「光を奪いたくなかった」。1歳半で黒目がエメラルドグリーン色になり、「網膜芽細胞腫」と診断された長男。命を守るために必要なのは両目の摘出だった【全盲のドラマー体験談】
4歳からドラムを本格的に始めた全盲のドラマー酒井響希(ひびき)さん(17歳)。東京パラリンピックの閉会式の出演など、さまざまな活躍をしています。響希さんは2歳のときに目の小児がん「網膜芽細胞腫(もうまくがさいぼうしゅ)」で両目を摘出し、目がまったく見えなくなりました。病気が診断されたときには、家族全員が悲しみに暮れ「なんとか目の摘出だけは避けられないか」と奔走したそうです。光だけでも感じられるようにと必死に願い、さまざまな治療を試みました。当時の切実な思いを両親の健太郎さん(46歳)、康子さん(46歳)に聞きました。全4回のインタビューの1回目です。
「希望を響かせられる人になるように」と願いを込めて命名
――響希さんの妊娠中や出産したときの様子を教えてください。
康子さん(以下敬称略) 妊娠中はなんの問題なく順調でした。出産は自然分娩で、夫も立ち会いました。2歳違いの長女の出産時とは異なり、陣痛が始まってから出産までの時間がとても短かったことを覚えています。出血量が多く、出産後すぐ、私が意識を失うほどでした。
健太郎さん(以下敬称略)出血量が多かったのは長女のときにはないトラブルでした。でも、担当の産科の先生がベテランで、長女も取り上げてもらっていたので信頼していました。妻の状態は心配ではありましたが、響希が元気に生まれてきてくれたことの感動が大きかったです。響希の出生体重は3178g、身長は50cmでした。
――「響希」という名前は、現在ドラムで多くの人に希望を響かせている響希さんにぴったりだと思います。名づけはどう考えましたか?
健太郎 まだ性別がはっきりしない時期から、夫婦で名前を考えていました。男の子だとわかってから、さらに候補を絞ったのですが決めきれないまま出産を迎えました。出生届を出すまでの期間に2人で話し合い、「ひびき」にすることにしました。漢字を「響」と1文字にするか悩んだのですが最終的に「希望を響かせられる人になってほしい」と願いを込め「希」という字を入れました。
――響希さんが0歳児のころの発達や成長の様子、乳幼児健診などで気になることはありましたか?
康子 健診で引っかかることはありませんでした。発育の様子も首すわりやおすわりなどの発達の様子も、まったく問題がなかったです。長女と比べても変わりがありませんでした。
1歳を過ぎ、目線が合わないのが気になるように。眼科では様子見と言われ・・・
――響希さんの目が気になるようになったのはいつごろですか?
康子 1歳3カ月のころ、ときどき左の黒目が左右どちらかに寄っているように感じました。最初は気のせいだと思っていたんです。でも、ほかの人に「響希くんはちょっと目線が合わないね」と指摘されたこともあって、近所の眼科を受診しました。
眼科では「少し斜視気味ではあるけれど、ちゃんと見えているようだし大きな問題はなさそうだ」との説明を受けました。
響希はまだおしゃべりもそれほどできない月齢だったので、大人がやるような視力検査はもちろん難しいです。2歳くらいまでは様子見をすることになりました。眼科で大きな問題はなさそうだと言われ、すっかり安心していました。
――その後、決定的な異変を感じたのはいつごろですか?
康子 響希が1歳6カ月のとき、ヘルパンギーナにかかったんです。回復した朝、左の黒目がエメラルドグリーンに変色していました。「これは大変なことが起きている」と直感し、夫に相談しました。
健太郎 パソコンで「目の色が変わる」などいろいろ検索していたら、「網膜芽細胞腫」という病気に行きついたんです。そこで、以前診察してもらった眼科に行き「網膜芽細胞腫ではないでしょうか?」と質問しました。
最初は「めったにない病気だから、多分違うと思います」と言われたんです。ところが診察してみると、ここでは対応できないと言われ、すぐ大阪市立総合医療センターという大きな病院を紹介されました。紹介状を書いてもらった2~3日後には、夫婦で響希を連れて受診しました。
病に侵されているのは片目だけだと思っていた
――医療センターではどんな検査をしましたか?
康子 血液検査やMRIを受けた結果、やはり網膜芽細胞腫と診断されました。しかも、エメラルドグリーンに変色していた片目だけでなく、両目にがんがあると告知されて・・・。ネットで調べたりして少しだけ心の準備はしていたものの、告知前はもし病気でも片目だけだったらまだ希望があると思っていました。でも、両目だなんて・・・とあまりのショックで打ちのめされました。
健太郎 網膜芽細胞腫は網膜に発生する悪性腫瘍です。とてもめずらしい病気で、出生1万7000人につき1人の割合で発症すると説明され、両目ともに発症するのは約4万人に1人の確率だと当時の医療センターの眼科医に言われました。
響希の目の異常を見つけて調べ始めるまでは、病名も聞いたことがなかったし、身内にも目に持病がある人がいなかったので、息子がそのような病気にかかるなんてことはまったく想像もしていませんでした。
しかも進行が非常に早く、医療センターで診断された時点で、5段階あるがんの進行度のうち、もっとも進んでいるステージⅣでした。治療方法は「両目を取るしかない」と宣告されました。ほうっておくと、がんが脳に転移してしまうというんです。網膜芽細胞腫は小児がんの中でも治療を受けたあとの予後が比較的よく、生存率が高いといわれています。だから、「今すぐ目を摘出すれば退院できるし、元気になるよ」と説明をされた記憶があります。
康子 目は脳に近いし、脳に転移をする可能性があることの理解はできました。でも私は、目の摘出手術はどうしても受け入れられませんでした。まだ2歳の子の体にメスを入れ、しかも目を取ってしまうなんてふびんでたまりません。せめて光だけは感じることができるよう、なんとか目を残す方法を探しました。
医療センターでは、眼科と同時に小児血液腫瘍科も受診していました。その科の先生に、今後の治療法について相談をする機会があり、眼球を温存する治療がないか聞きました。ところが、温存できる可能性は1パーセントくらいしかないと言われてしまって・・・。それでも私たちは「わずかでも希望があるなら、温存治療をしてほしい」とお願いしました。そこでまずは抗がん剤治療をすることにしました。抗がん剤を試して腫瘍を小さくし、眼球を温存できるかどうかを考えることになりました。
――抗がん剤治療はどのように進めましたか?副反応などもあったのでしょうか?
康子 入院して3カ月ほどの抗がん剤治療を受けました。髪の毛が全部抜け、食欲もなくなり、ずっとぐずぐずと不機嫌でぐずっていました。言葉では伝えられないけれど、しんどかったんだと思います。さくがあるベビーベッドの中で治療を受けていましたが、ずっと抱っこをねだられて、切ない気持ちでいっぱいでした。
入院しているとき、私は日中はずっと響希と一緒にいましたが、夜中は親の付き添いができない病院でした。だから、寝かしつけてからそっと自宅に帰り、朝早くにまた病院に行く毎日でした。2歳違いの長女は実家に預ける時間がどうしても長くなり、情緒が不安定になってしまいました。響希が入院した小児がんの病棟は15歳以下の子は入れないので、長女はいっさい会えません。響希の看病に通う私だけでなく、長女の面倒を見てくれている夫も、長女も、家族全員が疲れて、気持ちも不安定になっていました。
「命を助けさせてほしい」という主治医の言葉で、手術を決断
――抗がん剤の治療の効果はありましたか?
康子 一度は改善される兆候が見られたので、希望は捨てずにいました。
でも、響希の目のまわりは腫れ、見た目はどんどんひどくなっていくばかりで・・・。入院した当初はまだ目が見えていた様子があったのですが、あるとき、病院のプレイルームでボール遊びをしていると、響希が転がったボールを探せなくなってしまったんです。私は「とうとう響希の目が見えなくなってしまった」とパニックになりました。
――セカンドオピニオンは受けたのですか?
康子 はい。大阪の別の病院でも診てもらいました。その先生には「この子の目を取らずに治せる医師は、世界中どこにもいないですよ」とはっきり言われてしまって・・・。あのときほど衝撃を受けたことはありませんでした。
健太郎 サードオピニオンとして、東京の網膜芽細胞腫の権威といわれる先生にも診てもらいました。先生は響希を見たとたん「この状態で目を温存しておくのはかわいそうだ」と言いました。
この病気になると、眼圧が強くかかるから頭痛もひどくなり、身体のあちこちに不具合が出て、本人も苦しいだろうと言うんです。「今すぐ目を取ってあげたいくらいだ」と言われ、限界を感じました。手術するなら、東京ではなく、家からも近い大阪で受けたほうがいいと思い、帰宅しました。
康子 大阪の主治医の先生に、セカンドオピニオン、サードオピニオンの結果を伝え、治療方針を改めて話し合うことになったんです。それでも私はどうしても目の摘出手術を受け入れられませんでした。話し合いのときもずっと手術を拒んでいたんです。
――最後まで抵抗していた康子さんが、手術を受け入れたのはなぜでしょうか?
康子 主治医の先生の「響希くんの命を助けさせてほしい、命が最優先やから」という言葉があったからです。「私たちは、目を取ったあとの響希くんの生活や将来のことまでずっと一緒ではないし、育てていくわけではないから、無責任かもしれない。でも医師として、響希くんの命を助けさせてほしい」と・・・。
その先生は、普段はとてもクールな方でした。ときには、反発したくなるくらい淡々としていたんです。でも、その言葉を聞き「2歳の子の目を取るのは先生もつらいんだな、私たちと一緒に病気と闘ってくれているんだ」と、やっとですが、やっとストンと腑に落ちたんです。目の温存にこだわっていたのは、親のエゴだったのかもしれないと思いました。先生の言葉は、かたくなだった私の心をほどき、響希の命を守ることを最優先しようと思えました。
――健太郎さんと康子さんの両親は、どんな意見でしたか?
健太郎 ずっと僕たちの気持ちを尊重してくれました。目を温存したいと抗がん剤治療を始めたときも、セカンドオピニオン、サードオピニオンを受ける際も、双方の両親に直接会って話をしました。響希が入院中も、何度もお見舞いに来てくれて心強かったです。手術を決断したときも、「2人がそう決めたなら応援するよ」と言ってくれました。双方の両親や周囲の人たちが支えてくれたからこそ、手術の決断ができたと思います。
お話・写真提供/酒井健太郎さん、康子さん、響希さん 取材・文/齋田多恵、たまひよONLINE編集部
すくすくと育っていたわが子が、「重い病気にかかっている」と突然告知された両親はどれほどつらかったことでしょう。なんとか目を温存したいという気持ちから、「命を優先」して目の摘出手術すると決めるまでには大きな大きな葛藤がありました。それでも、家族にも支えられ、響希さんの両親は現実に向き合えたのでしょう。
酒井響希さん(さかいひびき)
PPOFILE
2006年生まれ。両眼性網膜芽細胞腫(小児がん)により2歳で両目を摘出し全盲に。全盲となってから音に強い興味を持ち、4歳からドラムを習い始め、めきめきと上達。最近ではラジオ、テレビ出演、イベント出演、SNS等で活躍の場を広げている。