「妹の病気をやっつけるために、僕がやるしかないんだ」と決意。11歳のとき白血病と闘う妹の移植ドナーになった兄。今は小児科看護師の道へ【体験談】
看護師として働く松井拓哉さん(28歳)は、急性リンパ性白血病を発症した妹の栞里さんのために11歳のとき骨髄移植のドナーになりました。小学生時代に直面した妹の病気のこと、そして今、病気の子どもと向き合う看護師として働くことについて聞きました。松井さんが働く信州大学医学部附属病院(以下信大病院)では現在、栞里さんの主治医だった小児医学教室・教授の中沢洋三先生が開発した、小児白血病の新しい治療法の治験を行っています。
ある日学校から帰ったら、妹も親もいない・・・、帰宅した母に「入院した」と知らされる
松井さんの2歳下の妹の栞里さんは、よく笑いよく泣く、感情豊かな女の子だったそうです。5歳年下の弟の面倒を見るのも好きで、3人きょうだい仲よく過ごしていました。もちろんけんかをしなかったわけではありませんが、テレビゲームなどでよく遊んでいました。
そんなどこの家庭でも見られる当たり前の毎日が一転したのは、2004年2月ごろ、松井さんが10歳、栞里さんが8歳のときのことでした。
「妹は数日前から風邪のような症状があって、ぐったりしていたのですが、その日、学校から帰ってきたらだれもいなくて。どうしたんだろうと思いながら留守番をしていたら、母だけが帰ってきて『栞里は入院することになった』とひと言。でも、重い病気だとは想像もしていなかったので、深刻には考えていませんでした」(松井さん)
栞里さんは最初に入院した病院で検査を行ったあと、信大病院に転院することになりました。
「最初の病院では治療が難しく、信大病院に転院したのだと思いますが、当時の私は状況をまったく理解していませんでした。『栞里は白血病という病気だ』と母から知らされたときも、『芸能人にその病気になった人がいたな』というくらいの感想しかありませんでした。
1回目の治療が終わって退院したあと、母から『帰宅後は必ず手を洗うこと、おふろは栞里が一番最初に入ること、辛いものは栞里の口内炎を刺激するから食べさせないこと、膵炎(すいえん)を起こしているから脂っこいものも食べさせないこと』などの説明を受け、いろいろ大変だな、とは感じました。でも、退院後に家族旅行に行ったりもしていました」(松井さん)
治ることを信じ、骨髄移植のドナーに。移植後は無菌室のガラス越しに励ます
2005年6月、松井さんが11歳、栞里さんが9歳のとき再発が確認され、再入院。骨髄移植を行うことになり、ドナーになるためのHLA(※1)検査を家族全員が受けました。
「親は型が合わず、弟は完全一致、私はこまかい部分が一つだけ違うという結果でした。弟は年齢が低いこともあって、対象からはずれました。私のHLAの栞里と違っている部分が、栞里のがんと闘うことが期待できるという説明を受け、私がドナーになれば栞里の病気をやっつけることができる、やるしかないんだと決意したことを覚えています」(松井さん)
妹を救うために決意したとはいえ、すべてが初めてのこと。11歳の男の子にとっては想像できないことばかりで、大きな不安や怖さもあったといいます。
「骨髄液を採取している間に体内の血液量が不足しないようにするために、移植前に自分の血液を採っておいて、採取中に戻すのですが、この採血が痛くて泣いてしまいました。
骨髄液採取自体は全身麻酔で行うので痛くはないけれど、全身麻酔で弱くなった呼吸をサポートするために、口から気管に管を通して人工呼吸器を入れます。その影響で麻酔が覚めたとき、のどがひりひりして痛かったし、骨髄液を採取した腰のあたりもとても痛かったです。
また、尿道に入れていたカテーテルを抜いた直後は、尿意はあるのにおしっこが出なくて、体がどうかしてしまったのでないかと怖くなりました」(松井さん)
骨髄移植後、無菌室で過ごす栞里さんとガラス越しに面会し、栞里さんを笑わせるなどして励ましたという松井さん。
「小学生以下の子どもは病棟には入れません。今のようにビデオ通話などのシステムがなかった時代なので、栞里が病棟に入院中は、顔を見ることもできませんでした。だから無菌室のガラス越しに顔を見せるだけで喜んでくれたんです」(松井さん)
「このまま元気になって」と家族全員で祈ったけれど、恐れていた事態に…
栞里さんの容態が落ち着いたところで退院し、一度は家族旅行なども楽しめるほど元気になりました。しかし2006年8月に再々発してしまい、2007年1月に帰らぬ人に・・・。松井さんが13歳、栞さんが11歳のときでした。
再々発が確認されたとき、父親は主治医である中沢洋三先生に「アメリカだったら治せるんじゃないですか」と問いかけたそうです。
「当時、中沢先生にそんな質問をしたことは知りませんでした。両親ともに看護師なので、一般的な親よりも、海外の医療情報に接する機会があったり、そのような情報を集めやすかったりしたのかもしれません」(松井さん)
中沢先生が新しい治療法を開発するためにアメリカのベイラー医科大学へ留学することを決意したのは、栞里さんのこともあったようです。
「それも全然知らなくて。中沢先生が開発した治療法が、マスコミなどに取り上げられるようになってから知りました」(松井さん)
※1 HLA/ヒト白血球抗原。ドナーになれるかは、患者とHLA型がどの程度一致しているかで判断される。
なりたい職業は看護師一択。病気と闘う子どもをサポートしたくて小児科を希望
松井さんは現在、信大病院小児科病棟の看護師をしています。看護師をめざしたのは栞里さんのことがあったからなのでしょうか。
「栞里が苦しんでいるときに何もできなかったという思いはずっとあったので、それも理由ではありますが、親が看護師なので、将来の仕事は医療職以外考えられなかったんです。ちなみに弟も今年看護師になり、県外の病院で働いています。
看護師になるための勉強をしているうちに、病気と闘っている子ども、とくに血液の病気で苦しんでいる子どものサポートをしたいという気持ちが強くなり、小児科の看護師をめざすことにしました。
でも、私が就職を考える時期になったころは、信大病院の小児科病棟では男性看護師が勤務していなかったんです。小児科病棟が婦人科病棟と同じ建物だったのが理由です。だから信大病院への就職はないなと思っていました」(松井さん)
そんなある日、松井さんの進路を決める驚くような偶然が起きました。
「看護科の学生だった20歳のころ、アルバイトをしていた信大病院のカフェに、中沢先生がたまたまお客さまとしてやって来ました。栞里が亡くなって以来ですから7年ぶりくらいですが、中沢先生だとすぐにわかり、思わず声をかけてしまいました。先生も私だと気づいてくれ、ちょっとだけ立ち話をしたんです。
看護師をめざしていて、小児科を希望していると話したら、『信大病院では、小児科病棟で男性看護師が働けるようになるよ』と教えてくれました。
中沢先生が栞里のためにできる限りのことをしてくれたことは、小学生なりに理解していたし、中沢先生が研究を進めている新しい治療法は本当にすごいと思っていたので、中沢先生と一緒に働きたくて、信大病院の採用試験を受けました」(松井さん)
小児科病棟の看護師は現在30数人で、そのうち松井さんを含めて5人が男性看護師です。男性看護師だからこそ求められる看護があるのだとか。
「小児科病棟に男性看護師が来ることになり、喜んでくれたのは男の子たちだったように感じています。小児科といっても高校生くらいまでの子が入院しています。シャワーの介助や体の清拭(せいしき)などは、女性看護師だとどうしても抵抗があるようで、『シャワーは浴びたくない』などと拒否することもあったらしいんです。私だと気楽に介助させてくれるので、そういう点では役に立てているのかなと思います」(松井さん)
栞里さんと同じように重い病気で苦しむ子どもが、治療によって元気に退院していくのを見送るときには、どのように感じますか。
「難しい病気に打ち勝って病院を去っていく子どもを見るのは、心の底からうれしいですし、医学の進歩を感じます。
病気と闘うことは患者本人にしかできないし、そんな子どもの苦しみを受け止め、寄り添うのは家族にしかできません。看護師は病気の子どもとその家族が少しでも楽になれるようにサポートをすることしかできませんが、『いてくれてよかった』と感じてもらえるような看護師になりたいと思っています」(松井さん)
【中沢先生より】難治性白血病の新しい治療法の治験にかかわっています
親子でHLAが適合することは少ないため、標準的な血縁者間造血幹細胞移植におけるドナーは、基本的には兄弟・姉妹になります。そのため、「健常小児ドナーからの造血幹細胞接種に関する論理指針」に基づいて、松井さんがドナーになることになりました。
白血病の治療法は、栞里さんが闘病していた当時と比べたらかなり進歩し、栞里さんの白血病のタイプにも効果のある薬が、2019年に保険適用になりました。しかし、現在の標準治療では治せない白血病が存在します。「治療法がない」といわれてしまう子どもを1人でも減らすために、新しい治療法を開発し、治験にかかわっています。
お話/松井拓哉さん 取材・文/東裕美、たまひよONLINE編集部
大切な妹を失うという深い悲しみを乗り越え、看護師になった松井さん。病気の子どもとその家族が少しでも笑顔になれるようにと、小児病棟で働いています。
●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。