重度の心臓病で生まれたわが子。何度も生死をさまよい、開胸したまま手術室から帰ってきたことも…」息子に付き添ううちに、母に芽生えたある決意
「息子は生まれつき重度の心臓病で、命に危険が及んだことも度々ありました。入院中に病院から、突然の電話が鳴るたびに、何か起こったのかと怖くて手が震えたんです」
そう語るのはママの香織さん。息子の匠馬(しょうま)くん(5歳)は、※純型肺動脈閉鎖症(じゅんけいはいどうみゃくへいさしょう)という重度の先天性心疾患に加え、成長とともに表出した疾患や障がいを抱えています。
匠馬くんの治療のサポート経験から、香織さんは医療ケアが必要な子どもに向けた、前開き服のネットショップ『mae-a-key(マエ・ア・キー)』を立ち上げました。匠馬くんの病気判明から2歳ごろまでの治療の様子、『mae-a-key』を立ち上げた経緯などについて、ママの香織さんに話を聞きました。
※https://www.ncvc.go.jp/hospital/section/ppc/pediatric_cardiovascular/tr18_pa-ivs/
~特集「たまひよ 家族を考える」では、妊娠・育児をとりまくさまざまな事象を、できるだけわかりやすくお届けし、少しでも子育てしやすい社会になるようなヒントを探していきます。
「何かの間違い…」妊婦健診でのまさかの診断に頭が真っ白に
「きっと違う。何かの間違いで終わるんじゃないかな」
匠馬くんの心臓病のことを初めて知ったときの心境をこう語る、ママの香織さん。
当時、香織さんは妊娠中で、女性に人気のジュエリーブランドに勤務。妊娠の経過は良好で、産休を経て産後6ヶ月ごろには職場復帰するつもりだったと言います。
事態が急変したのは、妊娠5ヶ月目ごろの妊婦健診でした。医師の勧めで心臓のスクリーニング検査を受け、想定外の診断を受けます。
「おなかにいる息子の心臓に異常がありそうだと告げられて…。心臓の4つの部屋のうち、1つの壁が見えにくいと言うんです。
私自身は体調がよく、胎動も感じていたから、そのまま普通に妊娠が進んで普通に出産すると思っていました。だから、まさかそんなことが起こるとは全然思ってなくて…。診断を聞いたときは頭が真っ白になりました」と香織さん。
当時の心境をさらに詳しく聞くと、匠馬くんの治療が本格的に始まる産後よりも、妊娠中のほうがネガティブな感情が強かったそうです。
「息子がおなかにいる間は、病状や様子がわからないし、何もできないじゃないですか。だから、ただ仕事を休んでいるだけの自分が不甲斐なくて。そんな状態が出産まで続いたのはしんどかったですね」
その後、香織さんは検査のために大きな病院に入院。妊娠の経過確認と並行し、おなかの赤ちゃんの診察が始まります。
「検査が終わったらすぐに退院できるかなと思っていたら、よくない検査結果が出てしまって…。結局、出産まで入院しました」
出産予定日から2日遅れで無事に誕生
出産予定日から2日後に出産。匠馬くんは、重度の心臓病をかかえて誕生します。
誕生後、匠馬くんは2歳前までに大きな手術を3回、それ以外に緊急手術などを経験します。
生後2ヶ月ごろは生死をさまよう状況に。開胸したままベッドで過ごす日も
匠馬くんは出生体重1962g、出生身長46.5㎝と小さく生まれたため、生後約3週間をNICU病棟で過ごします。その後、循環器系の疾患を持つ子ども向けのハイ ケア病棟に移り、最初の大きな手術を受けます。
「体重が3kgになったら最初の手術ができると医師から言われ、生後1ヶ月半ごろに人工血管を入れる手術を受けました。
息子はもともと体が小さかったので、人工血管の太さが合わないなどのトラブルが多発したんです。あのときは本当に大変でした」(香織さん)
手術を終えてICUのベッドに戻った翌日、状態が悪化して再手術になったり、手術をしても血液の循環がうまくいかないこともあったという匠馬くん。生後2ヶ月ごろまでは、何度も再手術を受けたそうです。
「異変があったらいつでも手術できるように、開胸したままICUのベッドで5日間過ごしたこともありました。
その間、おなかに血液が回らなくなって腸に穴が開いてしまったんです。急きょ、人工肛門をつける手術も受けました。私も夫も、息子を何度手術室に見送ったかわかりません。
生後2ヶ月ごろは、生死をさまよう状態に何度もなり、気が休まることはありませんでした。いつも必死に対応していた感じです」(香織さん)
病院からの突然の電話は手が震えるほどの恐怖感
匠馬くんの入院先は、ママやパパなどの付き添いが面会時間内と決まっていたため、毎日病棟に通って時間いっぱいに付き添ったと言います。
そして、匠馬くんがICU病棟にいる間、香織さんは匠馬くんの危険な状態を知らせる、病院からの電話を何度も受けたそうです。
「息子の付き添いを終え、家に帰っている途中で電話が鳴ったり、深夜1時ごろに着信があって慌てて病院に行ったこともあります。電話が鳴るたびに、“何が起こったの?”ってドキッとして手が震えるんです。
いつも同じ着信音だと、鳴るたびに恐怖感が増していくので、定期的にやわらかい音色のものに替えてました」
2度目の手術で命の危険から解放され、生後6ヶ月ごろ退院へ
匠馬くんは生後3ヶ月になる前に、2度目の手術を受けます。
「息子の病状を診て、ベテランの専門医が執刀してくれて。それ以降は、症状が比較的安定してきました。
鼻から酸素チューブを入れて24時間酸素吸入するのは必須でしたが、人工肛門が取れて普通にうんちができるようになったり、口からミルクが飲めるようになって、生後6ヶ月をすぎたころに退院できました。
退院後は、自宅でも24時間の酸素吸入を続けました。外出するときは3kgの酸素ボンベ持参です。
診察が月1回の外来受診だけになったので、治療は少し落ち着いたかなと思います。
でも、夜なかなか寝なかったり、酸素吸入の様子を見たり、体が大きくなって欲しくて夜中も3時間おきにミルクをあげてたんです。毎日が寝不足だったけど、小さいお子さんがいるおうちはきっと同じ感じですよね(笑)」(香織さん)
「ほかの子となんか違う…」心臓病とは別に浮上した大きな気がかりとは
匠馬くんは1才10ヶ月で根治手術となる、3度目の大きな手術を受けます。
この手術によって、24時間必須だった酸素吸入を外すことができました。
「約1ヶ月間入院して手術を受けました。今のところ運動制限はないんです」(香織さん)
3度目の手術を終え、毎日の投薬と5年おきのカテーテル検査は必要ではあるものの、治療はひと段落つきます。でも、香織さんには、別の気がかりがあったようです。
「心臓病のほうは、医師が示した見通しに沿って落ち着いてきたのですが、1才半ごろから“ほかの子となんか違うな”と思うことがありました。聴覚と触覚がとてつもなく敏感だったんです。
たとえば、赤ちゃんの泣き声とか大きな物音をものすごく嫌がったり、私が作った離乳食を全然食べてくれなかったり。唯一、口にするのはごはんに味噌汁をかけたようなドロッとした食感のもの。でも、たくさんは食べないので、体が小さめだから心配でした。
ほかには、感覚過敏みたいなものもあって、服は伸びる素材を好んだりするんです」(香織さん)
3度目の手術後、心臓病の子どもが集まる会に出席した匠馬くん。そのときの様子も気がかりだったと言います。
「集合写真を撮るときにギャン泣きするんです。ほかの子に比べて言葉も遅いし、なんか幼く感じて…。でも、みんなに“大きな手術を3度もしてるんだし、入院生活も長いから、3才すぎごろには追いつくよ”と言われて。
このときは、みんなの言葉を信じて、もう少し様子を見てみようと思いました」(香織さん)
かぶりの服は検査などで脱ぎ着が大変!その経験から前開き服を考案
香織さんには、これまで病院や自宅で匠馬くんの治療のサポートをしてきて、既存の子ども服に少し疑問を感じることがありました。
「上下に分かれた子ども服って、かぶりのものはたくさんあるけど、おしゃれで使い勝手のいい前開きの服ってなかなかないなぁと思っていました」
どうしてそう思ったのか、理由を尋ねると、
「入院中に点滴しているときや、在宅ケアで酸素吸入をしているとき、あと、外来診察でレントゲン撮影や超音波検査などのときは、着替えが本当に大変でした。例えば、かぶりの服だと、酸素ボンベにつながった酸素チューブを服の下に通したりして四苦八苦するんです。
息子はよく泣く子だったので、着替えで手間取ると嫌がってギャン泣きに…。泣かせすぎると心臓に負担がかかりそうで心配だったんです。だから、早く泣き止ませるためにも、前開きの服のほうが着替えさせやすいと思ったんです。
でも、前開きの子ども服はロンパースがほとんどで、1歳、2歳になるにつれて見かけなくなってくるんです」(香織さん)
とくに入院中の着替えは小さなストレスになったと香織さんは言います。
「点滴をしていると、着替えのたびに看護師さんを呼んで処置してもらわないといけなくて。
ミルクをこぼしたり、おむつを汚したりしてサッと着替えさせたいだけなのに、忙しい看護師さんをそのたびに呼ぶのは心苦しいなぁと。前開きで袖も全開する服なら、看護師さんにひと声かければ、ママやパパが手軽に着替えさせられるのになぁと」(香織さん)
お出かけするときは、匠馬くんにかわいい服を着せたかったという香織さん。
「前開きで着心地がよくて、おしゃれな服があったらいいなと思いました。生地は息子が好むTシャツみたいなものがベストだなと」
「前開き服があったらいいのに…」から 「ないなら作ろう」に
匠馬くんが3度目の手術を終えてしばらく経ったころ、香織さんはある決心をします。
「“ないなら私が作ろう…!”と。入院中でもおうちでも、お出かけのときも、おしゃれが楽しめる前開き服にしようと思いました。
夫も協力してくれて、パタンナーをしている夫の友人と相談して、息子のサポートをしながらできる範囲で少しずつ進めていきました」
このころ、匠馬くんの酸素吸入はとれて、かぶりの服も手軽に着られるように。どうして前開きの服を作ろうと思ったのでしょう。
「できれば、息子を保育園に預けて職場復帰したいと思っていました。でも、息子の術後の経過や感覚過敏などが気がかりだったので、仕事復帰は無理かなと。
そうは言っても、育児のほかに一生懸命になれるものを持ちたいと思ったんです。そして、私と同じように“前開き服があったらなぁ”と思う方々のお役に少しでも立てたらいいなと動き出しました」(香織さん)
匠馬くんの術後の経過は概ね良好。でも、「ほかの子と何か違う」と香織さんが感じた気がかりは、大きな局面を迎えます。
その後の匠馬くんの様子や前開き服の動向などは、後編でお届けします。
取材・文/茶畑美治子