兄はディーン・フジオカ、台湾在住で第3子を妊娠中の女優・藤岡麻美さん。はじめての出産は、中国語が飛び交う修羅場だった!産後1カ月はケアセンターで過ごすのが台湾流
女優でシンガーソングライターであり、元チェキッ娘のメンバーである藤岡麻美さん。2013年に台湾へ移住し、そこで日本人の夫と結婚。4歳と2歳の息子さんと家族4人、台湾で暮らしています。現在は第3子を妊娠中で、年明けに出産予定。大きなおなかを抱えながら、子育て一色の毎日を送っています。今回は、台湾の出産事情や産後のケアセンターについて聞きました。
苦労を覚悟で望んだ、2歳差の3きょうだい!
――第3子を妊娠されたということで、今のお気持ちをお聞かせください。
藤岡さん(以下敬称略):私自身が4人きょうだいということもあって、将来、4人は子どもが欲しいなと昔から漠然と思っていました。息子2人が生まれてからは、子育てで大変ながらも、これまでに感じたことのなかった幸せで豊かな時間が過ごせていたので、やっぱり3人目も欲しいなと。妊娠がわかったときはとてもうれしかったですが、無事に生まれてくるまではまだまだ不安が続きますね。
息子たちは予測できない行動を起こすので、常に危険やケガと隣り合わせ。でも、思いもよらない発言に爆笑させられたりするので、一緒にいると本当に楽しいです。今回は初めての女の子。きっと、男の子とはまた違ったかわいらしさがあるんだろうなと、今からとても楽しみです。
2人の息子は、私のおなかの中に赤ちゃんがいることをある程度は理解しているようです。長男は朝起きてくると、キッチンにいる私に「ママー!ママのおなかの中から、赤ちゃん出て来た?」と聞いてきたり。次男はお風呂に入る時に、大きくなった私のおなかを見て、「妹妹〜(メイメイ)」と言っておなかを触り、赤ちゃんに話しかけたりしています。
――第三子の妊娠までのことを教えてください。お仕事とどう両立していましたか?
藤岡:2019年2月までは、日本と台湾の双方で、映画やドラマの撮影を行っていました。私は仕事でプレッシャーを受けやすいと自分でも感じていましたし、アクションのある役柄が多くて過酷な撮影ばかりだったので、その年の3月から、一旦仕事をお休みして妊活に入りたいと事務所に伝えたんです。その後、長男、次男、そして第三子を妊娠しました。
第三子が生まれたら、ちょうど4歳、2歳、0歳に。年齢差がないので今は大変ですが、私自身の年齢のこともあるので、少しでも体力のあるうちにという思いもありましたね。一気に子育てをするか、年齢差を空けて長く子育てをするかと考えたときに、私は前者を選びました。
台湾では、日本と少し妊活事情も違っていて、けっこうみなさんオープンなんです。実際に病院に通って妊活している人もすごく多いですし、情報も得やすいと思います。それと、共働きの人が増えていて、妊娠・出産する年齢も高まっていることもあって、若いうちに卵子凍結をする方も多いようですよ。
トラブルだらけの二度の妊娠・出産。第三子は事前に対策も
――お子さん二人とも、台湾で妊娠・出産を経験されていますが、海外での出産はどうでしたか?
藤岡:長男の妊娠時は塩分を取りすぎてしまい、手足がゾウのようにパンパンに腫れてしまって、ちょっと触るだけで激痛でした。さらに、出産の直前には高血圧にもなってしまったんです。そのために、促進剤による計画出産だったのですが、血圧を下げる薬で調整しながらの出産でした。
また、出産時は減痛を希望していて、その時の病院では、痛いと感じたら好きなだけ自分でスイッチを押して、分娩ギリギリまで麻酔を入れていいというものでした。これがのちに、私にとっては後悔する原因になったんです。
分娩室に移る前に、陣痛室で何度かいきむ練習をしたのですが、麻酔で痛みの感覚がない私は、きちんと“いきみ”ができているのかがまったくわかりませんでした。
分娩台に上がると、何人もの人たちに囲まれ、そのうちの2人の女性が予行練習で私のおなかを押してみます。「これくらいの力で押しても痛くないですか?」と聞かれ、「大丈夫です」と答えました。しかし、いざいきむタイミングがくると、2人が私にまたがってさっきの何倍もの力で押すんです。そのうちの1人は、100kgくらいあるのではないか言うくらい大柄な方で…。
恐らく、その病院で麻酔を直前まで入れた産婦さんは、陣痛の感覚がなくなってしまい、自力でいきめなくなるため、このように人の力を借りないとスムーズに産むことができないのだと思います。
当然、この時の私はパニック状態。赤ちゃんがなかなか出てこないため、まわりにどんどん人が増え、最後は7人ぐらいの人が私に対して中国語で指示を飛ばしていました。その中国語を聞き取ることにも必死でしたね。
いきむよりもほんの少しでも早いタイミングでおなかを押されてしまうと、おなかに力が入れられないので、自力でいきむことができず、ただただ息が苦しかったのを覚えています。さらに、2人がおなかを押す力に対して、押し返すことばかりに力を使ってしまったようでした。
結果、局部に力を入れるのではなく、顔で息んでしまったようです。夫があとから言うには、私の顔の血管は浮かび上がり、白目も内出血で真っ赤、だんだんと顔が青くなっていき、まるでゾンビのようだったとか。
初産ということに加えて、長男は頭がとても大きかったため、「もう一回いきんだら出てくるはず!」とお医者さんに言われても、まったく出てこなくて…。結局、会陰切開をし、最後は吸引でようやく産むことができました。そんなこんなで、私の身体はボロボロに。長男もなかなか産道から外に出られず、苦しかったと思います。
――長男の出産では大変な思いをされたんですね。次男の出産時は、どうだったのでしょうか?
藤岡:次男を妊娠した時は、長男の時とは病院を変えました。台湾では出産時、夫が立ち会うのが基本条件になっています。ですから、その間に長男をベビーシッターに預けなければならず、同じく促進剤による計画出産を選びました。
その病院では、分娩台に移る前に、看護師さんが一緒にいきむ練習をしてくれたので、それがとてもありがたかったですね。産道に腕を入れて赤ちゃんの頭を触り、降り具合を確かめつつ、私のおなかを触って正しくいきめているかも確認してくれました。
そして陣痛がどんどん強まってくると、「麻酔はここまでです」と言われ、分娩台に移る前にはしばらく麻酔無しになりました。これが、私にとってはベストな方法だったと思っています。
痛みとともに感覚が戻ってきたので、分娩台に上がり、自分の感覚を信じて続けて2度いきむと、スッと産むことができました。
ちなみに、次男の時は妊娠糖尿病の検査に引っかかってしまって、食事指導をされました。今振り返ると、果汁100%のフルーツジュースをよく飲んでいたんです。今、41歳という年齢もあり、高血圧や妊娠糖尿病になりやすいので、今回は事前に処方された薬を飲んでいます。
二度の妊娠・出産で起きたトラブルの原因は、自分ではわかっているつもりなので、今回は事前に対策もしています。そのおかげか、出産に対する不安は減ってきているかなとは思いますね。
産後は徹底的に体を休めるのが、台湾流の出産事情!
――台湾では、産後のケアセンターというのがあるそうですが、どういうところなんでしょうか。
藤岡:台湾では、出産後3日で病院を退院します。その後は「月子中心(ユエズ・ジョンシン)」という産後ケアセンターで過ごす人が多いようです。短くて2週間、長い方だと2カ月以上いる方もいるそうです。私も長男の出産後は、ケアセンターで1カ月過ごしました。
初めての子育てとなると不安ですが、ケアセンターにいる間は、看護師さんたちに24時間、赤ちゃんのお世話をしてもらえます。夜中もゆっくり眠ることができるので、体も楽でしたし、精神的にもとても心強かったです。
ケアセンターでは、1日に5回も食事が出てくるんです!食べるのが遅い私は、食べている途中で次の食事が運ばれてきてしまって(笑)。昼は食事と授乳を繰り返して、夜は赤ちゃんを預けて、搾乳と睡眠を繰り返すといった毎日を送っていましたね。
次男の時は、希望していた産後ケアセンターがすでに埋まってしまっていて…。退院と同時に帰宅し、「月嫂(ユエサオ)」という産後ヘルパーの女性に、1カ月弱泊まり込みで助けてもらいました。月嫂は新生児のお世話に加えて、掃除や洗濯、買い出し、料理作りもしてくれるので、とても助かりましたね。ただ、長男の赤ちゃん返りがひどくて、結局、夜はなかなか眠れないという状況になってしまいました。というわけで、今回の第3子は、できるだけ早めにケアセンターの予約をしました。15日間と短い期間ではあるのですが、その間は日本から両親も来てくれているので、ケアセンターにいる間はゆっくり体を休めようと思います。
台湾では、産後のケアが、女性のその後の人生や体調を左右すると考えられているんです。また産後は、体の弱い女性の体質改善をする唯一のチャンスという考え方もあって、産後のケア対策がとても充実しています。私もそのおかげで、ずっと悩んでいた不眠症が改善されたのかなと思っています。
写真提供/藤岡麻美さん 取材・文/内田あり、たまひよONLINE編集部
●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●記事の内容は2023年12月の情報で、現在と異なる場合があります。
<プロフィール>藤岡麻美さん
女優、タレント、シンガーソングライター。1982年、福島県生まれ。1998年、女性アイドルグループ「チェキッ娘」としてデビュー。2013年に台湾へ渡る。