小1の長女の診断は脳腫瘍。「病気になってしまってごめんなさい」と、自分を責める娘の言葉に、親のふがいなさを何度も感じながら・・・【体験談】
小学校1年生のとき小児脳腫瘍と診断された山崎理咲子さん(24歳)は、当時住んでいた兵庫県の病院での治療がうまくいかず、北海道大学病院に転院し、治療を受けることになりました。
母親の宴子さんに聞いた全3回のインタビューの3回目は、北海道大学での治療から現在のことについてです。
娘に「ごめんなさい」と言わせてしまう自分が情けなくて激しく反省
北海道大学病院に転院したころ、理咲子さんはうまくおしゃべりができず、歩くのもやっとの状態だったそうです。
「前の病院で、ホルモンの補充やナトリウムバランスの調整などができていなかったのが原因です。全身状態がよくないと抗がん剤治療を受けられないので、まずは全身の状態をよくするために、これらの管理を行いました。
すると、理咲子はみるみる回復。すぐに抗がん剤治療に耐えられると判断されるほど元気になったんです。転院を決意してよかったと心から思いました」(宴子さん)
いよいよ抗がん剤治療と放射線治療が始まりました。
「説明は受けていたし、予想もしていたけれど、嘔吐や頭痛など激しい副作用が理咲子を襲いました。髪の毛もどんどん抜けていきます。でも、理咲子は弱音を吐かず、小さな体でよく耐えていました。代わってあげられるものなら代わりたい。でも私は見守ることしかできません。毎日病院に通い、面会時間をフルに使って理咲子に寄り添いました」(宴子さん)
完全看護の病院でしたが、希望すれば夜の付き添いも可能でした。
「夜も付き添いたいと申し出ました。でも澤村先生が『この子はしっかりしているし、医師も看護師もちゃんとみているから、夜の付き添いはなくて大丈夫。長丁場なんだから、お母さんは家に帰ってしっかり体を休めなさい』って言ってくれたんです。
病気の子どものことだけではなく、付き添う親の健康のことまで考えてくれる本当に優しい先生です。おかげで札幌に滞在している期間、私は体調を崩すことなく、毎日病院に通うことができました」(宴子さん)
理咲子さんの元に行くとき、宴子さんは身なりにも気をつけていたと言います。
「入院した当初は心身ともに余裕がなく、ノーメイクにぼさぼさ髪で面会に行っていました。でもそんな私の姿を見て理咲子が、『私の病気のせいでママはおしゃれができなくなったんだよね。髪の毛もくるくるしていないよね。ごめんなさい』って言うんです。病気でつらい思いをしている娘に、余計な心配をさせてしまったと猛反省。それからはきちんとメイクし、髪もしっかり巻いてセットし、『ママ今日もきれいね』って言ってもらえるように頑張りました」(宴子さん)
「帰らない」と大泣きする息子。自分を責める娘。家族全員がつらかった・・・
理咲子さんの入院中、下の子の面倒を見てくれたのは、東京に住む真一さんのお姉さん家族です。一度、下の子を札幌に連れてきてくれたことがありました。
「2カ月ぶりに再会した娘と息子は、うれしくてはしゃいでいました。そんな2人を見て私も喜びでいっぱいに。息子がとても元気そうなのがわかり、安心もしました。
でも数日後に再び別れの日がやって来ます。外出許可をもらった理咲子と一緒に空港まで見送りに行ったのですが、息子に「帰らない~っ!!!」って大泣きされてしまって。つらくて帰りの電車の中で涙ぐむ私を見て、理咲子が「私のせいだね、ごめんなさい」と。またもや理咲子にこの言葉を言わせてしまったと、ふがいない自分が情けなくなりました。
また、あとから姉に聞いたのですが、息子をなんとかなだめて搭乗ゲートまで連れて行ったものの、「ママのところに行く~~」と、泣きながら何度も何度も逃げ出し、つかまえて飛行機に乗せるのにすごく苦労したそうです。
息子はこのとき3歳。東京での生活になんとかなじもうと頑張っているのに、札幌に来るとそれが台無しになってしまう。だれにとってもいいことはない。そう考え、以後、退院するまで息子に会うのはがまんしました。
私たち家族全員にとって、とてもつらい経験でした。このことは一生忘れられないでしょう」(宴子さん)
4カ月の治療を終え、家族4人で暮らせる日がやってきた!
抗がん剤治療を3クール、放射線治療を約1カ月受けたあと、腫瘍が小さくなっていることが確認されました。
「治療の効果で理咲子はとても元気になりました。でも、がん特有の特殊な物質が血液中にどの程度あるかを調べる「腫瘍マーカー検査」の数値は、ゼロにはなりませんでした。理咲子の頭の中には腫瘍が残っているということ。でも、現状でできる治療はすべて行ったので、治療は終了となりました。今後は経過観察を続け、万一、再発したときは、即座に下垂体ごと腫瘍を摘出すると、澤村先生から説明を受けました。
理咲子は腫瘍とともに生きる生活が始まったのです」(宴子さん)
理咲子さんは放射線治療の前と後に「WISC-III 知能検査 」を受けました。
「脳に放射線を当てるので、脳の機能が低下していないかを調べるためです。幸い機能の低下は見られませんでした。高次脳機能障害を早期に発見するために、小学校4年生のときにも同じ検査を受けましたが、このときも機能低下は見られませんでした。
ただ、耳から入る言葉を理解することに苦労する、人の顔と名前を覚えることや、複数のことを処理するのが苦手など、認知や知能が関連すると思われる不具合を、理咲子は今も抱えています。放射線治療との関係はわからないのですが・・・」(宴子さん)
2007年12月に退院。家族みんなが待ち望んでいた、4人そろって神戸で暮らせる日がやってきました。
「兵庫の総合病院では1年かかると言われた治療が、4カ月で終わりました。1年近く息子に会えないことを覚悟していたので、こんなにうれしいことはありません。と同時に、どこの病院を受診するかで子どもの将来も命も家族全員の生活も変わってしまうことを、身をもって経験しました。
退院後の経過観察は、内分泌科については大阪の病院で診てもらうことになりましたが、脳外科は引き続き澤村先生に診てもらいたくて、定期的に札幌まで通院することになりました」(宴子さん)
2008年1月、小学校1年生の3学期から学校に通えるようになりました。
「髪の毛はまだ生えていなかったので、ウィッグをつけての登校です。北海道大学病院には院内学校があり、毎日授業を受けていたから、わりとスムーズに復学できたと思います。4月には無事2年生に進級できたのですが、9月に夫が東京勤務になったので、東京の学校に転校。内分泌科は東京の病院で診てもらうことになりました。
親が想像していたほど、娘が自分の体のことを理解していなかったと知る
放射線治療の影響で、理咲子さんの下垂体機能は徐々に低下していきました。
「2007年12月から、抗利尿ホルモン、甲状腺ホルモン、副腎皮質モルモンの補充療法が始まりました。晩期合併症の治療です。晩期合併症とは、がんやその治療の影響で、治療が終了してから発生する合併症です。
その後も、小学校3年生のとき思春期早発症、4年生のとき成長ホルモン低下症、高校2年生のとき性腺ホルモン低下症を発症。どれも下垂体機能低下症によって起こるもので、ライフステージに合わせて必要なホルモンを補充する必要があります。
通常の生活を送るためには5~6種類の投薬が必要で、体調を維持するために、状況に応じて適宜補充しなければいけません。これは小学生の子どもには、いえ、中学生や高校生であっても、自分で調整するのは難しいんです。そのため、学校で体調を崩すことも少なくありませんでした。それでも障害者手帳は取得できません」(宴子さん)
理咲子さん自身が自分の体のことを理解して、晩期合併症と上手に付き合えるようになったのは、「成人したここ1、2年のこと」だと宴子さんは言います。
「小さなころから病気を患っている子どもは、いつもどこか不調を抱えているから、何がどう不調なのかが理解しづらいんだと、私が気づいたのもここ数年のことです。
理咲子が小児脳腫瘍だとわかって以来、年齢に応じて病気のことについて話してきましたが、私が想像するほど、理咲子は自分の体のことをわかっていなかったんです。親子で話すだけでなく、内分泌科の先生など専門家も交えて長期的にフォローアップを行い、年齢ごとに理解を深めていく必要があったんだと、すごく反省しています」(宴子さん)
当事者だからわかることがある。小児がんの子どもと家族を支える仕事を始める
理咲子さんの出産後、宴子さんは専業主婦でしたが、現在は公益財団法人ゴールドリボン・ネットワーク(GRN)で働いています。GRNは小児がんの子どもとその家族を支える活動を行っている団体です。
「2012年ごろ『小児脳腫瘍の会』に入会。会のイベントでキャンプに参加した際、GRNのことを知りました。団体の理念にとても賛同したのですが、当時、メンバーに小児がんの当時者や当事者家族などはいませんでした。当事者家族である私が加わることが、小児がんの子どもやその家族のためになるのならと思い、ボランティアとして活動を始めました。今はおもに治療にかかる交通費助成、ひとり親助成、奨学金制度など、当時者やご家族への経済的支援事業を担当しています。また、2024年から厚生労働省がん対策推進協議会の委員も務めています」(宴子さん)
真一さんも別の形で、小児がんの子どもを支援する活動を行っています.。
「夫は事件取材をメインとする記者でしたが、理咲子が小児脳腫瘍になったことで、仕事の中心が医療取材に変わりました。小児がん取材をライフワークにしています。
そのほかにも、『小児脳腫瘍の会』の理事として、小児がんの啓発に努めていました。また、2014年度から2018年度まで小児がん拠点病院の中央機関に対して助言を行うアドバイザリーボート委員を務め、昨年度から再度委員になりました。
小児がんを発症した子どもが日本のどこに住んでいても、その子にとって最も適した治療を受けられる医療体制を整える。理咲子の経験から、夫はその思いで活動しています」(宴子さん)
理咲子さんは子どものころからGRNのイベントには参加していましたが、啓発活動はしていませんでした。
「『普通に生きたい』という思いが理咲子にはあり、小児がんのことについて積極的に話したいと思っていなかったようです。契機となったのは、2020年8月からAMED(エーメド/国立研究開発法人日本医療研究開発機構)の学生アドバイザリーボードになったこと。子どものころ飲むのに苦労した薬の形状や味などについて話すことが、病気で苦しんでいる子どもを救うことにつながるかもしれないと気づき、自分の経験を役立てていこうと考えたみたいです。
2021年10月から、日本癌治療学会の「小児・AYA世代がん患者等の妊孕(にんよう)性温存に関する診療ガイドライン改訂ワーキンググループ」委員を務めています。また、小児がん・AYA世代(15歳~39歳)のがん、 臨床試験(治験)の啓発を目的として2024年9月に行われた「オンコロチャリティーライブ」では、大勢の人の前で自分の経験を語りました」(宴子さん)
理咲子さんは現在、投薬と通院を続けながら、障害者雇用ではなく一般雇用のフルタイムで働いています。
「社会人3年目になりました。ヘルスケア領域における新規事業開発に携わっています。
幸い今日にいたるまで脳腫瘍の再発はありませんが、晩期合併症は一生続き、治療も一生続きます。理咲子だけでなく、幼いころに小児がんを発症した子どもは、生涯、病気と向き合っていかなければなりません。『病気を抱えているから』とあきらめることなく、自分が進みたい道を生きていってほしい。それを応援してもらえる世の中になってほしい。そのための活動をこれからも続けていきます」(宴子さん)
【澤村先生より】助けるだけはなく、自立した生活を約束できる治療が必要
治療のための脳障害は、治療中は脳外科手術が主たる原因であり、晩期合併症は放射線治療です。通常化学療法はほとんど影響がありませんが、大量化学療法だと晩期合併症の可能性があります。小児脳腫瘍の治療は、その子を助けることだけではなくて、自立した生存を約束できる治療を選択しなければなりません。理咲子さんには腫瘍の悪性度を考慮して、視床下部(ししょうかぶ)にどのくらいの線量を入れるべきかが、治療中のもっとも難しい選択肢でした。ご両親と何時間も相談したことを覚えています。なぜなら彼女の腫瘍の発生部位は視床下部ですし、視床下部は認知機能(高次脳機能)の中枢だからです。
お話・写真提供/山崎宴子さん 写真提供/渡部サミーさん 監修/澤村豊先生 取材・文/東裕美、たまひよONLINE編集部
小児脳腫瘍で「5年生きられる可能性は60%」と言われた娘の命を救うために、宴子さん夫婦は行動。娘の理咲子さんはつらい治療を乗りきり、晩期合併症と向き合いながら社会人になりました。
小児がんの子どもが等しく適切な治療を受けられる体制づくりと、小児がん経験者への理解と支援は、今の日本にとって必須と言えるのではないでしょうか。
「たまひよ 家族を考える」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることを目指してさまざまな課題を取材し、発信していきます。
山崎宴子さん(やまざきうたこ)
PROFILE
小児脳腫瘍の会 理事。長女が小児がんの一種である脳腫瘍に罹患(りかん)した経験より、公益財団法人ゴールドリボン・ネットワークにて、おもに当事者や家族を対象とした支援事業を担当。2024年より厚生労働省がん対策推進協議会 委員。
澤村豊先生(さわむらゆたか)
PROFILE
さわむら脳神経クリニック院長。北海道大学医学部卒業。医学博士。1988年スイス・ローザンヌ・ボー州立大学助手として脳神経外科を学ぶ。1996年「頭蓋底外科技術に関する研究」にて欧米へ文部省在外研究派遣。ジュネーブ大学訪問教授にて渡欧。北海道大学大学院医学研究科脳神経外科講師を経て、2010年より現職。
●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●記事の内容は2025年6月の情報であり、現在と異なる場合があります。