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TBSアナウンサー・高畑百合子。パラアスリートの夫・堀江航と出会って19日目に結婚、2児の母に。「世界でプレーをする彼に、強さを感じた」

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ハワイ・オアフ島に旅行中の、家族4人での1枚。
ハワイ・オアフ島に旅行中の、家族4人での1枚。

4歳の男の子と2歳の女の子のママであり、2025年4月には、3年8カ月間の産休・育休から復帰した、TBSアナウンサーの高畑百合子さん。40歳を過ぎてから、1歳半違いで2人を出産し、パラアスリートである夫・堀江航さんとともに子育てに奮闘する日々を送っています。今回は、2度の稽留流産(けいりゅうりゅうざん)と不妊治療を乗り越えての出産について、また、堀江さんとの出会いから、結婚を決意した当時の思いについて聞きました。
全2回インタビューの後編です。

▼<関連記事>前編を読む

ハワイの雄大な自然の中で、初めて授かったおなかの子とお別れを「バイバイ、また会おうね」

夫婦2人のころ。堀江さんのパラカヌー合宿先であるオーストラリア・シドニーにて。
夫婦2人のころ。堀江さんのパラカヌー合宿先であるオーストラリア・シドニーにて。

――妊活を意識し始めたのはいつぐらいなんですか?

高畑さん(以下敬称略) 結婚してすぐに、妊活について調べました。30代後半にもなって、本当に知識がなかったんです。それで、子どもを授かるタイミングから調べ始めて意識して生活していると、すぐに妊娠できました。

妊娠9週のときに、ハワイ旅行を計画していたのですが、出発する日の午前中に行った健診で、「心拍が確認できない」と言われてしまって。妊娠すれば順調に出産するのが当たり前だと思っていたので、後ろから殴られたような大きなショックを受けました。立ち上がれず、診察室から出るのもやっとな状態の私を夫は静かに支えてくれていましたが、そんな夫も帰宅すると涙を流していました。夫は、「ハワイ旅行はキャンセルしよう」と言ってくれましたが、私は、旅行に行かずに落ち込んだ気持ちで休みの1週間を過ごすのはきっとつらすぎて耐えられないと思いました。自分の心を守るために、予定通りハワイに行きたかったんです。

セカンドオピニオンで、以前に診てもらっていた別の産院でも診てもらったのですが、「やっぱり、赤ちゃんは亡くなっているよ」と。現実を受け入れたうえで私は、その先生に旅行の許可をもらいました。旅行中に自然排出が起こってしまう可能性があると先生からも聞いたのですが、それも理解したうえで出発したんです。

おなかの赤ちゃんと一緒に、ハワイに行けたのはうれしかったですね。ハワイの、キラキラとした夕日を見せてあげられたような気持ちになれました。そこで、「ここでバイバイね、また会おうね」と言えた気がしました。

本当に初期の流産だったので、医学的にも、まだ胎児とはいえない時期。でも、私の気持ちとしては、もう母親になっていたのかもしれません。

――そこから、また前を向いて進めましたか?堀江さんからの言葉もあったのでしょうか。

高畑 夫は、たぶんすごくつらかったはずなんです。でも、それ以降、こっちが拍子抜けするほど、あっけらかんとしていました。「何度もトライすればいいじゃん!」という感じで、軽いノリで私を引っ張ってくれたんです。それには、すごく救われましたね。

その半年後に、再び授かることができて、「ああ、よかった。また来てくれた」と思うのと同時に、ものすごい不安もありました。初回の健診で、胎嚢(たいのう)の大きさを聞いて、それをグラフで調べてみると、けっこう下のほうの数値だったんです。それで、「胎嚢 小さい」とか調べまくっちゃって。なのに、自分が求めているような安心できる情報は出てこなくて・・・。ある日の外食中に、トイレに行ったら下着に血がついていて、やっぱりそのときもダメになってしまったんです。

私はこれまで、「頑張ればできる!」的な精神で人生乗りきってきたところがあったので、流産を2度経験して、自分の力ではどうにもならないことってあるんだなと思いました。

「あのとき、階段で足をちょっとすべらせたことあったな、あれがダメだったのかも・・・」などと、ちょっと前の行動を思い出しては、自分を責めていました。

不妊治療で「うまく成長できない受精卵」を目にし、流産をやっと受け入れられた

復帰後すぐのころ、お仕事中の高畑さん。
復帰後すぐのころ、お仕事中の高畑さん。

――そこから不妊治療へ切り替えたそうですね。

高畑 夫の知人の紹介で、「PGT-A(着床前胚染色体異数性検査・※1)」という検査を実施している病院で治療を受けることにしました。その治療は、不妊治療の中では高度な治療方法だとのことです。

その病院の不妊治療では、受精卵が成長する過程を見せてもらうことができたんです。そのときに、元気よく卵割(らんかつ・※2)して育っていくもの、途中で成長を止めてしまうものなど、いろいろな受精卵の姿を見ることができました。

流産したときに、「初期の流産はママのせいじゃないんだから自分を責めないで。受精卵そのものの問題だから」と、産婦人科の複数の先生から言われていましたが、当時の私にとっては、私をなぐさめるための言葉にしか聞こえていませんでした。でも、「うまく成長できない受精卵」を自分の目で見たときに、その言葉の意味がとてもよくわかり、やっと、流産に対する心の整理がついたんです。

※1:体外受精や顕微授精によって得られた出来上がった受精卵(胚)を子宮に戻す前に、その細胞の染色体や遺伝子の異常の有無を調べる検査
※2:分裂を繰り返しながら、細胞数を増やしていく過程のこと

――不妊治療中は、堀江さんとの関係性はどうでしたか?

高畑 治療の送り迎えを淡々としてくれて、彼が病院の自動会計機で治療代を支払ってくれていた後ろ姿をよく覚えています。検査結果が出るまでに待ち時間のある治療もけっこうあって、その空き時間は、近くのお店でお茶をしたり、時間がかかるときは少し足を伸ばしたりして、プチデートのような感じでした。

私の場合は、治療を始めるぞと踏み切るまでが、すごく苦しかったような気がします。生理が来るたびに落ち込んで、何をどう頑張ればいいかわからなかったからです。

でも、不妊治療を始めてしまえば、医療的なことやしくみなどを先生から説明を受けられるじゃないですか。だから夫とも、「今度はおっきい卵、つくりたいよね」とか、「これ食べたら、卵にいい栄養いくかな〜」とか、そんな冗談まじりでいつも楽しく話していたんです。そして、不妊治療を始めてから9カ月後に長男を授かることができました。

高齢出産だから?帝王切開のせい?産後からの体は、ボロボロのヨレヨレ!

長女を出産直後の高畑さん。幸せそうなママの顔に。
長女を出産直後の高畑さん。幸せそうなママの顔に。

――そこから出産まではスムーズに進んだんですか?

高畑 妊娠3カ月を過ぎるまでは不安でしょうがなかったです。でも、赤ちゃんのエコー写真を見たときに、最初の2人とはあきらかにエコーでの赤ちゃんの見え方が違ったんですよ。「あ、こんなに違うんだ」と思いましたね。そこから出産までは、問題なく出産を迎えることができました。

出産は、長男を産んだのが41歳、長女を産んだのが42歳のときでした。第1子の出産では無痛分娩を選んでいたんですけど、予定日より1カ月早く陣痛がきてしまって、さらにそれが微弱陣痛だったみたいで、結果的に帝王切開に。

その産後が、とにかくきつくてきつくて。それが、帝王切開だからきついのか、自分が高齢だから回復しないのか、それはわからなかったです。でもたとえるなら、棒に雑巾がギリギリのところで引っかかっているような感じの体力。もう、ヨレヨレのボロボロって感じです(笑)

――産後の体力の回復はどうでしたか?

高畑 正直、最初の出産をしてから今までの4年間の間で、「私、回復したな」と感じた瞬間はないです。しんどいけど、今日1日生きるぞっていうのをつないできた感覚です。

今でも、くしゃみをしたり笑ったりすると、帝王切開の傷の引きつりがありますし、腹筋運動もまだ痛いです。もともと、スポーツはけっこうやってきたほうで体力にも自信がありましたが、もうまったくできない人になってしまいました。

――以前、気持ちが切れてしまって、家を飛び出した経験もあるそうです。

高畑 ある日、私の体力がギリギリの状態でごはんを作り、それを長男に食べさせていたのですが、ごはんを全然食べてくれなくて、遊び始めてしまって。そして、たまたま冷蔵庫から落ちてしまったチョコレートに飛びついて、それをすごい勢いで食べ始めたんです。それを見て、自分の頭の中のシャッターが下りたような、ブレーカーが落ちてしまったような感覚になりました。幸いにも家には夫と母がいたので、長男を2人に託し、私はこのまま家にいたらダメだと思って家を出ました。無意識に涙が出てきました。

苦しくて、自分がその場に存在していることも難しい感覚。外に出ても、自分の存在を消せるわけではないけど、「消したい」というような思いに襲われました。

その後、泣きながら駆け込んだ、地域の子育てひろばで、スタッフの方に話を聞いてもらったんです。話をしているうちに、一度プツッと切れてしまったブレーカーが、いったん復旧したような感覚になりました。決して元に戻ったわけではないけれど、電気は通るようになったという感じですね。

彼と話をしているうちに、自分の中の細胞がぷくぷくっと元気になっていく感覚に

堀江さんの柔術の試合の応援に行ったときの1枚。
堀江さんの柔術の試合の応援に行ったときの1枚。


――堀江さんとの出会いについて教えてください。同じ高校の先輩だったそうですね。再会して19日目には籍を入れたとか。お互いに第1印象で何か感じるものがあったのでしょうか。

高畑 高校生のとき、彼は1学年上で、サッカー部のスター軍団の主力選手。お父さまが同じ高校の保健体育科の先生で、「堀江先生の息子」という認識で、一方的に知っていました。

38歳のときに、同級生を通じて取材相手として彼と再会して話をしたときに、自分の中の細胞がぷくぷくっと元気になっていく感覚がありました。あれは、後にも先にも感じたことがないです。でも、「この人、好きかも!」という恋心とはちょっと違っていて、「私、元気になった!明日から頑張ろう」と思える活力がわいたんです。そしてそう思えた人と、同じ気持ちになれたのなら、一緒に人生を歩みたいと思いました。

2人きりで会うようになったときに、子どもの話もしました。私は当時38歳だったから、「子どもがほしいと思ってるけれど、リミットは近いと思うんだ」と、自分の直感で言いました。私の中では、仕事のことを優先してプライベートを後回しするようなステージではないと思ったこともあります。そう伝えたら、「じゃあ、明日結婚しよう」と。「明日?いや、せめて半年ぐらいは」とは思いましたけどね(笑)

それで、「なんで明日なの?」と聞いたら、「結婚することが決まっているんだったら、1週間後にする意味も、半年後にする意味もなくない?」と。すごくシンプルな考えだったみたいです。それで、出会ってからあっという間に、19日目で結婚しました。

――堀江さんは大学時代に、足を切断するほどの大事故に遭われたそうです。そのハンディキャップについて、結婚をするときはどう思っていたのでしょうか?

高畑 今回のインタビューで障害について聞かれて、「そうだった!」と思い出すぐらいに忘れていました。そのぐらい、障害として捉えていないんですよね。

私は仕事でパラリンピックに携わることが多くて、障害のある方たちが身近だったというのもあります。だから、違和感がないのかもしれないです。

ただ、結婚するとき、私の母がなにかすごく言いづらそうにはしていました。障害者に対して今とは違う見方をしていた世代だったのかなと思うのですが、母の理解を得るには少し時間がかかりました。

私の中で大きいのが、高校のサッカー時代に、生き生きとサッカーをしている彼の姿を知っていることです。今の姿は、その彼が大きな事故を乗り越えた姿なんだから、義足であるということが障害というよりも、尊敬につながっていたんです。義足の彼が、すごくかっこいいなと思えたんです。

人の痛みもわかるし、自分に障害があっても、まるで変わらないような日常を自ら切りひらいて、さらに世界でプレーをしていることに、強さを感じました。彼が健常者だったら、もしかしたら、こんな気持ちにはならなかったかもしれないです。

夫のほうは、結婚を決めた当時のことを聞くとはぐらかすんですよ。「あのとき、俺、わなにかかった」って(笑)

――堀江さんと子育てをする中で、困難を感じる場面はありますか?

高畑 普段の生活でこちらが手を貸さなくてはならないことはいっさいありませんが、子育てをする際には大変なこともあるようです。育児って、立ったり座ったり、しゃがむという動作がすごく多くて。座るときは、ひざを伸ばした状態で、片足でスクワットしているように腰を下ろします。だから、しゃがんで子どもと目線を合わせることができないんです。彼は口に出しませんが、義足だからやりづらいということは、相当あると思います。

あとは、水に濡らせない義足を使っているので、子どもたちを彼1人でおふろに入れることは、なかなか大変です。義足を取っておふろに入ると、座ったままの状態で彼が子どもたちを湯船から出したり入れたりしなくてはならず、サポートがないと苦労します。だから、おふろは私が担当することが多いですね。

――子どもたちは、パパの足についてどう思っているんですか?

高畑 たぶん、何も思っていないんですよ。4歳になった上の子は、「パパの足は取りはずせるんだ~。むかし、バイクでぶつかってなくなっちゃったんだ~」と、まわりに素直に話しています。保育園にパパがお迎えに行くと、「〇〇くんのパパ、足がロボット〜」とお友だちが言ってくることがあって。そうすると、「かっこいいだろ〜」と言って、パパが足を見せています。

うちの子どもたちが、何か特別に言ってくることもないですし、話題にすらなりません。子どもたちにとって、パパが義足ということは、当たり前の日常なのだと思います。

子どもたちが自らの力で踏ん張れるように、今は愛情をたっぷり注ぎたい

普段は車いすを使わない堀江さんですが、長時間歩かなくてはならないときは、車いすを借りることも。
普段は車いすを使わない堀江さんですが、長時間歩かなくてはならないときは、車いすを借りることも。

――ママになって、変わったなと思うところはありますか?

高畑 仕事の面では、角が取れたと思います。私の仕事に対する熱量が高すぎるあまり、自分が100で戦っているとしたら、相手にも100を求めすぎていたんです。でも、自分が家庭というものをもってみて、「人の主戦場は仕事だけじゃないんだな」と初めて知りました。自分が家庭というバッググラウンドをもったことによって、会社で一緒に働いている仲間の別の世界を少しは考えることができるようになったと思います。

――これからお子さんたちとどう向き合っていきたいですか?

高畑 とにかく、今は子どもたちに、愛情という名の水をたっぷりあげたいなという気持ちが強いです。いつも、木を育てているイメージで子どもたちを見ている気がします。まだ小さい芽が出たばかりだから、今のうちに、たっぷりの水と栄養をあげたいです。

高齢出産なので、私たちが早く年老いてしまうということも、常に頭の中にあります。将来、万が一早い別れが来たとしても、「あのころ、パパとママと楽しく笑って過ごしたな」という記憶を残してあげたいんです。だから、写真もたくさん残しています。

将来的には、みんなで力を合わせてというよりも、それぞれの持ち味をしっかりいかしつつ、チームとなって進んでいく・・・そんな家族をイメージしています。

お話・写真提供/高畑百合子さん 取材・文/内田あり(都恋堂)、たまひよONLINE編集部

2人のお子さんのママとして、2025年4月に仕事復帰を果たした高畑さん。稽留流産を2度経験していますが、堀江さんがかけてくれた言葉や、さりげない行動で前を向くことができたと言います。運命的な出会いから19日目で結婚をした2人は、お互いをサポートし合いながら、自分たちらしい家族の形を築いているようです。

高畑百合子さん(たかはたゆりこ)

高畑百合子さん宣材写真

PROFILE
1980年、東京都生まれ。TBSアナウンサー。2003年、TBSに入社。これまでに『みのもんたの朝ズバッ!』や『JNNニュース』などを担当し、現在はおもに、『ひるおび』『報道1930』などを担当。オリンピックや世界陸上、プロ野球など、さまざまなスポーツ中継も行ってきた。2019年、平昌パラリンピック・パラアイスホッケー日本代表の堀江航さんと結婚。2021年11月に第1子となる男の子、2023年6月に第2子となる女の子を出産。

高畑百合子さんのInstagram

高畑百合子さんのnote

●記事の内容は2025年12月の情報で、現在と異なる場合があります。

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