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「5年間生きられる確率は60%」と言われた小1の長女。シビアな現実をくつがえすために、母と父は必死の思いで行動を起こす【小児脳腫瘍・体験談】

更新

2007年8月、兵庫の病院から北海道大学病院へ転院するため、一度自宅に戻ったときの理咲子さん。

山崎宴子さんの長女、理咲子さん(24歳)は、小学校1年生のときに小児脳腫瘍と診断されました。混合性胚細胞腫瘍(こんごうせいはいさいぼうしゅよう)という腫瘍で、手術では治らないタイプのため、抗がん剤と放射線による治療を行うことになりました。
現在、小児がんの子どもとその家族を支える活動を行う公益財団法人ゴールドリボン・ネットワークに勤めている宴子さんに聞く、全3回のインタビューの2回目は、家族で小児脳腫瘍の治療に立ち向かっていたころのことです。

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もっと早くに病気に気づけなかったのかと、父と母はともに自分を責める

小児脳腫瘍と診断される前、2007年5月の写真。

理咲子さんが患っていることがわかった小児脳腫瘍は、下垂体に広く深く浸潤 していて、手術で取り除くことはできないタイプでした。

「小児脳腫瘍と診断されたのは2007年6月。理咲子が7歳になる直前のことでした。
診断を受けた兵庫県の専門病院では、抗がん剤と放射線の治療に1年かかると説明を受けました。夫が『娘は助かりますか』と聞いたとき、医師は『治療の効果が出ても5年生きられる確率は60%』だと言いました。

理咲子を苦しめている脳腫瘍が、それほどタチの悪いものだったとは。あまりにも厳しすぎる現実を前に、『なぜもっと早くに気づくことができなかったのか』と、私と夫は自分たちを責め続けました」(宴子さん)

小児脳腫瘍と診断された日、子どもたちが寝たあと、宴子さんと夫の真一さんは深夜まで、理咲子さんの病気について話し合ったと言います。

「その翌日、理咲子と夫が一緒におふろ に入ったときのこと。理咲子が『病気になっちゃってごめんなさい』って言って大泣きしたそうなんです。夜中に目を覚まして、昨夜の私たちの会話を聞いてしまったようでした。

夫は幼い娘が親に気をつかっていることにショックを受けたと言っていました。
でもだからこそ、『何としても助ける』という思いが夫も私も強くなりました」(宴子さん)

娘に付き添うために、息子はいくつもの一時預かりの保育園へ

理咲子さんは生検のための手術後に一時帰宅。祖母たちとも一緒に過ごしました。

2007年7月に抗がん剤の1クール目が始まりました。

「治療については、抗がん剤の効果が出るのか、副作用で苦しめられるのではないかと、心配なことばかり。せめて理咲子に寄り添っていたいと思い、毎日病院に通いました。
当時3歳だった息子は病院に連れていけないので、乳児院や無認可保育園など預かってくれる場所をいくつも探し、とにかく毎日理咲子の病院に行ける時間を作りました。息子の具合が悪いときは、病児保育も利用しました」(宴子さん)

完全看護で、保護者であっても夜間は付き添えない病院でした。帰宅後は、理咲子さんのことが心配でならなかったそうです。

「看護師さんはたくさんの子どもたちの看護をしなければいけないので、きちんとみてもらえるのか、具合が悪くなったときすぐに対応してもらえるのかと不安で、家にいても落ち着きませんでした。病院に任せるしかないのがはがゆく、娘に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

私たちの経験はもう18年近く前のことですが、病棟保育士の充実、きょうだい児の保育や心のケアなどは、現在でも十分とは言えません。ゴールドリボン・ネットワークの仕事に携わりながら、少しでも早く解決しなければいけない問題だと感じています」(宴子さん)

治療を始めた数日後に意識不明に。治療が中断したままとなり、不信感が募る

入院治療が始まる前に家族で遊びに行きました。

治療が始まって数日後、理咲子さんの容体が急変します。

「高ナトリウム血症によるけいれん発作を起こし、意識を失ったと、早朝に病院から電話がありました。高ナトリウム血症とは、血液中のナトリウム濃度が異常に高い状態で、これは下垂体ではなくて視床下部(ししょうかぶ)の症状なのですが、当時はそんな知識はありませんでした。意識が戻るまでに1日近くかかりました。

このときは夫も仕事を休んで2人で病院に駆けつけたのですが、『抗がん剤治療は一度中断する』ということしか説明されませんでした。

実はこの件より前に、娘が激しい頭痛で苦しんだことがありました。主治医に症状を抑える薬を処方してほしいとお願いしたのですが、対処してもらえませんでした。せめてCT検査をしてほしいと強く訴え、検査はしてくれたものの、結果は共有してもらえないまま・・・。
病院への不信感が高まっていた矢先の、早朝のけいれん発作でした。

しかもその後、内分泌科の医師と血液腫瘍科の医師の意見が異なったようで、抗がん剤治療の再開のめどが立ちません。これからもこの病院に娘を任せていいのかという不安と不信感が、どんどん大きくなっていきました」(宴子さん)

夫が強く推す北海道大学病院でセカンドオピニオンを受け、「娘を託そう」と

北海道大学病院への転院を決め、兵庫の病院を退院したころ。

最初に行動を起こしたのは真一さんでした。

「このままでは絶対に助からない、どこかにいい先生はいないのか、ほかの病院はないのかと、夫は仕事以外の時間をすべて使う勢いで、ネットで病院を調べ始めました。そして当時、北海道大学病院に勤務していた脳外科医の澤村豊先生にたどり着いたんです」(宴子さん)

澤村先生にアポを取ると、真一さんはすぐに休暇を取り札幌へ。宴子さんは理咲子さんの看病と下の子の育児があるので、神戸で待っていました。

「澤村先生との面談から帰宅した夫は、開口一番、『理咲子をすぐに札幌に連れて行こう!!』と言いました。このとき私は正直なところ、北海道の医師がなぜ小児脳腫瘍に詳しいのか理解できませんでした。だから夫の言葉に、すぐにうなずくことはできなかったんです。

でも『あの先生は信頼できる。絶対に大丈夫だから!!』と力説する夫を見て、話だけは聞いてみよう、転院するかどうかはそのあと決めればいいと考えるように。理咲子の一時外泊の許可を取り、1週間後に3人で札幌にある北海道大学病院に向かいました。2007年8月、理咲子が7歳になってすぐのことでした」(宴子さん)

澤村先生は3時間にもわたって、理咲子さんの病状や治療について説明してくれました。

「私は手術で腫瘍を取り除いてほしいと考えていたので、そのことを話すと、下垂体を全摘出するという選択肢もあるけれど、その場合、下垂体が関連しているさまざまなホルモンがまったく出なくなってしまい、治療後のQOL(生活の質)が大幅に低下するとのこと。抗がん剤と放射線で治療した場合、下垂体のホルモン分泌の機能は少ないながらも残るから、理咲子のQOLに大きな違いが出るという説明でした。

『もしも再発したら下垂体を全摘出することになるけれど、再発するかどうかは今の段階ではわからない。だったら少しでもQOLが高い時間を過ごさせてあげようよ。もしも再発などがあれば、僕がすぐに見つけて助けてあげるから』

腫瘍という『悪者』を早く取り去ってほしいとばかり考えていた私でしたが、澤村先生のこの言葉を聞いて、今は腫瘍を摘出しないことが理咲子のためになるのだと理解しました。そして、抗がん剤と放射線による治療が、理咲子にとってベストだと決断できました。

私と夫がいろいろなことをたくさん質問しても嫌な顔ひとつせず、私たちが理解し、納得できるまでていねいに説明してくれる澤村先生を見て、この先生を信じて理咲子を託そうと、心から思えたんです」(宴子さん)

娘の命を助けるために、持病のある下の子を姉家族に託すことを決断

北海道大学病院で理咲子さんの治療を行った澤村豊先生と一緒に。

北海道大学病院への転院を決意した理咲子さん家族。真一さんは家族4人で札幌に行くつもりでしたが、宴子さんの考えは違いました。

「夫が札幌に行くには休職しなければいけません。夫の今後のキャリアに影響が出ると思いました。夫が休職することの経済的な不安もありましたが、一時的な不安以上に、夫が今までどおりの仕事を続けられなくなることのほうが、家族にとって一大事だと思いました。それは絶対に避けたかったので、『子ども2人を連れて札幌に行くから、あなたは神戸に残って仕事をしてほしい』と説得しました。
今思うと、ずっとワンオペ育児だったから、『子どものことは自分1人で何とかしなくちゃいけない』という気負いが強かったんだと思います。私の妹が札幌に住んでいるので、私と息子はその家に居候するつもりでした」(宴子さん)

真一さんは神戸に残ることを納得しましたが、真一さんの姉夫婦に下の子を預けることを提案します。

「息子の世話をしながら理咲子の看病をするのは大変だから、息子は姉の家族に見てもらおうというのです。姉夫婦には小学生~中学生の4人の子どもがいて、姉は看護師としてフルタイムで働いているので、毎日とても忙しいことを知っていました。そこに、おむつがとれていない3歳の息子が加わる。しかもそのとき、息子に血友病という持病があることを、姉夫婦に話していませんでした。息子を預かってほしいなんて、とてもお願いできない。最初は絶対に無理だと思っていました」(宴子さん)

真一さんはそれでも強く、お姉さんに預けることを主張したと言います。

「『今は理咲子の命を救うことが大事。何をためらっているのか。心配しないで!』って言うのです。夫に強く背中を押され、息子の持病を話したうえで、姉夫婦に預かってもらい、私と理咲子だけ札幌に行くことになりました。

看護師でもある姉家族のサポートは本当にありがたかったです。子どもが長期入院する際には母親1人でできることには限界がある、親きょうだいなど周囲の人の支えが欠かせないと実感しました。

姉の仕事中、息子を保育園に預かってもらうために、息子の住民票を姉夫婦の家に移したんです。でも、認可保育園には入れず、無認可の託児所しか受け入れ先がなかったそうです。

これらの経験から、ゴールドリボン・ネットワークに携わりながら、きょうだい児の支援体制を整えることが必須だと感じています」(宴子さん)

「地元の専門病院でこのまま治療を続けたら娘は助からない」と感じたという宴子さん夫妻は、北海道大学病院に転院することを決意します。

【澤村先生より】今では全国共通の診断法や治療法が行き渡っています

「小児脳腫瘍の会」が主催するキャンプに参加した理咲子さん。11歳のころ。

18年前のお話です。当時、小児病院の血液腫瘍科や脳外科の先生には、中枢神経胚細胞腫瘍という悪性腫瘍に対しての知識がほとんどありませんでした。この病気を詳しく知っていたのは、大学病院にいる一部の脳腫瘍の専門家だけだったのです。ですから、そこにたどり着かなければ、きちんとした治療はできません。小児の腫瘍だから小児病院に入院するのですが、問題はそこで治療をしてしまっていたことです。かつては小児病院の先生たちは、自分たちがこの病気に対して十分な知識がないとは考えなかったのです。私はこのことに少し怒っていました。でも、今では全国共通の診断法や治療法が行き渡っていて、もちろん小児病院で治療できるところも多くなりました。

お話・写真提供/山崎宴子さん 監修/澤村豊先生 取材・文/東裕美、たまひよONLINE編集部

▼続きを読む<関連記事>第3回

地元の病院で抗がん剤治療を始めたものの、容体が急変して中断。「娘を治してくれる病院を探す」と、夫の真一さんが必死になって見つけ出した北海道の病院への転院を決め、家族4人はバラバラの生活をすることになりました。

インタビューの3回目は、北海道での治療や、その後に現れた晩期合併症、現在の活動などについてです。

「たまひよ 家族を考える」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることを目指してさまざまな課題を取材し、発信していきます。

山崎宴子さん(やまざきうたこ)

PROFILE
小児脳腫瘍の会 理事。長女が小児がんの一種である脳腫瘍に罹患(りかん)した経験より、公益財団法人ゴールドリボン・ネットワークにて、おもに当事者や家族を対象とした支援事業を担当。2024年より厚生労働省がん対策推進協議会 委員。

澤村豊先生(さわむらゆたか)

PROFILE
さわむら脳神経クリニック院長。北海道大学医学部卒業。医学博士。1988年スイス・ローザンヌ・ボー州立大学助手として脳神経外科を学ぶ。1996年「頭蓋底外科技術に関する研究」にて欧米へ文部省在外研究派遣。ジュネーブ大学訪問教授にて渡欧。北海道大学大学院医学研究科脳神経外科講師を経て、2010年より現職。

小児脳腫瘍の会のHP

公益財団法人ゴールドリボン・ネットワークのHP

●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●記事の内容は2025年6月の情報であり、現在と異なる場合があります。

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