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両目摘出手術の前日、何度も伝えたのは「ママの顔を忘れんといてな」。光を失って、食欲もなく、夜も眠れなくなった・・・【盲目のドラマー】

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両目を摘出した、手術直後の様子。

1歳3カ月で目の小児がん「網膜芽細胞腫(もうまくがさいぼうしゅ)」と診断され、2歳で両目を摘出することになった酒井響希さん(17歳)。まだ言葉もきちんと理解できない年齢で、突然暗闇の世界で生きることになり、「本人も戸惑う毎日だったのではないか」と母親の康子さんは話します。遊びも制限されるなか、響希さんの人生を大きく変えることになるドラムに出会います。両親の健太郎さん(46歳)、康子さん(46歳)、響希さんに当時のことを聞きました。全4回のインタビューの2回目です。

両目の摘出手術当日、家族全員で泣きながら手術室に行く様子を見送った

手術前、左目が腫れていることがわかります。

――眼球摘出手術を受けたのが、響希さんが2歳のときだったそうです。当時、響希さんにはどのように伝えたのでしょうか?

康子さん(以下敬称略) 私は目が見えない世界はどんな状態か想像もつきませんでした。だから、響希にはネガティブなことは言わないようにしていました。「見えなくなるよ」とは言えなかったし、「手術したら元気になるよ」と伝えていたと思います。

手術前日に入院をしたのですが、「暗いから電気をつけて」のように言うので、明るさは感じられていました。
手術当日は、手術室の前までずっと抱っこしていました。私は「ママの顔、忘れんといてな」と泣きながら、何度も何度も伝えていました。響希の命を守るためには、目を取るしかないと頭では理解していたんです。それでも、小さなわが子が手術をして、何も見えなくなるのが、かわいそうでたまりませんでした。手術室に入る直前まで「やっぱり手術はやめてもらおうかな」と迷い続けていました。手術当日は、私たちの両方の両親も来てくれていたので、みんなで泣きながら手術室まで見送りました。

健太郎さん(以下敬称略) 手術をすると決断したタイミングが、最初に入院して抗がん剤治療を受けたときから2カ月以上たっていました。ずっと響希の経過を診ていた医師からは「がんが眼球内にとどまっていたならいいけれど、病気が進行し、がん細胞が脳に転移している可能性も十分考えられる。手術したからといってすぐ元気になるかは確約できない」と言われていました。

――手術が終わったあとはいかがでしたか?

健太郎 手術は2時間ほどで終わりました。手術を担当した医師からは「こんな状況は初めてだ」と説明をされました。
どうしたのかと思ったら、「視神経と眼球がつながっている途中のところに、脂肪のような肉のかたまりがぎゅっとこびりついていた。今まで見たことがないものだから、これが何かわからない」と言うんです。そのかたまりを検査したところ、特別なものではなくただの脂肪のかたまりだったそうです。なぜその部分にそれがあったのかは不明だとのことでした。でも、それが視神経と脳の間の壁になっていて、脳への転移を防いでくれていたようです。

康子 摘出した眼球はがん細胞に覆われ、半分くらいまで縮んでいて、干しぶどうのようになっていたと言われました。
そして手術の麻酔から覚めた響希は、とても機嫌がよかったんです。声を上げて笑ったりして、これまでは目が負担になり、体が相当しんどかったんだなと思いました。

何も見えなくなり戸惑うように。自宅に帰ってからは泣くばかりの毎日

義眼を入れている、手術後の響希さん。見えない生活にはなかなか慣れませんでした。

――退院後の響希さんの様子はいかがでしたか?

康子 入院中は比較的機嫌よく過ごしていたのですが、自宅に帰ってからは相当混乱したようです。これまでは当たり前にできていたこと、たとえば家の中で動き回ることやおもちゃで遊ぶことなどが、まったくできなくなっていることに、本人もショックを受けているのがわかりました。いつもイライラとした様子で同じ場所に座り、わーっと泣いているばかりでした。

寝かしつけも苦労しました。これまでは明るいか暗いかは感じていたので、夜、「もう寝る時間だよ」と部屋の電気を消したら就寝していたんです。それが、響希の世界が暗闇となり、昼か夜かもわからなくなってしまいました。時間を伝えてもまだ理解できない年齢です。だから、自分が好きなときに布団以外の場所で眠ろうとしました。冷蔵庫の前で「今日はここで寝る」と言い張ったり、真夜中に起きて「これから公園に遊びに行く」とか、「あのお菓子を食べたい」と無理を言い出したりすることもありました。

健太郎 今考えれば急にまわりが見えなくなった葛藤を2歳の子どもなりに精いっぱい表現していたんだと思います。夜、まったく眠らず、朝まで起きているときは、寝かしつけのため深夜に車に乗せてドライブしたこともありました。車に乗るのが好きだったし、振動で眠くなるようでした。

見えないから、食べ物を口に入れるのも警戒するようになり、ほとんど食事をしなくなりました。響希が落ち着くまで、半年くらいかかりました。

――響希さん自身は当時のことは覚えているのでしょうか?

響希さん(以下敬称略) 手術のことやしんどかったことは覚えてないです。今はどんなふうに映像が見えていたかの記憶もまったくないので、病院のプレイルームで遊んだような気がする程度のことしか覚えていません。以前はもう少し記憶が残っていた気もするのですが、成長するにつれ、どんどん忘れてしまいました。

手術直後から義眼を付けるように。成長に合わせ、大きさも変えていく

見えない生活にも少しずつ慣れていきました。

――手術後、ほかに響希さんの生活に変化はありましたか?

康子 両目を取った翌日からすぐ義眼を入れるようになりました。目の部分には、眼球やそのほかの構造物が入っている眼窩(がんか)という、骨でできた空間があります。眼球があればそのふくらみのおかげで、目のまわりも丸みを帯びています。でも、眼球がなくなると目を開く必要性もなくなるため、へこんでしまい、筋肉もおとろえてしまいます。義眼は、見た目だけの問題で必要なのでなく、筋肉の発達のために必要なものだとの説明でした。
手術後はとりあえず仮の義眼を入れたのですが、これが球体ではあるけれど透明で、黒目も白目もないので、ものすごく異様でした。退院して落ち着いたら、なるべく早く義眼屋さんに行くようにと言われました。

――「義眼屋」とはどんなところですか?

康子 義眼を専門に作っている会社があるんです。そこで、顔の形や目の大きさに合わせ、調整しながらその人に合った義眼を作ってくれます。一人一人、目を失った状況も異なるため、義眼の形状も変わってきます。
がんの治療をしている人だと、放射線治療などの影響で骨の形が変形してしまうため、それに合わせて作る必要があります。ある程度基本の型式があって、技師がそれを削り、形を整え、コーティングするなどして自然な目に見えるようにしていきます。

健太郎 幼少時は顔の成長があるため、1年に1度は作り変えやメンテナンスなどの微調整をしながら使っていました。ちょっとした位置の違いで、顔の印象がまったく変わります。だから、一番自然に見えるようにしてくれるんです。現在は2年に1回くらいの頻度で作り替えています。

――義眼はどのように手入れするのでしょうか?

響希 今は全部自分でできるようになりましたが、水道水を使ってさっと石けんで洗う程度です。コンタクトレンズのように洗浄剤があるわけでもなく、手入れは簡単です。人によっては寝るときやおふろに入るときは取りはずす人もいるようですが、僕は取ると逆に気持ち悪いので、ほとんど付けっぱなしです。目やになどがつくので清潔にはしなくてはなりません。1日1回洗えばいいのいで、僕は朝、顔を洗うときに義眼もはずして洗っています。はずすのはそのときぐらいです。

鉄のマドラーでなんでもたたいて、音の違いを楽しむ毎日

目が見えなくなり、遊びの種類も減ってしまいました。

――手術後、響希さんの生活はどんなふうになりましたか?

康子 音や音楽に興味を持つようになりました。テレビの音や、童謡が好きで、音楽が流れるとその場でリズムをとったり体を揺らして踊ったりする様子がよく見られました。だから、音楽に合わせて私も一緒に踊るなど、音中心の生活を送るようになっていきました。ピアノを触らせたこともありました。

健太郎 だんだん、音楽を聞くだけでなく、自分で手をたたいたり、窓やテレビの液晶などをたたき、素材によって音の違いを楽しんだりする姿が見られるようになりました。
手だけでなく、飲み物に使うマドラーを使い、部屋中いろんなところをたたくようになっていきました。たまたまおばあちゃんの家にあった鉄のマドラーがお気に入りで、いつもそれを持ち歩き、いろんなところをたたいていたんです。

力の加減をしないから、家じゅう傷だらけになって。でも、本人が楽しんでいるならいいかと思い、何も言わなかったんです。でも、あるときテレビの液晶をパーンと割ってしまいました。さすがにこれはまずい、どうしたらいいんだろうと思ったとき、ふと近所にドラムをやっていた先輩がいたのを思い出しました。

ドラムに触れるとイキイキとした様子に

初めてドラムに触れたときの様子。

――実際にドラムを触れたときの響希さんはどんな様子でしたか?

健太郎 響希が3歳になったころ、先輩に「ちょっとドラムをたたかせてほしい」と連絡をしたら「もちろんいいよ」と快諾してもらいました。実際にドラムセットの前に行って、スティックを持って音を鳴らしたら、本人がすごく楽しそうな表情をしていたんです。それが響希とドラムの出会いです。

――健太郎さんと康子さんはドラムの経験はあるのでしょうか?

健太郎 まったくないんです。ドラムだけでなく音楽の経験がほどんどありません。だから、ドラムとの出会いは本当に偶然でした。

康子 私もないです。昔、保育士をしていたので、ピアノは少し弾けますが、ドラムは触ったことがありません。

健太郎 ドラムと出会いましたが、ドラムを習うのはまだ先のことです。当時はリトミックや、ピアノやギターを習っていました。でも、どれも響希がハマることはありませんでした。そしてほかの習い事をしていても、本人はずっと「ドラムをたたきたい」と言うようになってきました。これは習わせてあげたいな、と思い、教えてくれる先生を探すことにしました。

康子 でも、教えてくれる先生を見つけるのがひと苦労でした。響希に視覚障害があると伝えると、「障害がある子を教えた経験がないから難しい」とか「集団で教える教室だから、1人に付きっきりになることはできない」と断られてばかりでした。いくつかの教室などにあたり、ネットで見つけたある教室に事情を話したところ、体験参加をさせてもらえたんです。そしてそのあと、「ぜひ来てください」と言ってもらえました。4歳のころのことです。自宅からは車で30分ほどの場所で、週に1回通うようになりました。

――自宅にドラムセットも購入したのでしょうか?

健太郎 購入しようかと考えましたが、ドラムは高価です。すぐに飽きないか、習うようになってからもしばらく様子を見ていました。ところが響希からは「ドラムが大好き、もっと練習したい、うまくなりたい」と夢中になっているのが伝わってくるんです。本当に楽しそうだから「ドラム欲しい?」と聞いたら、「欲しい、家でも練習したい」と言うので、購入することになりました。でも、本格的なドラムは音量も大きいから、最初は電子ドラムから始めました。

康子 家にドラムが来てからは、楽しくてしかたがないという感じで、ずっとたたいていました。

ドラムの譜面には、点字のものがない。だから音を聞いて覚えてたたく

自宅を改装し、防音室を作ってドラムの練習。響希さん11歳のころ。

――響希さんはどのようにドラムの練習をしているのでしょうか?

響希 ドラムは譜面がありますが、点字のものはありません。音楽で、譜面で、点字があるものはピアノくらいじゃないかな・・・。僕は見えないので、音を聞いて覚えてたたいています。ドラムと出会ったとき、最初からそういうものだと思っているので、耳で覚えるのは苦にならないです。

健太郎 僕と康子は音楽の経験がないから、響希自身が音楽の楽しみ方や学び方を見つけないと、ドラムも教えようがありませんでした。

響希 ドラムはたたき方が決まっているわけでもないんです。プロのドラマーも、楽譜を見ながらたたいているわけではありません。だから、聞いた音を覚えてたたくのは自分にとっても普通のことで、壁は感じませんでした。

康子 目が見えなくなったことで、遊びの選択肢も狭まっていました。私たちにとっては、響希が楽しめるものに出会えて、いい趣味ができてよかったなあという気持ちでした。まさか、その後さまざまなイベントに呼ばれるようになるとは、想像もしていなかったです。

お話・写真提供/酒井健太郎さん、康子さん、響希さん 取材・文/齋田多恵、たまひよONLINE編集部

まだ言葉もきちんと理解できないなか、急に何も見えなくなったことは、幼い響希さんにとっても、両親にとってもとてもつらい出来事でした。それでも、音に興味を持ち、ドラムとの出会ったことが響希さんの人生を大きく変え、人生に光を与えています。

酒井響希さん(さかいひびき)

PPOFILE
2006年生まれ。両眼性網膜芽細胞腫(小児がん)により2歳で両目を摘出し全盲に。全盲となってから音に強い興味を持ち、4歳からドラムを習い始め、めきめきと上達。最近ではラジオ、テレビ出演、イベント出演、SNS等で活躍の場を広げている。

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