「少し前までは元気だったのに・・・」5才で小児がんに。抗がん剤治療、腫瘍摘出手術など、つらい治療は1年2カ月にも及ぶ【神経芽腫体験談】
5才のときに神経芽腫と診断され、2007年1月から過酷な治療が始まった浦尻一乃さん(21才)。闘病中の一乃さんの様子と、一乃さんとともに病気と闘った当時の気持ちについて、母親のみゆきさん(52才)に聞きました。
担当の看護師さんとの交換日記が心のよりどころに
神経芽腫との確定診断がつき、2007年1月4日から抗がん剤治療が始まった一乃さん。1クール目の抗がん剤を投与してしばらくしたあと、腫瘍の影響で貯留した大量の腹水や胸水が、胃や肺を圧迫するようになりました。その影響で呼吸困難に陥り、1月14日には人工呼吸器をつける事態に。
「主治医に、『呼吸を手伝って楽にさせてあげましょう』と説明されました。一乃には、『少し眠くなるからママとパパにおやすみなさいしようね』と話しかけてくれ、一乃が小さな声で『おやすみなさい』と言ったのを覚えています」(みゆきさん)
初発の神経芽腫の抗がん剤治療には既定量がありますが、一乃さんの状態だと、全量を使うと命にかかわる可能性があるとのことで、量を減らして投与することになりました。
「一乃が苦しそうに肩で息をしている姿を見ると、このまま死んでしまうのではないか・・・という思いが、否定しても否定してもわき上がってきます。3週間前にはクリスマスプレゼントを選ぶために家族でお出かけしていたのに、どうしてこんなことになってしまったんだろうと、現実を受け止められませんでした。
実は、一乃が発病する半年前に夫が起業し、私も社員として働いていました。会社にとって大事な時期だったのに、私は一乃の看病で毎日病院にいたので、夫は私の分も働くしかなく、日中に一乃に会いに来る余裕はまったくありません。毎回、面会時間終了ギリギリに駆け込んできていました」(みゆきさん)
一乃さんが入院していた子ども病院は夜9時以降の付き添いは禁じられていたので、帰るときに泣かれるのが毎回つらかったとみゆきさんは言います。
「エレベーターホールまで聞こえるくらい大声で泣くんです。ある日9時前に寝てしまったので、そのまま帰ったことがありました。顔を見てから帰ると泣くから、寝ている間に帰ったほうがいいだろうと判断したのですが、目覚めたとき私がいなくて、いつも以上に泣き叫んだそうです。
病棟の緩和ケアの取り組みで、担当の看護師さんと交換日記をしていたのですが、『そっといなくなるのではなく、声をかけてから帰ってあげてください』と、一乃のことを思って書いてくれました。一乃と同い年の息子さんがいる看護師さんで、一乃のためにできることを一緒に考えてくださり、私も救われました。
神経芽腫の治療では、生検や、化学療法後に小さくなった腫瘍を取り除くために手術が必要になることも多いため、外科病棟に入院することも多いのですが、そのとき外科病棟の集中治療の部屋にいた神経芽腫の子どもは一乃だけ。あとから知ったのですが、外科病棟自体に神経芽腫の子どもは2人しかいませんでした。今のように、同じ病気の子どもを持つお母さんとSNSでつながったりできない時代だったので、この看護師さんが心のよりどころでした」(みゆきさん)
手術前に4日間帰宅。公園でお友だちに会えて、手術への勇気をもらう
その後、少しずつ容態が落ち着き、3月22日に人工呼吸器をはずせて、抗がん剤も通常量に戻せることになりました。そして抗がん剤治療を5クール終えたところで、両側副腎(りょうそくふくじん:左右両方の副腎)にできた腫瘍を摘出する手術を受けることになりました。
「入院から半年経ってやっと初めて3泊4日の外泊が許され、自宅に戻りました。感染症予防のため、自宅前の公園にお散歩に行く程度のことしかできませんでしたが、幼稚園で仲よしだったお友だちが公園に会いに来てくれました。そのころは筋肉の衰えでつかまり歩きしかできなかったのに、お友だちが一緒だと歩行も少しできて、一乃は『いっちゃん、みんなに会えてうれしかった』と。親子ともに手術に臨む勇気をもらえました」(みゆきさん)
7月3日に腫瘍摘出の手術を実施。原発巣(げんぱつそう※)は左の副腎にできていたので、左側の腎臓と副腎、右側の副腎を切除する大手術が、9時間かけて行われました。手術中に、患部に放射線を直接当てる放射線療法も受けました。
「手術後、先生から『予定していたことはできました』と説明されたときは、命がつながった!と夫婦で喜び合いました。右の腎臓は残せたとも聞き、少しでもよい方向に向かう確率が増すのではないかと、とにかくうれしかったです」(みゆきさん)
(※)原発巣:最初にがん(腫瘍)が発生した病変のこと。
白血球の数値がたった40/μL上がっただけで生気がみなぎり、おしゃべりに
術後、一乃さんの体の状態が落ち着いたところで、10月11日~11月9日の1カ月間、大量化学療法を行いながら、10月18日に自家造血幹細胞移植(※)を行いました。
「第三者(ドナー)から移植を行う同種移植に比べると、自家造血幹細胞移植はリスクの少ない治療法のため、個室の簡易無菌室で過ごすことが多いそうですが、ほんの少しのリスクも一乃に負わせたくなくて、無菌室を使わせてほしいと主治医にお願いしました。
幸い無菌室が空くタイミングがあったので、そのときに自家造血幹細胞移植をすることになりました。
大量化学療法が進むにしたがって、名前を呼んでも反応しなくなり、唾液が飲み込めなくてよだれが出っぱなしに。10月25日には白血球が20/μLまで下がりました。体が闘っている証拠だというのが主治医の説明でしたが、苦しんでいる一乃を、親は見ていることしかできません。感染予防のために、抱きしめることすらできませんでした」(みゆきさん)
移植から12日がたった10月30日、白血球の数値が前日から40/μL上がって150/μLになり、「一山超えました」と主治医から言われたそうです。
「その途端、一乃が急にしゃべり出したんです。『食べたいのに口の中にぶつぶつがあって食べられないの』『うれしくて話しちゃう』って。おしゃべりしすぎてむせてしまうほどでした。白血球が40/μL増えるだけで、体の中では劇的な変化が起きているんだと、目の前が急に明るくなった気がしました。その後も白血球の数値は増えていき。11月9日に腫瘍科の大部屋へ移れることになりました」(みゆきさん)
(※)自家造血幹細胞移植:自分の骨髄ないし末梢血幹細胞を事前にとっておいて、大量化学療法や放射線療法の後に戻す治療法。
同じような病状の子がいる病棟に移ったら、薬を飲むことにも前向きに
手術後は、残り3クールの抗がん剤治療を受けつつ、合併症予防の治療も受けることになりました。副腎を取ったので、副腎皮質ホルモンをコントロールする薬も必要です。服薬は、外科病棟にいたころからの大きな悩みだったと浦尻さんは言います。
「1日3回服薬していたのですが、粉末で苦いもの、ドロッとして不自然に甘いものなど、すごく飲みにくい薬ばかり。何時間もかけてやっと飲めたと思っても嘔吐してしまうことも多々あり、30分以内の嘔吐は飲み直しでした。そうしているうちに次の薬の時間がやってくるという感じで、親子ともに大きなストレスになっていました。飲まないと悪化してしまうのではないか…というあせりもあり、『早く飲みなさい!』と強く言ってしまったことも。
薬が飲みにくいのは腫瘍科に移っても変わりませんが、同じように薬に苦戦している子どもたちが、近くにたくさんいるのは大きな違いです。一乃より小さい子が飲み方を工夫しながら頑張って飲んでいる姿を見て、『嫌な思いをしているのは自分だけじゃない』と思えたのか、薬を飲むことに前向きになってくれたのが何よりありがたかったです」(みゆきさん)
退院後まもなく小学校生活が開始。 入学式は隣の子に手を引かれて入場
2008年になり、いよいよ退院が見えてくるようになりましたが、1年以上の闘病と68日間の人工呼吸器管理で筋肉が衰えてしまい、最初は数歩も歩けない状態だったそうです。間近に迫った小学校入学も見すえ、リハビリを行うことになりました。
そして、1年2カ月の入院生活がついに終わり、2月28日に退院となりました。
「一乃は気持ち的にはとても元気だったけれど、体はまさに骨と皮で、足取りがおぼつかない状態。退院後39日目に迎えた入学式では、入場のとき隣の男の子に手を引いてもらっていました。でも、入学式に出ている一乃を見られるなんて、夢を見ているような気持ちでした。再発のことは常に頭にありましたが、まさか4年後に再発するなんて、このときは思ってもいませんでした」(みゆきさん)
お話・写真提供/浦尻みゆきさん 監修/富澤大輔先生 取材・文/東裕美、たまひよONLINE編集部
1年2カ月にわたるつらい治療を乗り越え、小学校入学の日を迎えることができた一乃さん。両親やクラスの友だちたちの手を借りながら、小学校生活を楽しんでいましたが、4年2カ月後の定期検査で再発が発見されることになります。
●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
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