生後1カ月で腸を大量切除し、残存腸16cmの「短腸症候群」に。回復を信じ続けた6年5カ月の入院生活【体験談】
「短腸症候群」とは生まれつき、または病気や事故で腸を大量切除し通常より短くなることで、生きていくために必要な栄養素や水分を十分に吸収できなくなった状態のこと。谷川なおくん(16歳)は生後3日に腸がねじれる「中腸軸捻転」で緊急手術。生後1カ月のとき「壊死性腸炎」で再手術し、「短腸症候群」になりました。母親のちとせさんに6年5カ月と長く続いた入院生活、病院での子育ての苦労、思い出などを聞きました。
息子の命がいちばん危なかったのが、生後1カ月の壊死性腸炎でした
妊娠中はとくにトラブルはなく、自然分娩で生まれたなおさん。母親のちとせさんは初めての対面を楽しみにしていた生後3日目の朝、産院から「大学病院に緊急搬送します」と告げられ、パニックに陥ったと言います。
「早朝から看護師さんたちがバタバタしていて、緊急搬送と聞いて混乱しました。息子は血便が出ていて、15分後には救急車が到着し、あっという間に搬送。その後の記憶はほとんどありません」(ちとせさん)
なおくんは腸回転異常症による「中腸軸捻転」を発症。搬送先の病院で2日間にも渡り、手術を受けました。ちとせさんは1日早く退院し、2日目の手術から父親のゆうきさんと一緒に立ち会ったそうです。
「医師からは腸に720度のねじれがあり、1日目の手術でそのねじれを正し、2日目の手術で腸の回復具合を見て、よくない部分を切除するとの説明がありました。その結果、腸の長さは75cmに。その晩、夫と『これからはいろいろ順調にいかないことがあるだろう。でもどんな逆風下でもまっすぐ進んでいける子に育ってほしいね』と願いを込めて名前をつけました」(ちとせさん)
その後、退院に向けて順調に回復していたなおくんですが、1カ月のとき容体が急変します。
「希望だらけの日々からの一変でした。壊死性腸炎になり、再手術の末、残存する腸が16cmの短腸症候群になったんです。敗血症、腸閉塞なども併発していて、今思うと息子の命がいちばん危なかったのがこのときだったと思います。10時間の手術後に主治医が初めて笑顔を見せてくれたことで、ようやく安堵(あんど)。先生は偶然にも日本国内で数少ない短腸症候群の専門医で、『この子は運がいい、絶対に大丈夫』と元気になることを信じていました」(ちとせさん)
体重増加を見ながら腸の機能回復を待った長期の入院生活
短腸症候群の主な治療法は日々の食事を、点滴などによる栄養剤で補充しながら腸の機能回復を促すというもの。これはすぐ結果が出るものではなく、かなりゆっくりとしたペースで進む根気のいる治療です。
「苦労したのは、体重がなかなか増えなかったことです。1カ月になる直前までは搾母乳と点滴の栄養剤をとっていましたが、短腸症候群になってから母乳は止めて栄養剤のみに。4カ月すぎからうんちの量やおなかの具合を見ながら離乳初期食のようなペースト状の食事を始めました。ただ、腸炎になると絶食して、その後イチからスタートすることの繰り返しで、目標の6カ月で6kgの体重には届かず4600g止まりでした」(ちとせさん)
転機は6カ月のとき栄養剤の摂取方法を変えたことでした。腕の点滴からでなく心臓近くの大静脈にカテーテルをつなげて栄養剤をとるようにしたら、体重増加のペースが急速にアップしたそうです。
「腕からの点滴では限られた栄養剤しか投与できず、皮膚感染を多発するなど、もう限界だったこともあって。息子がちょうど寝返りを始めたころだったので、腕の点滴がはずれたことで自由に動けて寝返りができるようになり、うれしそうでした」(ちとせさん)
なおくんの体重はゆっくりとしたペースながら1歳10カ月で6kg、3歳10カ月で10kgと増加。それに伴い、食事の量や回数、形状もステップアップし、4歳で軟飯と離乳中期食~後期食のようなおかず、5歳で制限はあるものの大人と同じ通常の食事ができるようになりました。
「3歳のとき初めて自宅に2時間だけ帰ることができたのですが、生まれてからずっと病院の中で育った“箱入り息子”なので、外に出たとき風にさえ驚いて(笑)。初めての車や冷蔵庫に大興奮で、家中を探検しまくっている間に終わってしまいました。
4歳のハロウィーンのとき自宅で初めて家族で一緒に食事できたのもいい思い出です。病院では、なおは病院食、付き添いの私はコンビニで買った弁当と、同じものを食べる経験がなかったんですが、私が手作りしたかぼちゃの料理を、初めて食べました。さすがにまったく同じ料理は無理でしたが、『なおもママもパパも同じかぼちゃを食べているね』と笑い合えてうれしかったです」(ちとせさん)
子育てへの気負いに気づかせてくれた、ある看護師さんの言葉
なおくんは5カ月で首すわり、6カ月で寝返り、10カ月でおすわり、11カ月で立っち、1才4カ月であんよとゆっくりめだけれど着実に成長。普段から医師や看護師など大人に囲まれていたためか、言葉の発達が早めでおしゃべり好きの子に育っていきました。そんな姿を見ながら、ちとせさんは常に「病院でどう息子を育てていったらいいか」を悩んでいたと言います。
「息子は患者である一方、普通の子どもでもあるんです。できることはすべてしたい一心で朝10時から夜8時まで最大限に付き添い、手遊びしたり、歌を歌ったり、一緒に絵本を読んだり、ごっご遊びをしたり、とにかく必死な毎日でした。病院からの帰宅後は明日何をしようかなと考え、バタッと寝るような生活を息子が2歳になるまで続けていました」(ちとせさん)
そんなある日、ちとせんさんは看護師さんからかけられた言葉にはっとします。それは「お母さん、1日休んでいいよ。それでは身がもたないから。お母さんが倒れたら、なおくんが困るでしょ」というものでした。
「確かに頑張りすぎていたかもしれないと思いましたね。それからは意識的に昼から病院に行く日を作ったり、病院の近くに引っ越したり、少しずつ向き合い方を変えていきました」(ちとせさん)
また、遠慮してためこんでいた子育ての悩みや要望を、なるべく主治医や担当の看護師さんたちに相談するようにしたのも大きな変化だったと言います。
「先生とは月1回のカンファレンス、看護師さんたちとは日々話す中で、共通の育児目標を持つようになりました。みなさんが息子の成長、その先にある人生まで考えてくれているんだという信頼関係ができてからはかなり気が楽に。あぁ、息子はみなさんと一緒に育ててるんだと安堵し、気負いが少なくなったんです」(ちとせさん)
結局、入院生活は6年5カ月もの長い間続きました。あせりはなかったのでしょうか。
「同じ病気の子が3歳で退院したこともあり、退院のひとつの目標が3歳でした。でも、息子の様子を見ていてそれは難しいなと。なので、ここまで来たら体がもっと強くなるまではあせらず待とうという心持ちでした」(ちとせさん)
なおさんの腸の機能はゆっくりとしたペースながら回復。依然として食事制限、夜間の栄養剤の投与は必要ですが、小学校入学前に退院することができました。
「小学校には漠然と通えるといいなと思っていたので、いよいよだと喜びました。ただ、それと同時に、これからは家庭で息子を見ていかなくてはいけないんだ、覚悟を決めなくてはとの思いも強かったです」(ちとせさん)
【千葉正博先生より】治療の効果が出るまで、なおくん自身も両親も辛抱強く待ってくれました
なおくんの場合は、短腸症候群の中でも残っている腸がかなり短いケースです。幾度もの手術や長期間の点滴治療など、彼の大きな頑張りのおかげで、腸の機能がある程度回復し退院できるまでになりました。入院が長期に亘り、両親も多くの不安を抱えていたと思いますが、治療の効果が出るまで本当に辛抱強く待ってくれました。
お話・写真提供/谷川ちとせさん 取材・文/永井篤美、たまひよONLINE編集部
なおくんのように治療に時間を要する病気になり、病院の中で育つ子どもは少なくありません。子どもは家族や地域社会の人に育てられると言いますが、なおくんの場合はまわりの大人の多くが病院の人たちでした。なおくん自身は入院生活を振り返り、「さみしいと思ったことは一度もありません。まわりの人たちに大切に育ててもらいました」と話しています。
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