中3で診断された悪性脳腫瘍、2度の入院、過酷な治療。「つらくて夜看護師さんと泣いたことも…」家族の支えで少しずつ前へ
亀山晴生さんは19歳。中2のときに悪性脳腫瘍と診断されました。一度は寛解したものの再発、「絶対に治りたい」という強い気持ちでつらい治療を乗り越えてきました。治療を終え退院したものの、治療よりつらいという後遺症に悩まされる毎日を送っています。それでも晴生さんは、入院中に見た、小児がんと闘う子、治療法が見つからずに亡くなる子を思い、彼らのためにできることを模索しています。
特集「たまひよ 家族を考える」では、妊娠・育児をとりまくさまざまな事象を、できるだけわかりやすくお届けし、少しでも子育てしやすい社会になるようなヒントを探したいと考えています。
前編では、亀山晴生さんと母である高子さんに、病気と病気に立ち向かう気持ちについて聞きました。晴生さんは取材にあたって、自分の考えや思いをしっかり伝えたいと、メモを用意して取材に臨んでくれました。
脳腫瘍とわかっても「治療すれば違和感がなくなる」と冷静だった
ーー 晴生くんが脳腫瘍だと診断されたのはいつのことですか?
晴生さん(以下敬称略):中3の初め、14歳のときです。
中学生になってから、やたらと喉が渇いたり、夜中に何度もトイレに起きたり、なんとなく自分の身体に違和感を感じていました。当時、学校へは元気に通っていたし、ハードな部活もこなしていたんです。それなのに、体力テストの結果はだんだん悪くなっていたし、身長もほとんど伸びませんでした。
母の知り合いの看護師さんが「病院に行った方がいいよ」って言ってくれて、病院で診察を受けたのが中2の2月。実際にMRIを撮ったのは中3の4月です。そこで先生もびっくりするくらい大きな腫瘍が脳に見つかりました。
高子さん:病院に連れて行ったのは、どこも悪くないことを確信したかったからなんです。でも、現実は予想もしなかった先生の一言。脳腫瘍だという診断を受け止めるのは親として本当につらかったです。
ーー 脳腫瘍だと診断されたときの気持ちを教えてください。
晴生:先生から聞く前に、両親が話してくれました。最初は「嘘でしょ?」って思ったけれど、それまでの違和感の原因がわかったことで妙に納得して冷静でした。「治療すればこの違和感もなくなるんだ」とも思えました。
生検の結果、悪性脳腫瘍であることがわかって、3クールの抗がん剤治療と放射線治療を受けました。
高子:でも、腫瘍が残ってしまったので、中3の10月に北海道にいらっしゃる小児がんでは外科手術の第一人者といわれる先生に手術をしていただきました。
晴生は、退院後、高校にも無事入学して、部活をやったり、塾に通ったり元気に過ごせていたんです。私もすっかり安心していたんですけど、夏を過ぎたあたりから疲れやすくなったなと思ったら、11 月頃になると起き上がれず学校へ行けないくらい体調が悪くなっていきました。病院に行ったら、頭の硬膜に水が溜まっていることがわかったので、その水を抜く手術をしました。そのときに万が一のことを考えて先生が組織を病理検査に出したら……。再発がわかって2回目の治療に入ることになりました。
治療を頑張れたのは家族が必死で支えてくれたから
ーー 再発と聞いたときはどう思いましたか?
晴生:重い倦怠感や体調不良で高校に通えない日が続いていたので、「やっぱり病気のせいだったんだ」って、このときも納得できました。
それより診断を聞いて呆然としている母が心配でした。もちろん、あのつらい治療をまたするのかと思うと嫌だなぁとは思いましたが、そのときは「治したい」という気持ちの方が強かったです。でも実はつらかった治療の記憶はあまり残っていません。
高子:人はあまりにもつらいことを覚えていると、前に進めないからかもしれません。
晴生:実際に入院して治療に入ってからは、つらくて、夜、見回りに来てくれた看護師さんと一緒に泣いたこともあります。でも一緒に泣いてくれる人がいたことで支えられたのだと思います。僕の場合、家族をはじめ、いつもどこにいても寄り添ってくれる人たちがいたから、がんばれたのだと思っています。
振り返ると、つらく苦しい時間にもかけがえのないものをたくさん与えられていた
ーー 記憶に残らないくらいのつらい治療を乗り越えてきたんですね。
晴生:再発したときは、初発のときよりもっと厳しくて長い治療になりました。でも初発治療の後、元気に回復したことが頭にあったので、「今度も絶対に病気を治してやるぞ」という強い気持ちをもって、前向きに入院生活を送りました。
前向きな気持ちになれたのは、家族や病院の先生、看護師さん、保育士さん、院内学級の先生そして親友が励まし続けてくれたおかげだと思います。
母は毎日面会に来てくれたし、母が来られないときや土日は父が来てくれました。母が留守にする間、妹や弟は不安なことも多かったと思うけれど、近くに住んでいるおじいちゃんやおばあちゃんが一緒にいてくれて、本当にありがたかったです。
僕くらいの年代になっても家族の面会はとてもうれしいです。小児病棟に入院していたのですが、どうしても頻繁に来られない家庭もあって、僕よりずっと小さな子が寂しくて泣いている姿を見ていたので、余計にそう思いました。年齢に関係なく、特に入院中は家族がそばにいてくれるだけでとても安心した気持ちになれるんです。
コロナ禍の今、病院の面会が制限されていますから、入院中の子たちはほとんど家族に会えていないんだろうなと思います。子どもたちが寂しいのはもちろん、家族もつらいだろうし、それを間近で見ている病院のスタッフのかたもきっと大変だろうなと思うと、僕も悲しい気持ちになります。
高子:病気と戦っている息子を前に、私ができることはただ面会に行くことだけでした。下の子たちも話せばわかる年齢になっていたので、お兄ちゃんががんばっていることをよく理解してくれていたと感じます。祖父母の存在もとても大きかったと思います。
今だから、こうして当時の体験を振り返ることもできます。晴生は今なお後遺症と向き合う毎日ですが、他のかたにお話しさせていただくことで、改めて入院や闘病の時間が、晴生にとって、私たち家族にとって、どんなときであったのか、冷静になって振り返ることもできます。そのたびに、苦しくて悲しくてつらかった時間も、かけがえのないものをたくさん与えられた時間だったということにも気付かされます。
そのことが、私たち家族がこれからを生きていく力になっているような気がしています。
写真提供:亀山高子
取材・文 / 米谷美恵