700グラムで生まれ「3日しか生きられない」と言われ…。小頭症(重度脳性まひ)の息子と家族との9年間の日々。前向きになれたのは家族や周囲の支えがあったから
山崎絵美さんは、長男(19歳)、長女(15歳)、二男(9歳)、パパの5人家族。二男の生翔(いくと)くんは、小頭症(重度脳性まひ)という障害を抱えています。
山崎さんは地元企業のポスターやチラシのデザイン・印刷などを手がける会社で働きながら、“心を笑顔に”というコンセプトで、障害児や医療的ケア児の家族の声をかたちにするブランド「cocoe(ココエ)」を立ち上げました。今回、生翔くんの妊娠・出産時のことから、これまでの育児生活を振り返ってもらいました。全2回のインタビューの前編です。
切迫流産で予期せぬ入院、妊娠7カ月での出産
3人目の妊娠ということで、当時は比較的気楽な気持ちで妊娠生活を送っていたという山崎さん。転職したばかりの時期だったこともあり忙しい日々を過ごしていたそうですが、妊娠5カ月のある日、突然入院をすることに。
「実は3人目を妊娠する2年前に、子宮頸(けい)がんの高度異形成が見つかり手術を受けていたんです。今思えば、その際に『早産になりやすい』と医師に言われていたのですが、すっかり忘れてふだんどおりの生活を送っていました。
そんな中、妊娠5カ月のときに、仕事が終わって車で家に帰る途中に出血したんです。そのまま自力で病院まで行ったのですが、切迫流産(せっぱくりゅうざん)と診断され、そのまま入院しました。それから半月ほどたったあとにまた出血をし、医師に『ここの病院ではもう赤ちゃんを助けることはできない、助けたかったら別の病院に転院する必要がある』と言われました。そこで、MFICU(母体・胎児集中治療室)のある別の総合病院に転院することに。管理が厳しい病院だったので、面会もできず、上の子どもたちに会えないのはつらかったですね。
入院中は張り止め薬の副作用がとにかくひどく、何もできない、ずっと寝たきりの状態でしたが、とにかくおなかの子を1グラムでも大きく育ててあげたいという気持ちで、安静にしてごはんをしっかり食べていました。トータルで2カ月半ぐらい入院しましたが、25週0日、妊娠7カ月のときに赤ちゃんの心拍が確認できないと言われてそのまま緊急分娩、出産という流れでした」(山崎さん)
出産時の体重わずか700グラムで誕生。「3日しか生きられない」と言われたわが子
「産んだときの体重はわずか700グラムでした。新生児仮死という状態で自発呼吸はなく、私は赤ちゃんの顔も見られず、おめでとうも言ってもらえず、息子はすぐにNICUに運ばれていきました。『お母さんは処置をして病室に戻ろうね』と看護師さんに言われましたが、私は何が何だかわからない、赤ちゃんのことを聞きたいけど怖くて聞けない、そんな複雑な感覚でした。
そのあと、8時間ほどたったころに医師に呼ばれました。『赤ちゃんの状態が非常に悪い。自発呼吸の兆候も見られないので、おそらく3日ぐらいしか生きられないと思います』とはっきり言われました。いろんな説明をされて、同意書もいろいろと書きました。取り乱したりはしなかったものの、ただただ信じられなくて、ぼうぜんとしている…そんな感じでした。
それから『赤ちゃんに会ってあげてください』と言われて対面した瞬間、もう泣き崩れました。生まれて初めて見る大きさで、おなかがパンパンで全身真っ黒の赤ちゃん…。その姿にとにかく衝撃を受けました。人間ができる途中のような身体で、わが子の手のひらは私の親指の第一関節くらいしかない。全身は手のひらに乗るほど小さくて。もう本当に、ごめんなさい、ごめんなさいって…。そのときに初めて取り乱した気がします」(山崎さん)
退院後は呼吸管理に気をつかいながらも、愛情を注ぐ日々
そんな状況だったにも関わらず、奇跡的に呼吸状態が安定し、3日目には自発的に排尿もできるようになった生翔くん。3 、4カ月たったころには人工呼吸器をはずすことができたそうです。そのあと生翔くんが退院するまでの間、山崎さんは毎日母乳を病院まで届けたそう。そのかいもあり、半年後には生翔くんの体重は2500グラムまで大きくなりました。
「医師と話していた“2500グラムになったら退院”という目標を、半年後にかなえることができました。とはいえ、自宅に帰ってきても酸素投与で呼吸管理をする必要があり24時間酸素を送っている状態なので、退院後はとにかく風邪をひかせないように気をつかいました。もちろん外にも連れて出られないですし、上の子どもたちが小学校や保育園で病気をもらってくるので、すごく神経を使って管理をしていました。最初のころはそこがいちばん苦労した部分ですね。とはいえ、やっぱり風邪をひくこともあったので、そのたびに入退院を繰り返していました」(山崎さん)
そのころを振り返り、「あとは、ずーっと抱っこだったのがとにかくたいへんでしたね(笑)」と山崎さん。
「ずっと保育器の中にいたので、愛情不足というのか…。とにかく甘えん坊で寂(さみ)しがり屋さんでしたね。抱っこしてないと顔を真っ赤にさせて泣くんです。そうすると呼吸器の酸素の値がどんどん下がっていくので、とにかくそれが怖くて…ずっと抱っこしていました。私も寝不足が続いた1年でした」(山崎さん)
療育施設への通所で気持ちに変化が。本当の意味で「前を向けた」
生翔くんが1歳半のときに職場復帰をした山崎さん。それを機に生翔くんは療育施設に通うように。療育施設への通所は、生翔くんの変化はもちろん、山崎さんにも大きく影響を与える転機となりました。
「医療的ケアが必要な子どもたちを預かってくれる、病院内の施設に通うことになりました。最初は大泣きして通っていましたが、数カ月たつと楽しんで通うように。看護師さんも保育士さんも理学療法士さんも、必ずだれかが自分に付き添ってくれて相手をしてくれる。それが息子にとっては本当にうれしかったみたいで。自分がやりたいことや、できることを伸ばすというのが療育ならではなので、寄り添ってくれるのがありがたかったです。
そこのスタッフさんたちはとても温かくて。『しゃべられなくても歩けなくても関係ないよね、かわいいから!』みたいな。皆さんの“かわいい”っていう言葉にすごく救われました。
生翔自身の変化もありましたが、それ以上に大きく変わったのは自分の気持ちの部分です。こういった場所を経験するのは初めてでしたし、障害児や医療的ケア児は自分の子どもしか知らなかった中で、施設に行くと本当にいろんな症状の子どもたちに会うんです。
私が今まで見たことのない世界で最初は戸惑いもあったんですが、まず知ることができたっていうのは自分の中でも大きな変化だったなと。こんなふうに社会って受け入れてくれるんだと思いましたし、そこに通っている子どもたちの親御さんたちも前向きなんです。いろんな人たちと関わって、初めて本当の意味で前を向けたのはその時期だったと思います」(山崎さん)
弟の存在がきっかけで、きょうだいたちにも変化が
生翔くんには、現在19歳の兄と15歳の姉がいます。きょうだいのお話を聞きました。
「生翔が生まれたとき兄はまだ小学生、姉は保育園だったので、寂しい思いをしたと思います。そのころのことで印象に残っているのが、小学校1年生のときの七夕のお願いごとに娘が『ママと一緒にあの料理ができますように、ママと一緒に寝られますように』と書いていて…。それがすごく胸を締め付けられる思いがして、今でも忘れられません。
でも兄も姉も率先して手伝いをしてくれて、しっかりしていたなと思います。そして何より、弟の病気を自然に受け入れて、かわいい、かわいいと言ってくれたのがありがたかった。今はもう2人とも大人になって考え方も変化してきて、弟の存在がきっかけになっていると思うんですが、兄は福祉教育に関心を持つようになりました。親としてはたいへんな分野と知っているだけに複雑な部分もありますが、子どもたちが決めたことを尊重してあげたいと思っています」(山崎さん)
そんなお兄ちゃんは、山崎さんが立ち上げた医療的ケア児の家族の声をかたちにするブランド「cocoe」の商品開発にも参加しているのだとか。
「“cocoeがめざす共生社会において必要なもの”に関して、若者として、またきょうだい児という立場でどういった視点を持っているのか、彼の意見を非常に参考にさせてもらいました。cocoeの活動も応援してくれていて、とても頼もしい存在です」(山崎さん)
お話・写真提供/山崎絵美さん 取材・文/安田萌、たまひよONLINE編集部
山崎さんや上のきょうだいの愛情を受けて、現在は小学4年生になった生翔くん。山崎さんはそんな生翔くんやきょうだいたちを育てながら、自身の経験を生かして障害児や医療的ケア児の家族の声をかたちにするブランド「cocoe」を立ち上げました。インタビューの後編では、ブランドを立ち上げた経緯やその背景にある思い、そして生翔くんの現在の様子を聞きました。
「たまひよ 家族を考える」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることを目指してさまざまな課題を取材し、発信していきます。
山崎絵美さん(やまざきえみ)
医療的ケア児である息子の育児経験から、“心を笑顔に”というコンセプトで、障害児や医療的ケア児の家族の声をかたちにするブランド「cocoe」を立ち上げ、島根県を拠点に活動中。インスタグラムでは「cocoe」の活動や子どもたちとの暮らしを発信している。
●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●記事の内容は2024年10月の情報で、現在と異なる場合があります。