小さく生まれた双子の女の子。「ごめんね」と謝る私に「ママに会いたかったよ」と…娘の言葉に涙があふれた【体験談】
毎年11月17日は早産児やその家族を応援する「世界早産児デー」です。日本には小さく生まれた赤ちゃんとママ・パパのための「リトルべビーハンドブック」という母子健康手帳のサブブックがあります。
13年前静岡県で初めて当事者によって作られたリトルべビーハンドブックは、その後全国に広がり、2024年、ついに47都道府県すべてで作成されることになりました。初めの静岡県版リトルベビーハンドブックを作ったのは、リトルベビーサークル「ポコアポコ」の小林さとみさんたち。さとみさんは、2002年に927gと466gの双子を出産しています。双子の成長のことやリトルベビーハンドブックへの思いについて聞きました。全2回のインタビューの後編です。
「ママに早く会いたかったんだよ」
妊娠27週のときに生まれた双子。長女の優衣(ゆい)さんは927g、二女の愛彩(あや)さんは466gの小ささでした。2人は別々の病院のNICU(新生児集中治療室)に入院し、優衣さんが生後5カ月、愛彩さんが生後7カ月で退院しました。さとみさんは、2人の成長の様子をたくさんの写真に撮りアルバムに貼っています。しかし、「2人がNICUにいたころの写真は貼ることができなかった」と言います。
「生まれて間もないころの小さな小さな娘たちは、自分が思うふっくらした赤ちゃんとは遠くかけ離れていました。アルバムに貼るのは『普通の赤ちゃん』のようになってからにしたいと思っていました。できれば、小さく生まれたことはなかったことにしたい、と思ったのかもしれません。
だけど、娘たちが3歳を過ぎて幼稚園に通い始めたある日『なんで病院で生まれたばっかりの写真がないの?』と単刀直入に聞いてきたことがありました。子どもから生まれたときのことを聞かれたらちゃんと説明しよう、と心の準備はしていたものの、実際に聞かれたときには動揺しました。
娘たちには『お口に呼吸器やチューブが入って、おててには注射の針が入っているから見たらかわいそうって思っちゃうかもしれないよ』と話しましたが、子どもたちは『どうしても見たい!』と言うんです。決心して、写真を見せてみました。写真を見て『ちっちゃいね』と感想を言う2人に、私は思わず『ごめんね』と謝りました。すると2人は『ママに早く会いたかったからおなかから飛び出してきちゃったんだよ』と言ってくれたんです。優しい言葉に、涙がこぼれました」(さとみさん)
集団生活で発達の様子が気になるように
双子は3歳になってから幼稚園に入園し、集団生活が始まりました。
「子どもたちがとってもかわいかったので、ずっと自分でお世話をしていたかったんですけど、娘たちのためには集団生活も必要ですから、幼稚園に入園することに。自宅近くで保育時間がいちばん短い幼稚園を探しました。そのほうが娘たちと長く一緒にいられると思ったからです。
集団生活をさせてみたら、家では気づかなかった娘たちの発達の様子に気がつきました。ほかのお友だちと比べて少し発達がゆっくりだったり、いっせいの指示に従えなかったり、先生を困らせたりすることがあるとわかってきました。もしかしたら娘たちには発達特性というものがあるのかもしれないな、と感じ始めました」(さとみさん)
妊活中に保育士の仕事を辞めてからたまにパートなどをしていたさとみさんでしたが、双子の小学校入学と同時に、自治体の教育相談員の仕事に就くことになりました。
「不登校児童や、病気で学校の学習について行くことができない児童が利用する、市立中学校の教育相談室に勤務する教育相談員の仕事につきました。娘たちが発達特性があるとしたら、小学校や中学校でどのようなサポートを受けられるのかを、現場で学びたいと思ったからです。相談員の仕事をしながら、中学校の先生方、養護教諭の先生方にいろんなことを教えていただきました」(さとみさん)
『頑張れ!』の応援に苦しさを感じるように
双子が小学校生活を送るうち、より小さく生まれたほうの愛彩さんは、学習や集団行動の面で難しさを感じる場面が増えたのだそうです。
「愛彩はクラスメイトから『頑張れ!』と応援してもらうことがたくさんありました。たとえば、運動会の種目の長なわとび。クラスみんなで挑戦する連帯責任の種目ですから、『あやちゃん、頑張れ!』と愛彩の背中を押してくれる子、愛彩の手を引いてくれる子がいました。だけど、愛彩自身も最大限に頑張っているのです。頑張っているのにもっと『頑張れ!』と言われるうちに、愛彩の気持ちがいっぱいいっぱいになっているようでした。
学習面でも、ゆっくり取り組めば理解できるのですが、学校の授業の進度についていくのは難しいところがありました。そこで私は放課後に自宅を開放して、近所に住む学習面がゆっくりな子を集めて、勉強のサポートをしたこともあります」(さとみさん)
愛彩さんは小学6年生までは普通学級で過ごしましたが、中学1年生からは特別支援級に通うことになりました。
「卒業後の高校進学を考えたとき、このまま普通級で過ごしていたら、さらに生きづらさを抱えてしまうんじゃないか、と。そこで、愛彩の適正検査を受け、障害者手帳の申請をして、中学1年生からは特別支援のクラスに通わせてもらうことにしました。その後、高校も特別支援学校に進学しました。
愛彩自身は『普通級ではクラスメイトたちがよくしてくれて、頑張れって言ってくれたけど、本当の友だちっていなかった。だけど特別支援学校に行ったら、仲間がいっぱいできてよかった』と言っていました。その言葉に、環境を変えてこの道を選んでよかった、とほっとしました」(さとみさん)
2011年にリトルベビーハンドブックを作ってから13年
さとみさんは双子が4歳のころ、愛彩さんが入院していた静岡県立こども病院の医師たちが作ったリトルベビーサークル「ポコアポコ」に参加し始めました。
「サークルには私と同じように低出生体重児を育てる先輩ママや先輩パパ、小さく生まれて成長した子どもたちもいて、とても励まされました。娘たちが5歳になるころに『サークルの代表をしてくれないか』とお話がありました。私は子どもたちが生まれたときに、自分ができることはなんでもします、と神様にお願いしたことを思い出し、何か恩返しができればと、引き受けることに。
サークル活動をしていたあるとき、新聞記事で熊本県による極低出生体重児の支援で、“くまもとリトルエンジェル手帳”があることを知りました。通常の母子健康手帳には記入できないリトルベビーの成長を記録できるサブブックです。静岡県にはないものだったので、『私たちもこの手帳がほしい』と強く思いました。私たちは熊本の手帳を参考に研究を進め、静岡県の助成金事業に応募して、当事者による初めてのリトルベビーハンドブックを作成しました。完成したのは2011年のことでした」(さとみさん)
その後、国際母子手帳委員会事務局長の板東あけみさんの協力を受け、リトルベビーハンドブック作成の動きが全国的に広がりました。
「13年たった今年、ついに47都道府県、すべての自治体で作成されることになりました。リトルベビーを育てる全国のママたちが『子どもの成長を記録できる手帳がほしい』という、同じ思いを持っていたのだと思います。あのとき『自分たちも作りたい』と声を上げてよかった、と強く感じます。
ただ、これがゴールではなく、まだまだたりない支援もあります。小さく生まれた赤ちゃんのママたちは、小さく産んだことに心を痛め、子どもの成長発達のことを心配しています。そんなお母さんたちにとって、安心して赤ちゃんを育てられる世の中になったらいいな、と、そういう思いでこれからもリトルベビーサークルの活動を続けていきたいと思っています」(さとみさん)
22歳になった双子は今
2002年に小さく生まれた双子は22歳になりました。
「優衣は大学4年生で就職活動中です。自分自身のことを見つめながら、社会に出る準備をしているようです。愛彩は高校を卒業してから2年ほど就労支援の事業所で働いたのち、県の障害者採用で会計年度任用職員として働いています。
出産したときも今も、私は娘たちを小さく産んでしまった、と自分を責める気持ちがどうしてもぬぐえません。だけど娘たちは、最近でも『保育器に入っていたことは覚えていないし、お母さんが自分を悪いと思うことを私たちは望んでいない』と言ってくれます。2人ともとても優しく成長してくれました。ほんとうにありがたいと思っています」(さとみさん)
お話・写真提供/小林さとみさん 協力/板東あけみさん 取材・文/早川奈緒子、たまひよONLINE編集部
双子の命の無事を願った日々から22年。さとみさんは、「あのときの自分とおなじつらい思いを抱えてほしくない」という思いから、「これからもリトルベビーのママたちに寄り添っていきたい」と話しています。
「たまひよ 家族を考える」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることを目指してさまざまな課題を取材し、発信していきます。
●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●記事の内容は2024年10月当時の情報であり、現在と異なる場合があります。