけ言って、またもや別の部屋へ消えていきました。何が何だかわからず、私は言われたとおり待っているしかありませんでした」(玲子さん)
しばらくして看護師さんは戻ってきましたが、楓音さんの姿はありませんでした。
「看護師さんは『娘さんの容態が急変しました。この病院では診られないので、近くのこども専門病院に搬送します』って言いました。しかも、救急車で搬送すると。
何が起こったのか質問する暇もなく、娘を救急搬送する準備が始まりました。
仕事中の夫に連絡すると、義母がかけつけてくれて、私は義母の車の後部座席に寝たまま、救急車のあとを追ってこども専門病院へ向かいました。出産して4~5時間後のことだったと記憶しています」(玲子さん)
玲子さんが難産を乗り越えたのはほんの数時間前。玲子さんの体は疲労で限界に達していました。
「悪露も多く、こども専門病院に着いたときはフラフラして、文字がぼやけて読めないほどの状態でした。でも、楓音のことが心配で心配で、出産した産婦人科クリニックで待っているという選択は、あのときの私には考えられませんでした」(玲子さん)
すぐに治る一時的なもの。すぐに退院して普通の生活を送れる。そう信じていた
玲子さんは翌日からも毎日、楓音さんの元に通います。
「私が入院していた産婦人科クリニックから、楓音が運ばれたこども専門病院は、車で20分くらいで行けるから、毎日、楓音の様子を見に行きました。クリニックの先生が心情を察してくれて、特別に日中の外出を許可してもらったんです。朝、義母が車で迎えに来てくれ、こども専門病院の面会時間中はNICUにいる楓音に付き添い、夕方、義母の車でクリニックに帰るということを、私が退院するまでの1週間続けました。
心配しても心配しても、そのときの私にできるのは母乳を絞って渡すことだけ。クリニックでもこども病院でも、3時間おきに母乳を絞っていました。でも、このころの楓音は吸う力がなく、経管栄養の管を通さないと母乳を飲めませんでした」(玲子さん)
楓音さんを急変させた病気を確定するために、さまざまな検査が行われました。
「授乳しようとしたとき楓音が強い力でのけぞったのは、てんかん発作だったそうです。てんかんを起こす病気はいろいろあり、可能性のある原因をひとつひとつ消していって確定する必要があるから、そのための検査をしているという説明を受けました」(玲子さん)
玲子さんは、病名がはっきりするまでは、病気のことを調べることはしなかったそうです。
「すぐに治る一時的なものだと信じていたからです。生まれたばかりで体の中が落ち着いていないだけ、すぐに元気になって家に帰れると考えていたんです」(玲子さん)
そんな玲子さんの願いに反するように、楓音さんは頻繁にてんかん発作を起こしました。
「私が見ている前でも、何度も何度もてんかん発作を起こしました。1日に何十回も起こしたこともあります。突然、目がギューッと片方に寄り、手足は変な方向に突っ張っています。
でも、いつも5~10秒くらいで終わるので、よく見ていないと気がつかない程度だし、よくある赤ちゃんの動きのようにも見えます。健康な体の私から生まれたのだから、この子は健康なんだと心底信じていました。
仮に、てんかんという持病があるのだとしても、薬を飲んでいれば普通の生活ができる。そのようにも考えていました」(玲子さん)
生後1カ月のとき「一生歩くこともしゃべることもできない」と宣告される
楓音さんの病名を医師から告げられたのは、入院して1カ月後、楓音さんが生後1カ月のときでした。
「大切な話があると言われ、夫と2人で呼ばれた小さな部屋に入ると、10人くらいの医師がいました。これはただごとではないと直感でわかりました。説明してくれた先生はとても申しわけなさそうに、『娘さんは大田原症候群です。長期にわたりベッド上での介助が必要で、座ることも歩くことも、物を見ることも、言葉を発することもないかもしれません』と言いました」(玲子さん)
大田原症候群とは、以下のような病気です。
重症の発達性てんかん性脳症。新生児〜乳児期早期に発症し、患者数は国内で約500人と推測されます。発達は重度の遅滞を示し、運動障害を伴います。有効な治療法は確立しておらず、各種抗てんかん薬の調整や、食事療法などで一部改善する場合もありますが、寛解は難しい病気です。(小児慢性特定疾病情報センターHPより、編集部にて改変)
「とてもショッキングな説明でしたが、私はどこか人ごとのように聞いていました。私の子に限ってそんなことはない、絶対に治る!って信じていたから、先生の言葉を頭が拒絶していたのかもしれません。悪夢を見ているような気がしていました。
夫も同じような気持ちだったのか、先生から何か質問がないかと聞かれたとき、『何をどう聞けばいいのかわかりません』って言っていました」(玲子さん)
楓音さんの病気のことは、帰宅してからも2人とも一切触れなかったそうです。
「楓音の病気のことを口にしたら、お互いに崩れ落ちてしまうように思ったからです。何もなかったようにごはんを食べ、翌日の予定など当たりさわりのないことを話しました。でも、私は1人でいると、じんわり涙があふれてくるのを止められませんでした。もしかしたら夫も同じような状況だったのかもしれません。
気持ちの整理ができるまでに何日もかかりました」(玲子さん)
つらさと悲しみでずっしりと重くなった心をなんとか立て直し、玲子さんは大田原症候群のことをネットで調べてみることにしました。
「どのサイトを見ても、絶望的なことしか書いてありませんでした。てんかん発作が起こるたびに脳がダメージを受け続け、やがて死に至る・・・というニュアンスでした。
楓音は生まれたばかりなのに、もう『死』のことを考えなければいけないの?ものすごくショックを受け、何も考えられなくなりました」(玲子さん)
母乳をスポイトで1滴ずつ与える日々。授乳する母子の姿は直視できなかった
病名の確定診断が出ると同時に、楓音さんは一般病棟に移りました。
「この病気は発作とうまく付き合っていくために、適切な薬の量を調整する必要があるそうです。一般病棟での入院は、その調整を行う期間であるとともに、退院したあと、私が不安なく育児と介助をできるようにするための練習期間でもありました。
一般病棟に移ったときから口で飲む練習を始めたので、哺乳びんの乳首をくわえる練習や、口のまわりに触れられることに慣れる練習、発作表のつけ方、などを習いました。退院するまで毎日病院に通い、面会時間中はずっと練習しました」(玲子さん)
生後2カ月のとき楓音さんは退院でき、玲子さん夫婦のもとに帰ってきました。
「楓音と一緒に暮らせることは何よりも幸せなことでした。でも当時、夫は自宅から1時間程度の場所にあるレストランで働いていたので、朝早く家を出て、終電で帰ってくるような生活。産後1カ月を過ぎたころ義母は自宅に戻ったので、ほぼワンオペ育児でした」(玲子さん)
当時の玲子さんの1日は、「授乳に始まり授乳に終わる」だったそうです。
「経管栄養は卒業したものの、楓音は哺乳びんの乳首に吸い付くことができませんでした。少し飲めてもむせてしまうことが多かったので、スポイトで1滴ずつ与えていました。それが一番スムーズだったんです。楓音の命を守るためには、1回たりとも授乳は休めない。そのプレッシャーをものすごく感じていました。
1回200mLくらい飲ませるように退院時に言われており、200mL飲ませるには3時間は軽くかかりました。
おっぱいを吸ってもらえないことで母乳の出が悪くなり、搾乳するのも毎回大変。授乳が終わったら母乳を搾乳して冷凍し、時間になったら 解凍して温めて飲ませる・・・その繰り返しで、11日があっという間に過ぎていきます。楓音に一度も直接吸ってもらえないまま生後5カ月が過ぎたころ、母乳は出なくなってしまいました」(玲子さん)
授乳しているママを見かけると、玲子さんは苦しくなってしまうことがあるのだそうです。
「楓音が生まれるまでは、赤ちゃんは生まれたらおっぱいを飲むのが当たり前だと思っていました。母親がひょいっと洋服をめくっておっぱいを出したら、赤ちゃんが自分でパクッと吸い付いてくれ、勝手にごくごく飲んでくれるものだと・・・。ところが楓音はそうではありませんでした。
私が勝手に決めつけた「当たり前」を手放さなくてはいけなかった最初のステップでした。楓音が「できないこと」を受け入れるのは苦しかったです。
そのときの複雑な感情がよみがえってくるから、今でもときどき苦しくなってしまうんです」(玲子さん)
妊娠がわかったとき、玲子さんは産休、育休のあと仕事に復帰するつもりでした。でも、楓音さんが1歳になるころ「それは現実的ではないと判断し、退職した」とのこと。
1日中、楓音さんの育児と介助に明け暮れる中、苦しさと孤独感で後ろ向きになってしまった時期もあったそうです。
お話・写真提供/永峰玲子さん 取材協力/おおたはらっこ波の会 取材・文/東裕美、たまひよONLINE編集部
「絶対に治る、たとえ、てんかんがあっても普通の生活ができる」と信じていたという玲子さん。でも、楓音さんは授乳にも苦労するような状態で退院。楓音さんの命を守るために、玲子さんは必死になって介助を続けました。
インタビューの後編は、周囲の子どもと比べて苦しくなっていたことや、それを乗り越えて現在に至るまでのことについて聞きます。
「たまひよ 家族を考える」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることを目指してさまざまな課題を取材し、発信していきます。
永峰玲子さん(ながみねれいこ)
PROFILE
大田原症候群患者会『おおたはらっこ波の会』代表。長女は生後0日で、大田原症候群を発症。全介助が必要な重度心身障害児を育てながら、一般社団法人mogmog engine(モグモグエンジン)を共同で立ち上げ、摂食えん下障害のある子どもとその家族のコミュニティー『スナック都ろ美』を運営。社会課題をメディアや講演で伝えるかたわら、外食産業へのサービス提案や、教育研究機関、料理専門家などと協働し、摂食えん下に配慮された「インクルーシブフード」を開発。
●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●記事の内容は2025年12月の情報であり、現在と異なる場合があります。


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