SHOP

内祝い

  1. トップ
  2. 妊娠・出産
  3. 赤ちゃんの病気・トラブル
  4. 妊娠22週で陣痛が始まり・・・「産めば赤ちゃんを死なせてしまう!」とパニックに【体験談・医師監修】

妊娠22週で陣痛が始まり・・・「産めば赤ちゃんを死なせてしまう!」とパニックに【体験談・医師監修】

更新

生後すぐの永愛ちゃん。保育器で体温保持のためにラップで包まれています。

岡山県に住む草野永愛(えま)ちゃん、(5歳)。2017年10月、母親の和美さん(39歳)が妊娠22週2日のときに生まれました。そのとき永愛(えま)ちゃんの体重は356g、身長は27cmという小ささで、仮死状態だったのだそうです。現在は、歩行器を使って歩けるほどに成長し、4人のきょうだいと父親の貴之さん(会社員)、おじいちゃん、おばあちゃんの家族9人で岡山県に暮らしています。永愛ちゃんが誕生したときのことについて、和美さんに詳しく聞きました。全3回のインタビューの1回目です。

妊娠22週で陣痛が始まり、出血。「まだ産みたくない!」と泣きさけんだ

当時、中学2年、小学6年、小学3年、年少の4人の子の母だった和美さん。上の子たちの妊娠のときも、切迫流産(せっぱくりゅうざん)や切迫早産(せっぱくそうざん)があったため、5人目の妊娠がわかったときから子宮収縮を抑える薬や漢方薬を服用していました。経過は順調だと思っていた妊娠6カ月のある夜、深夜0時を過ぎたころからおなかが痛み始めました。

「明け方5時ごろには陣痛の痛みに似てきたので、出産予定だった助産院に連絡すると救急車で提携先の医大へ搬送されることに。救急車が到着する直前にトイレに行くと、出血がありました。夜用の生理ナプキンがいっぱいになるほどの量でした。上の子たちの妊娠で切迫早産を経験していたので、この時期の出血が危険なことは知っています。赤ちゃんは助からないかもしれない、と不安でたまらなくなりました」(和美さん)

救急車で医大へ搬送され診察を受けた結果は、胎胞脱出(たいほうだっしゅつ)。赤ちゃんを包んでいる羊膜の一部が子宮口から出てしまっていて、万が一羊膜が破れれば赤ちゃんが出てきてしまう危険な状態。出産となってしまう可能性もあるため、和美さんはそこからさらに、MFICU(母体胎児集中治療室)の設備がある倉敷中央病院へ搬送されました。

「倉敷中央病院へ到着すると、張り止めの点滴と、赤ちゃんの肺を助けるステロイド(生まれたあとに呼吸困難になることを防ぐために、赤ちゃんの肺が成熟するのを助ける薬)の筋肉注射を打ちました。そして、医師からは22週という在胎週数で赤ちゃんが生まれると命が助からないかもしれないこと、生存できるギリギリの体重であること、助かってもさまざまな合併症を起こす可能性があることなど、の説明を受けました。

一つ目の病院に救急搬送されるころから、私は頭が真っ白でパニック状態でした。母である私が、大切なおなかの子を死なせてしまうかもしれない恐怖。涙が止まらず、私のそばにいていてくれた助産師さんや看護師さんに『産みたくない!嫌だ!』とひたすら泣きながら訴えていました」(和美さん)

赤ちゃんと夫と私、手をつないだら動き出した心臓

永愛ちゃん生後1週間のころ。貴之さんが面会で保育器の永愛ちゃんに触れる様子。

和美さんの陣痛は止まることなく、20時45分に経腟分娩で第5子の永愛ちゃんを出産。妊娠22週と2日、予定日だった2018年2月より4カ月早く、体重356g、身長27cmの、小さな小さな女の子でした。

「私はパニックのあまり出産したときのことをよく覚えていません。気づくと医師が分娩台の横で赤ちゃんの処置をしてくれていました。私はコンタクトをはずしていたのではっきりとは見えませんでしたが、赤黒い色をした小さななにかがベッドに横たわっていました。
『とんでもないことをしてしまった』とショックで、まるで真っ暗な闇の中にいるような恐怖でいっぱいでした。『私のせいで、ごめんなさい。お願いだからどうかこの子の命を助けてほしい』と願うばかりでした」(和美さん)

夫の貴之さんは、救急車で搬送される和美さんを追いかけ、搬送先の病院で和美さんと一緒に医師の説明を受け、出産にも立ち会いました。生まれたばかりの赤ちゃんを目にして「絶望以外何も感じなかった」と言います。上の子の出産にも立ち会った経験がある貴之さんは、そのときとはあまりにも違う赤ちゃんの様子に驚いたのだそうです。赤ちゃんはほとんど仮死状態に近く、心臓の動きをモニタリングする機器には波形は出ていたものの、ほぼ心臓は動いていないような状態でした。

「先生に『赤ちゃんに触れてください』と言われたけれど、私はもうわが子を死なせてしまったと思っていて、怖くて触れることすらできませんでした。夫が娘と手をつないで、私は夫の手を握りました。そうしたら娘の心臓が動き始めたそうです。私はあまり覚えていませんが、あとから看護師さんたちがこのときのことを話してくれ『永愛ちゃんは強い子だよ!』と励ましてくれました」(和美さん)

永遠にみんなの心に残り、愛される子でいてほしい

和美さんの指と生後1カ月ころの永愛ちゃん。永愛ちゃんの手、体の小ささがわかります。

和美さんと貴之さんは、その日の深夜に医師から今後の赤ちゃんの健康状態のことなどについて説明を受けました。

「担当医師からは小さく産まれたことで輸血が必要になる可能性があること、慢性肺疾患、胎便関連性腸閉塞(たいべんかんれんせいちょうへいそく)、脳室内出血、水頭症(すいとうしょう)などたくさんの合併症が起こる可能性があると説明を受けました。夫がたくさんの処置の同意書にサインをしてくれたのを覚えています。

そして、その後車いすをおしてもらい、NICU(新生児集中治療管理室)にいる娘に会いに行きました。 保育器の中にいる娘は、肌は赤黒くて、見たことのない小ささ。触ったらこわれそうてしまいそうで、こわくて触ることができませんでした。
初めて永愛に触ることができたのは生後3〜4日のころ。保育器に手を入れて、指先でつんつんとそっと触れてみました。これまで産んだ4人の子どもたちとはまるで違って、湿った粘膜のような皮膚の感触でした」(和美さん)

あまりにも急な出産となり、それまでの妊婦健診で性別もわかっていなかったため、和美さん夫婦は赤ちゃんの名前の候補もまだ考えていなかったそうです。

「でも不思議なことに、出産直前のパニック状態のときにふと『エマ』ってつけたいなと頭に浮かんだんです。産後すぐに小児科の先生に『赤ちゃんに早く名前をつけてあげましょう』と言われ、翌日までに夫と一緒に画数を調べて、永愛と名づけました。もしかしたらまもなく消えてしまう命かもしれないけど、永遠にみんなの心に残って愛される子でいてほしい、という思いを込めました」(和美さん)

往復2時間の距離を、毎晩面会に通う日々

永愛ちゃん、初節句。入院中のNICUでお祝いしました。

産後5日ほどで和美さんは退院。それからは毎日、NICUに入院している永愛ちゃんに面会に通う日々が続きます。

「永愛が入院していたNICUは自宅から車で1時間以上かかる距離です。生後2カ月までは、夫の仕事が終わり帰宅後に、子どもたちのお世話を母にお願いして、毎日高速道路を使って夫婦で通いました。自宅に戻るころには日付が変わっていました」(和美さん)

毎日2時間ほど永愛ちゃんと一緒に過ごす面会時間では、夫婦で話しかけたり、保育器に手を入れて永愛ちゃんの体を包むように触れたり、搾乳した母乳を綿棒であげたりしていたそうです。和美さんは面会のときに毎回搾乳した母乳を持って行きましたが、その母乳が出ないことも悩みの種でした。

「ストレスのせいか、母乳が一向に出るようにならなかったことは本当に苦しかったです。小さく生まれた赤ちゃんに母乳栄養が大事だとわかっているのに、出してあげられない自分がふがいなく思いました。母乳マッサージを受けても効果はなく、乳頭から直接シリンジ(注射器のようなもの)で吸引して、やっとなんとか1〜2mL搾乳できるくらいのごくわずかな量。でも、ほんの少しでも届けたくて、毎日続けていました。

2カ月くらいしたときに、医師が『初乳はあげられたし、お母さんここまでよく頑張ったよ。もう無理しなくていいよ。ミルクにしてもいいんだよ』と言ってくれて。そこで初めて『私、頑張れていたんだな』って肩の荷がおりた思いがしました」(和美さん)

永愛ちゃんはその後、水頭症に関連する手術や、腸閉塞の手術、目のレーザー手術など、生後9カ月で退院するまでの間、全部で8度の手術を受ける試練を乗り越えながら、少しずつ成長します。

【高橋章仁先生より】小さな生命がもたらした大きな感動

私が永愛ちゃんのお世話を担当し始めたのは、元気に当院の新生児集中治療室(NICU)を退院するころでした。本当に主治医として支えていたのは、それまで担当していた金藤先生、木村先生、久保田先生であり、ほかの医師たちも含めて、それぞれが懸命に治療してくれました。また看護師さんたちも一生懸命永愛ちゃんの成長を見守り支えてくれました。医療従事者だから当然のことと言えばそれまでなのですが、みんなにとっては、すべて永愛ちゃんの生命力と永愛ちゃんへそそがれる親御さんの無償の愛情、献身的な姿に胸を打たれて、無我夢中で突っ走った9カ月間だったように思います。体重400gに満たないような赤ちゃん、妊娠22週で出生した早産児、小さな小さな生命が、われわれの心の中にもたらした大きな大きな奇跡の始まりでした。

お話・写真提供/草野和美さん 監修/高橋章仁先生 協力/板東あけみ先生 取材・文/早川奈緒子、たまひよONLINE編集部 

出産当時のことはよく覚えていない、と言いながら、記憶をたどり少しずつ話してくれた和美さん。赤ちゃんを失うかもしれない恐怖で「産みたくない」と叫んだ和美さんの思い、出産後「生きられなかもしれない」と言われたときのつらい気持ちが痛いほど伝わってきます。

「たまひよ 家族を考える」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることを目指してさまざまな課題を取材し、発信していきます。

●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●記事の内容は2023年5月当時の情報であり、現在と異なる場合があります。

高橋章仁先生(たかはしあきひと)

PROFILE
小児科医。倉敷中央病院小児科(NICU)勤務。1969年岡山県倉敷市生まれ。
ムツゴロウさんの動物王国に憧れて、夢は獣医師だった。子ども好きが高じて岡山大学小児科学教室へ。福山医療センター、松山赤十字病院、高知医療センターで小児科研修後、淀川キリスト教病院や大阪母子医療センターで新生児医療の勉強をし、2008年9月から現職。

妊娠・出産の人気記事ランキング
関連記事
妊娠・出産の人気テーマ
新着記事
ABJマーク 11091000

ABJマークは、この電子書店・電子書籍配信サービスが、著作権者からコンテンツ使用許諾を得た正規版配信サービスであることを示す登録商標(登録番号 第11091000号)です。 ABJマークの詳細、ABJマークを掲示しているサービスの一覧はこちら→ https://aebs.or.jp/

本サイトに掲載されている記事・写真・イラスト等のコンテンツの無断転載を禁じます。