私の目を見て微笑むと眠るように…。生後10日で天国に旅立ったわが子。つらい経験を経て、「娘に恥じない人生を」目標に生きていく
妊娠28週4日で13トリソミー症候群(※)と診断され、2014年12月26日、生後10日で天国に旅立った水沢結衣ちゃん。当時を振り返り、母親の文美さん(現在46歳)は、「たくさん泣いたし、つらい想いもしたけど、決して悲しい思い出じゃないんです」と話します。
今回は、出産後から現在までのことや印象に残るエピソードなどを、文美さんにお聞きしました。
特集「たまひよ 家族を考える」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることを目指してさまざまな課題を取材し、発信していきます。
いつ天国に逝くかわからない。1日1日がとても貴重
「口唇口蓋裂などの疾患もあると言われていたので、結衣と初対面したとき、どう感じるかと少し不安もありました。でも、12月16日に産まれて会った瞬間、そんな不安はどこかに吹き飛んで行き、“かわいい”“愛おしい”ただそれだけでした」(文美さん)
12月19日に文美さんは退院。搾乳した冷凍母乳を持ち、自宅から病院まで徒歩20分の道のりを毎日通います。
「結衣に会いたくてしかたなくて…。産後のダメージはまだ残っていましたが、毎日通うのがしんどいとは思わなかったです」(文美さん)
結衣ちゃんは生まれて数日は安定した状態を保っていました。一方の文美さんは、高熱を出してしまいます。
「高熱を出した翌日は、NICUでクリスマス撮影会の予定があったんです。それにはどうしても行きたかったので、“私は絶対、明日までに熱を下げるから3人で撮影しよう”って夫に宣言して。
温かな夕食をとって早めに就寝したら、翌朝は見事に熱が下がりました。今思うと、疲れが溜まって、体が悲鳴を上げていたのかもしれません。
結衣はいつ天国に旅立ってしまうかわからないので、1日1日がとても貴重で、1秒でも無駄にしたくなくないという思いが強かったんです。
そうはいっても、気持ち一つで自分の体をこれほどコントロールできるとは思いもしませんでした」(文美さん)
「今夜が山場かも…」恐れていた言葉のあとに奇跡が!
クリスマス撮影会の翌24日。生後8日の結衣ちゃんに心配な様子が表れます。
「結衣の具合が悪くて抱っこできませんでした。無呼吸の状態が何度も続き、苦しそうに寝ていました」(文美さん)
翌25日の午前中、文美さんが面会に行くと、顔色は土の色のようで目はうつろで、とてもつらそうな様子だったそうです。
「医師からは“今夜あたりが山場かも”と言われました。でも、病院スタッフの勧めで結衣を抱っこすると、みるみるうちに顔色はピンクに変わって、目はぱっちり開いて。
周りには病院スタッフが何人もいたんですが、その様子に感動してくださいました。
看護師長さんが“やっぱりママがいいんだね”と言ってくださったことは、今でも忘れられないです」(文美さん)
その日の夜、文美さんは2度目の面会に行きます。
「仕事を終えた夫と一緒に行くと、NICUで結衣の担当をしてくださっていた看護師Aさんが当直でした。そのときのAさんからいただいたお話しは、心に深く響きました」(文美さん)
看護師Aさんは、こう話してくれたそうです。
「“誕生して初めて病気がわかった子のママやパパはそれを受け入れられず、動揺している間に時間だけが過ぎてしまうことも少なくないんです。
でも、結衣ちゃんは、生まれる前に病気がわかったことで、ママやパパは苦しんだと思うけど、生まれてくるまでに覚悟を決められた。
だから、生まれた瞬間から目いっぱいかわいがってもらえたから、結衣ちゃんは本当に幸せな赤ちゃんだと思います“」
「私の目を見て微笑むと眠るように天国へ」
12月26日。生後10日の結衣ちゃんに、さらなる事態が起こります。
「結衣の体力が限界に近づき、いよいよ厳しい状況となりました。
それまで私が結衣を抱っこしていたんですが、一緒に面会していた夫と実母にも交代で抱っこしてもらいました。
そして、もう一度私が抱っこすると、結衣は私の目を見て微笑んだんです。しかも2回も。そしてその直後、心拍数が徐々に低下して…。心拍を示すモニターには“0”の表示が浮かび、家族が見守る中、結衣は眠るように天国へと旅立ちました」(文美さん)
結衣ちゃんが息を引き取ったあと、文美さん夫婦は看護師からある提案を受けます。
「妊娠中からサポートしてくださっている看護師Mさんの計らいで、結衣の沐浴や手形足形を取らせてもらいました。
Mさんは、ほかの妊婦さんとは別の待合室で妊婦健診の順番を一緒に待ってくれたり、私たち夫婦のためだけに両親学級を開いてくれたり…。感謝しかないんです」(文美さん)
病院スタッフの温かさに癒されて
「娘を見送ったあとの私たち夫婦は、まるで抜け殻のようでした。何もする気が起きず、どう生活していたのかもよく覚えていないんです。
でも、結衣が亡くなる前日の夜、私たちに深いお話をしてくださった看護師Aさんはどうしているかと気になっていました」(文美さん)
結衣ちゃんの旅立ちから約1カ月後、看護師Aさんから思いがけないプレゼントが届きます。
「結衣の入院中の様子をまとめた、手作りの日記と手紙が届きました。そこには、面会時間以外の様子などが丁寧に書かれていて。同封されていた手紙の便箋セットは、私のようにつらい想いをしたママが、Aさんにプレゼントしたもので、“同じようにつらい想いをしたママがいたら、ぜひこの便箋で手紙を書いてください”という思いが込められていると。どちらも宝物です」(文美さん)
病院スタッフの温かな計らいはほかにもあったそうです。
「結衣が旅立って約2ヶ月後、私が職場復帰する直前に、出産にかかわった病院スタッフのみなさんが集まって、結衣の思い出話をする会を開いてくださいました。
結衣の写真を見ながらたくさんお話しして。とても癒されました」
1年後には、“結衣ちゃん1歳のお誕生日おめでとう”と気持ちのこもった手紙も届きます。
「実母や姉の献身的なサポートはもちろん私の大きな支えでしたが、看護師さんなど病院スタッフみなさんのケアには本当に救われました。どうしてあれほどのケアができたんだろう、結衣がスタッフの方々を選んだんじゃないかって思いました。
あのときのケアがあったからこそ、私はその後の人生を力強く歩めたんだと思うんです。
あのとき自分が助けられたから、私も自分と同じような想いをしている人を助けたい、役に立ちたいと思えるようになりました」(文美さん)
わが子亡きあと、妊娠することが人生目標になった結果…
「結衣が旅立った直後は、頭が混乱していて、“もう一度、結衣を産みたい”と思っていました。でも、それは違うなと気づいて、結衣の弟か妹を産みたいと。
結衣を抱っこしたときの感動をもう一度味わいたいと思いました」(文美さん)
結衣ちゃんが旅立って約半年後、文美さんは不妊治療に頼らない妊活を進めます。そのときの心境をこう話します。
「妊娠することだけを願っていました。それが私や夫、両親などにとっての幸せだと信じて疑わなかったんです。とにかく“妊娠しなきゃ、妊娠しなきゃ”って思って…」
文美さんは、仕事も家事も妊活も全力投球で続けますが、なかなか妊娠にたどり着けず、焦ったり落ち込んだ時期もあったそうです。
「私のせいで、夫はパパになれない、両親は孫を抱っこできないんだって…。妊娠できない私が全部悪いんだと自分自身を卑下していました。またその当時は友人から妊娠や出産の報告をもらっても、心からの“おめでとう”が言えませんでした。
それでも、“絶対妊娠する!”って自分の尻をたたいて自分にプレッシャーをかけて、がんじがらめになっていたんです」(文美さん)
子どものいない人生を受け入れるように
出産から約2年後の様子を文美さんはこう話します。
「2017年1月に妊娠検査薬で陽性反応が出たんですが、2月に稽留流産してしまって。その後も食生活を整えたり、運動したりして妊活を続けたんです。でも、40代になると体調に変化が表れて…。“子どものいない人生を受け入れよう”と思い始めました。
そのころの夫は、まだ子どもを欲しがっている様子だったので、体のデトックスを促す施設を利用しながら妊活を続けました。これでダメなら子どものいない家族でいいと、夫も同意してくれました」(文美さん)
2018年末ごろから文美さんの仕事は多忙に。体調の変化などもあったことから、2019年の初めごろ、約3年超続けた妊活に終止符を打ちます。
妊活を終えたら「先の人生が見えない…」
「人生目標が妊娠だった私は、その先の人生をまったく考えていないことに気づきました。さらに、“誰かのため”を優先して妊活していたこと、結衣が私に伝えに来たことを十分つかめていないことに気づいたんです」(文美さん)
まずは自分と向き合って、これまでの人生を振り返る必要があると文美さんは考えます。
「幼少期から現在までの“自分史”を作って、楽しいことや好きなこと、喜怒哀楽した出来事など、過去の自分すべてを掘り起こして自己分析したんです。
意外と自分自身のことってわかっていないんだなと思いました。
自分の弱点やダメなところを再認識することで凹みそうになったりもしましたが、一方で、自分の長所や得意なことにも目を向けることができ、客観的に自分自身を深く知ることができました」(文美さん)
“妊娠できない自分”を否定的に捉えたり、“自分の弱み”にダメ出しして頑張りすぎていたことに気づいたという文美さん。
「そのすべてが 私の個性だと認めて受け入れたら、自分が自分にかけていた呪縛から解放されて、心がすっきりしたんです。そのころから自然と、ほかの方の妊娠や出産に心から“おめでとう!”って言えるようになっていきました」
つらい経験をプラスに捉え、楽しい人生に
文美さんは子どものいない人生を前向きに捉え、自分の人生を生きようと考えます。
「もっと自由な生き方をしてもいいかなと考えました。“●●じゃなくてはならない”みたいな考え方のくせを外して、自分を大事にして楽しく人生を過ごしたいって」(文美さん)
2022年12月。文美さんは20年超勤めた会社を退職。翌年5月、自身の経験をまとめた「いつかあなたに誇れるように(文芸社)」を出版します。
「自分のすべてを受け入れて心がすっきりしたとき、これまで味わったことのないとてつもない感動を覚えたんです。つらい経験をしたのに、これほど清々しい気持ちになれるんだって。
だから、今つらいことに沈み込んでいる方も、絶対にそこから抜け出せると伝えたかったんです。
年齢や性別など関係なく、私の経験談がお役に立てたらとてもうれしいです」(文美さん)
娘は私の守護神。生きる原動力!
結衣ちゃんの病気が発覚し、生後10日で天国に旅立ったことを、今の文美さんはどのように捉えているのでしょう?
「まったく予期していなかった“非日常”とも言うべき厳しい試練を短い期間に経験させられ、それに対して私自身がどう対応するかを試されたような…。まさに人生修行のひとつだったと思っています。
あのとき、悲しみに沈んで起き上がれなくなるのは簡単だったと思うんです。でも、何とか耐えて、悲しみと一緒に生きていくという方向に舵を取れたことをよかったと感じています。
私にとって、結衣は守護神。いつも私を見守ってくれていると思うので、“結衣に恥じない人生を生きないと”と考えています。
結衣を天国に見送って8年以上経ちますが、いつだって悲しいし、いつだってあの瞬間に戻ってしまうんです。今も乗り越えてはいません。
時薬が効いても傷口は絶対残ります。傷跡が残ることは、わが子がいた証。その傷跡があることは私の誇りです。
古傷はときどき痛むことがありますが、そういうときは思いきり泣いていいと思います。
今、どん底にいて“2度と笑えない”と思っている方もいるかもしれません。でも、思いきり泣いたあとは、その気持ちに蓋をして、“さあ元気に歩こう”と思える日は必ず来ます。
半歩でも一歩でもいいから前進していけば、いつか光は差し込んで来ます。それを信じてほしいなと思います」
取材協力・写真提供/水沢文美さん 取材・文/茶畑美治子
「“悪意のない言葉には傷つかない”っていう自分だけのルールを決めました。楽しくていい人生を生きるには、いろいろなことに過敏にならないことも大事かなと思っています」と文美さん。
物事の捉え方は人それぞれで、つらさや悩みも一人一人違うことでしょう。でも、自分の考え方やその場の状況を俯瞰で見てみたら、思わぬ解決策が出てきたり、前よりも傷つくことが減ったり、ラクに生きられるようになるかもしれませんね。
※ 13トリソミー症候群
13番染色体の全長あるいは一部重複がもととなった染色体異常症。小頭症、小眼球症、口唇口蓋裂などの症状や、重度の発達遅延やけいれん、心疾患、呼吸器疾患といったさまざまな合併症を伴う。(小児慢性特定疾病情報センターのHPを参照してまとめたもの)
●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●記事の内容は2023年9月の情報で、現在と異なる場合があります。
水沢文美さん
1977年4月生まれ。神奈川県出身。早稲田大学商学部卒業後、2001年、万有製薬株式会社(現MSD株式会社)入社。2011年、結婚。2022年12月、MSD株式会社退社後、フリーランス。2022年和漢薬膳食医学会「和漢薬膳師」資格取得。2023年5月「いつかあなたに誇れるように ~天国の娘に誓う~(文芸社)」を出版。