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妊娠27週で生まれた927gと466gの双子の女の子。「皮膚が真っ赤で、鳥のヒナみたいに小さかった」【小さく生まれた赤ちゃん・体験談】

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新生児科の看護師さんたちがくれたメッセージカードに貼られていた、生後すぐの二女・愛彩さんの写真。このカードをさとみさんは今も大切にしています。

毎年11月17日は早産児やその家族を応援する「世界早産児デー」です。静岡県のリトルベビーサークル「ポコアポコ」の代表を務める小林さとみさんは、2002年4月、妊娠27週で双子を出産。長女・優衣(ゆい)さんは927g、二女・愛彩(あや)さんは466gの超低出生体重児でした。当時の思いや双子の成長について、さとみさんに聞きました。全2回のインタビューの前編です。

妊娠7カ月の妊婦健診で「赤ちゃんの命が危ない」と言われ・・・

妊娠11週のエコー写真。名づけに迷っているメモが。

保育士として働いていたさとみさんと夫の正樹さんは、社会人テニスサークルで出会って交際し1998年に結婚。子ども好きなさとみさんは妊娠を望んでいましたが、2度の流産を経験します。

「保育士の仕事は体力的にハードだし水を使うことも多く体が冷えるのが私の体によくないのでは、と、私を気づかった夫から仕事を辞めてほしいと言われました。それで、大好きな仕事でしたが、不妊治療も視野に入れて仕事を辞めることに。仕事がなくて家にいるとあまりに暇で、『新婚さんいらっしゃい!』という番組に応募してみたら、なんと出演が決定したんです。番組内のゲームで景品をいただいたり、出演した夫婦たちが参加する『新婚さんいらっしゃいツアー』でハワイ旅行に行ったりして楽しんでいました(笑)。そんなふうに過ごしていたあるとき、妊娠が判明したんです」(さとみさん)

2001年の冬に婦人科を受診したところ、さとみさんは双子を妊娠していることがわかりました。

「待望の赤ちゃんが来てくれて、しかも双子です。もう、うれしくてうれしくて! 毎日がバラ色のマタニティライフでした。健診のときに担当の先生から『赤ちゃんたちはちょっと小さめかな〜? でもお母さんがすごく元気だから様子を見て大丈夫でしょう』と言われていました。

ところが、妊娠7カ月の妊婦健診に行ったときのこと。エコー検査をしていた先生の顔色がくもって『今日はおうちに帰せないよ』と言われたんです。いつも冗談ばっかり言う楽しい先生だったので『え〜!妊婦にそんなこと言うの?』なんておどけて話した私でしたが、先生は『赤ちゃんの1人が数日のうちに死んじゃうかもしれない』と言うんです。

『双子のもう1人はできるだけ長くおなかにいさせてあげたいから、いつ帝王切開出産するかを入院して考えましょう、お母さんも絶対安静で動かないで』と言われ、そのまま入院することに。いきなり空から大きな石が頭に落ちてきたような衝撃でした」(さとみさん)

927gの長女と、466gの二女

生まれて10日ほどたったころ、愛彩さんの体重は350gほどまで減ってしまいました。

入院から数日後、妊娠27週のときに、帝王切開で双子の女の子たちが生まれました。

「おなかから取り出された長女の姿は見えませんでしたが、小さな産声(うぶごえ)が聞こえました。『天使みたいな声がする』と思ったのを覚えています。小さいほうの二女は、手術台の私の真横にある体重計に乗せられた姿を見ることができましたが、『うわ、ちっちゃい・・・』とその小ささに驚きました。推定体重600gくらいだろうと言われていましたが、実際は466gでした。長女はあとから927gだと聞きました」(さとみさん)

生まれてすぐに呼吸器をつけられた双子たちは、さとみさんが出産した病院から、NICU(新生児集中治療室)のある病院に緊急搬送されました。

「病床数の問題で二女の愛彩は静岡県立こども病院に、長女の優衣は自宅から車で1時間半ほどの場所にある浜松医療センターに入院することになりました。2人は一緒に救急車に乗って搬送されました。

手術室の外で待機していてくれていた夫は、私の手術が無事終わったあと救急車の後ろを追って、まずは静岡県立こども病院で愛彩の入院手続き。そのあとすぐに浜松医療センターへ行き、優衣の入院手続きをしてくれました。医師からは『予断を許さない状況です。いつでも連絡が取れるようにしてください』と言われたそうです。夫にとっても大変な1日だったと思います」(さとみさん)

「なんでもするから命を助けて」と神様に願った

2歳7カ月のころ。平日の昼間は市内のいろんな公園へ遊びに。

ほかの産後のママたちと同じ大部屋に入院していたさとみさんは、そばに赤ちゃんがいない寂しさを感じていました。

「出産した日の夜、同じ部屋のママたちが新生児室に授乳に出かけ、戻ってきて楽しそうに授乳の感想を話し合っていました。カーテン越しにその声を聞きながら、『自分は赤ちゃんがいないから呼ばれないんだ』とわかったときには、とても悲しい気持ちになりました。

私のところには助産師さんが来ておっぱいマッサージをしてくれ、赤ちゃんに届けるための初乳を搾乳してくれたんですが、それがものすごく痛いんです。今は、小さく生まれた赤ちゃんにとって壊死性(えしせい)腸炎などの合併症を防ぐために初乳がとても大切だとわかりますが、当時はそんなことも知らず、ただただつらかったです。たった何滴かだけ出た初乳を母乳パックに入れて冷凍し、私の母が娘たちの病院へ届けてくれました。
それからも、数時間おきの搾乳は、娘たちがNICUを退院するまで続けました。私が娘たちのためにできることはこれしかないと思っていたから、胸に青あざを作りながら、一生懸命搾乳を頑張っていました」(さとみさん)

入院中のさとみさんにかわって、正樹さんが赤ちゃんたちの面会に行きました。正樹さんは、新生児室の看護師さんたちが作った赤ちゃんの写真つきメッセージカードを持ってきてくれましたが、さとみさんはそこに写るわが子の姿に衝撃を受けました。

「夫が保育器にいる娘たちを写真に撮ってきてくれたんですけど・・・赤ちゃんらしい姿とはまったく違う様子で、かわいいとは思えなかったんです。とくに二女の愛彩は生まれたときからさらに体重が減って350gくらいになっていました。写真に写っていたのは皮膚が真っ赤で、鳥のヒナみたいに小さい小さい赤ちゃんです。胸が締めつけられるようなせつなさを感じました。でも同時に、この命は確かに生きているんだ、と思いました。

『どうか命を助けてください』と手を合わせて、毎日いろんな神様にお願いしました」(さとみさん)

かわいい寝顔を見られる喜びで眠れなかった

3歳のころ。桜を見に行って土手をたくさん歩いて、そしておにぎりを。

産後1週間ほどで退院したさとみさんは、それからしばらくの期間、自宅から5分ほどの距離にある実家で過ごしました。

「両親は『自分たちがサポートできることはなんでもするよ』と言ってくれて、ありがたかったです。私は実家から優衣と愛彩のそれぞれの病院に面会に通いました。
愛彩は平日の午後から夕方までは私、夕方から面会時間終了までは仕事を終えた夫が面会をしていました。優衣が入院した病院は土日どちらかだけ面会が可能だったので、週に1回夫と交代で気が済むまでそばにいました。平日に面会できないぶん、看護師さんたちが優衣の成長日記を書いてくれて、寂しい気持ちを和らげることができました。面会に行くたびに娘たちを連れて帰りたくてたまらなくって、なかなかそばから離れられませんでした。

927gで生まれた優衣は、入院中に未熟児網膜症のレーザー手術をしましたが、幸いそれ以外の合併症などはなく、少しずつ成長してくれ、生後5カ月で退院することができました。
優衣が退院した日の夜、私はうれしさのあまり、朝まで眠れませんでした。私の隣ですやすや眠るかわいい寝顔を見られることがうれしくって、ずっと眺めていました」(さとみさん)

二女の愛彩さんが退院をしたのは生後7カ月のころでした。

「466gで生まれた愛彩は、奇跡的に身体的な合併症などはなく、医療的ケアも必要ない状態で退院することができました。愛彩が退院した日、夫も私の実家に来て、家族みんなで双子たちがそろって暮らせるようになったことを喜びました。この日をどんなに待ち望んでいたことか。

私の父はベビー布団に並んで寝る2人を見て『2人が並んでうちにいることが、まるでうそみたいだな』『本当に夢みたいだな』って、何回も口にするんです。父の言葉に私も胸がいっぱいになりました」(さとみさん)

病気をもらうと悪化して入院ばかりの双子たち

4歳。消防車体験をしたとき。

愛彩さんが退院してから1年ほどは、実家の両親に手伝ってもらいながら、双子育児をしていたさとみさん。正樹さんは自宅から通勤し、平日の仕事終わりや週末にさとみさんの実家に通う生活をしていました。

「娘たちが1歳半を過ぎたころに自宅にもどりましたが、当時仕事が忙しく、帰宅時間が遅かった夫に対して、娘たちの人見知りがすごくて大変でした。娘たちにとって夫は、たまに来る知らないおじさんのような存在だったのかもしれません。
2人の毎日の入浴は夫が帰宅してからやってもらっていたんですが、娘たちは夫に抱っこされた途端『さらわれる!助けて!』と言わんばかりに大泣きするんです(笑)。困った顔をした夫の様子は今でも忘れられません。
『こんなに泣かれてもだまってお世話してくれるんだから、私は娘たちの前で夫のことを絶対に悪く言わないようにしよう』と心に決めました。今は夫と娘たちはすごく仲よしです」(さとみさん)

保育士という仕事柄、子どものお世話には慣れていたさとみさん。双子たちとの当時の生活について「自宅で保育園をやっているような感じだった」と言います。

「日中はお散歩に出かけて、帰ってきてお昼を食べて、昼寝させて、娘たちが寝ている間にコーヒーを飲みながらハンドメイドの作品を作るような日々でした。娘たちはとってもかわいいし、毎日が楽しくて幸せを感じていました」(さとみさん)

しかし、小さく生まれたこともあってか、3歳くらいまでは風邪が悪化しやすく頻繁に入院することもありました。

「娘たちが地域のほかの子どもたちとかかわることも大事だと思い、近所の子育て支援センターや子育てサロンにも出かけることもありました。が、そのたびに必ずと言っていいほど病気をもらっていました。風邪をひけば悪化して肺炎になってしまうし、嘔吐をしたら脱水になってしまうし、娘たちは何度も入院していました。病気をして入院すると体重が減ってしまうんです。私にとってはそれがとてもつらいことでした。

当時の私は、娘たちの体重が母親としての通信簿だと思っていたんです。娘たちの体重が増えることが、自分がいい母親だと評価されているような・・・今考えれば、体重が一時的に減るくらいたいしたことではないとわかるんですけど、あのときの自分は必死でした。離乳食もおやつも全部手作りして、自分が作ったごはんがこの子たちの体になることに喜びを感じていました」(さとみさん)

風邪をひくと悪化してよく入院になってしまっていた双子たち。あるとき愛彩さんが入院中にけいれんを起こしてしまいました。

「2歳のお正月にインフルエンザで入院になったときに、病院で最初のけいれんがありました。そのときは熱性けいれんだと言われていましたが、その後も何度も発作を起こし、結果的にてんかんと診断されました。今娘たちは22歳ですが、愛彩はこれまで20回以上のけいれん発作を起こしています。幸いなことに、毎回自宅で親といるときに発作があったので、転落してしまったり、外出先で交通事故などに合わずにこれています。

最近は、思春期から成人する時期でのてんかんの薬の調節が難しく、体調不良が続いています。これからも長期的につきあっていかなくてはならない状態です」(さとみさん)

お話・写真提供/小林さとみさん 協力/板東あけみさん 取材・文/早川奈緒子、たまひよONLINE編集部

▼続きを読む<関連記事>後編 

明るく取材に答えてくれたさとみさんですが、出産当時のことを思い出すと今でも涙がこみ上げるのだそうです。ただ双子の命の無事を願う、さとみさんの深い愛を感じました。

インタビュー後編は、幼稚園や小学校と集団生活での双子の様子と、リトルベビーハンドブックの制作について聞きます。

「たまひよ 家族を考える」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることを目指してさまざまな課題を取材し、発信していきます。

リトルベビーサークル「ポコアポコ」のInstagram

●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●記事の内容は2024年11月当時の情報であり、現在と異なる場合があります。

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