私立中学を退学。「できないから、どう生きるか…」その後、起業して感覚過敏の課題解決を決意【体験談】
感覚過敏で幼いときから日常生活で困る場面が多かった加藤路瑛(かとうじえい)さん(18歳)。加藤さんは、12歳のときに株式会社クリスタルロードを親子起業で設立。感覚過敏の課題解決をめざして13歳のときに感覚過敏研究所を設立し、感覚過敏の研究や商品開発をしています。「Forbes JAPAN 30 UNDER 30 2023」(日本発世界を変える30歳未満)にも選ばれています。加藤さんに中学、高校時代のことや起業について聞きました。
全2回インタビューの2回目です。
教室でみんなで食べる給食の時間がつらくて、給食のない私立中学へ
感覚過敏とは、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚などの感覚が人一倍過敏なことです。それによって日常生活で困ることが多々あります。加藤さんが最もつらかったのは給食の時間でした。
――中学生のときのことを教えてください。
加藤さん(以下敬称略) 私は感覚過敏で、小学生のころから給食の時間が苦手でした。味覚過敏による偏食で、給食で食べられるメニューはほとんどありませんでした。そのためお弁当が持参できる私立中学に進学しましたが、お昼の時間はお弁当のにおいが教室に充満していて、においに敏感な私にはつらい時間であることは変わりありませんでした。
休み時間の騒がしさも聴覚過敏の私にはつらく、急いでお弁当を食べ、教室を出て、静かな場所を探して1人でいることが多かったです。
養護教諭に相談して、初めて感覚過敏とわかる
加藤さんが「自分には感覚過敏がある」と知ったのは中学1年生のときです。きっかけは、感覚過敏で頭が痛くなって保健室に行ったことでした。
――感覚過敏とわかったときのことを教えてください。
加藤 騒がしい教室にいると頻繁に頭痛がして保健室に行く回数が増えたことでした。そのため、よく保健室に行っていました。保健室の先生に相談したら「それって感覚過敏じゃないかな?」と言われました。家に帰ってから家族と一緒に感覚過敏についてインターネットで調べたら、思い当たることばかりでした。このとき、初めて感覚過敏ということを自覚しました。ずっと抱えていた苦しさの理由がわかり、気持ちがラクになりました。
――感覚過敏とわかってからのことを教えてください。
加藤 感覚過敏と知って気持ちはラクになりましたが、だからと言って症状が緩和されたり、困りごとがなくなったわけではありません。
感覚過敏だけが理由ではありませんが、私は中学1年生の後半から学校に行くことができなくなり、中学2年生の秋に当時通っていた私立中学を退学しました。
高校は通信制へ。自宅で学ぶオンライン学習だから、音やにおいがつらくない
私立中学を退学後、加藤さんは中学はフリースクール、高校は通信制に進学します。
――私立中学を退学したいと言ったとき、両親は反対したりしませんでしたか?
加藤 中高一貫の私立校だったので、両親はできることなら辞めさせたくないと考えていたようです。両親は「また登校できるようになるかもしれないよ」と言って、退学を引き留めましたが、高額な授業料を払っているのに学校をずっと休むのはもったいないし、「ここにいたら自分は何も変わらない」と思って、退学を決意しました。
――退学後のことを教えてください。
加藤 地元の公立中学校に籍を置いてフリースクールに通うことにしました。
中学2年の終わりころにはコロナ社会になったので、完全オンライン授業になりました。高校は、通信制の高校を選びました。通信制なので、授業はオンラインが中心です。スクーリング以外は、家の中で学べるので、感覚過敏でつらいと思うことが減りました。
たとえば、電車の中は人の体臭や化粧品のにおい、衣服の柔軟剤のにおいなどが混ざり合って、体調が悪くなります。電車や駅の音も私には刺激が強く、毎日の電車通学は負担でした。
ですから、大学も毎日通学を避けるために通信制大学を選びました。大学で心理学や脳神経学を学び、感覚過敏の課題解決をめざしたいと考えています。
五感にやさしい社会をめざして中学2年生のときに感覚過敏研究所を設立
加藤さんは中学1年生のときに株式会社クリスタルロードを設立。現在は、代表取締役社長を務めています。
――起業した理由を教えてください。
加藤 感覚過敏を解決するために起業したと思われることが多いのですが、実は違います。最初のきっかけは、小学生で起業した人の存在を知って、「僕も起業してみたい!」という好奇心からスタートしました。
創業時は、自分のように起業したい子どもの起業支援を事業にしていました。ある日、父に「せっかく自分の会社があるなら、自分の困りごとを解決したら?」とアドバイスをもらいました。
一番最初に思いついたのは、感覚過敏でした。感覚過敏を事業テーマするということは、商品開発のために、自分の感覚を使うことになります。正直それはつらそうなので、やりたくないなと思いました。
しかし、感覚過敏を理由にあきらめていることが多いことに気がつきました。家族とレストランに行くことや友だちと遊びに行くこともあきらめていたのです。ですから、感覚過敏を理由にやりたいことをあきらめなくていい社会をめざして、感覚過敏研究所を立ち上げ、会社の事業として取り組み始めました。
16歳で立ち上げた感覚過敏課題解決ブランド「KANKAKU FACTORY」
加藤さんは、感覚過敏の人の困り感を軽減するための商品開発などにもかかわっています。
――主な活動について教えてください。
加藤 感覚過敏の啓発活動や、大学との共同研究、対策商品の自社開発および、企業と商品の共同開発を行なっています。
また16歳のときには感覚過敏課題解決ブランド「KANKAKU FACTORY」を立ち上げました。
私は小さいころから、衣服や肌着、靴下など身につけるものが肌に触れると痛みを感じていました。みんなも同じように痛いのを我慢して服を着ていると思ってしました。ですから、自分が感覚過敏だと気づいてからは、服の問題にも注目していました。
感覚過敏課題解決ブランド「KANKAKU FACTORY」は、タグなし、縫い目外側をコンセプトにしています。パーカーは、外側に出した縫い目にパイピングテープを使ってデザインにしています。また、感覚の刺激が気になるときはワイヤー入りのフードを目深にかぶったり、ファスナーを上まであげると簡易のマスクモードにもなります。感覚過敏の人のために私がデザインしたカームダウンパーカーです。
――感覚過敏がプラスに働くことはありますか。
加藤 感覚過敏の人の多くは、小さな変化に気づける過敏さがあります。たとえばわずかな味の違い、水の違いなどがわかる過敏さを持っていれば、料理人やソムリエなど繊細な食の仕事にいかせるかもしれません。
しかし、現在は才能につなげることよりも感覚過敏による日常がつらいのが現実です。感覚過敏の人が暮らしやすい社会を作ることが私の目標です。
感覚過敏は人と同じようにできないことが多く、落ち込むことも多いかもしれません。しかし、みんなと同じようにできないことは価値であり強みだと思っています。「できないから、どう生きるか」――それは発明の種になると考えています。
お話・写真提供/加藤路瑛さん 取材・文/麻生珠恵 たまひよONLINE編集部
感覚過敏によって、つらい中学時代を送った加藤さん。しかし加藤さんがめげなかったのは、両親の支えがあったから。加藤さんは「いろいろあったけれど、今の自分があるのは両親が挑戦させて、前に進む環境を作ってくれたから」と言います
「たまひよ 家族を考える」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることを目指してさまざまな課題を取材し、発信していきます。
●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●記事の内容は2024年5月の情報であり、現在と異なる場合があります。
『カビンくんとドンマちゃん-感覚過敏と感覚鈍麻の感じ方-』
感覚過敏と感覚鈍麻の2人の中学生を主人公にした物語を通して、感覚に関する子どもたちの生きづらさや悩みを追体験できる書籍。医師監修による解説も掲載。加藤路瑛著/1595円(ワニブックス)