4歳児のパパ、横山だいすけ。歌のお兄さんになりたくて音大へ進み、ある勘違いで劇団四季へ入団?! 回り道をしたけれど、人生に無駄なことはない
NHK Eテレ『おかあさんといっしょ』で、11代目「歌のお兄さん」を9年間務めた横山だいすけさん。プライベートでは4歳の娘さんをもつパパでもあり、地方公演などで忙しい日々の中でも、娘さんとの時間を大切にしています。今回は、横山さんが歌のお兄さんをめざしたきっかけや、お兄さんとして過ごした9年間について、また父親になってからの自身の変化について聞きました。
全2回インタビューの後編です。
家族みんなでコンサートに来れるのは、当たり前のことじゃない!
――娘さんが生まれたときは、どんな気持ちでしたか?
横山 コロナ禍での出産で、病院や自治体で開催される父親・母親学級のようなものがいっさい開催されなかったころでした。また、妊婦健診も時間ごとに区切られていたので、まわりの同じようなパパ・ママさんたちと交流することができませんでしたね。最初は、立ち会いもできないかもと言われていたのですが、出産直後に1時間だけ、遠目からでしたが娘を見ることができました。
僕自身、子どもが好きで歌が好きで、その子どもたちにたくさんの歌を聞かせてあげたいという思いで歌のお兄さんになって。その中で、自分でも家庭を持ちたいという思いが強くなっていったので、父親になれたときは本当にうれしかったです。ただ、子育ては思っていた以上に、楽しいことよりも大変なことがたくさん。ただ、それを知ってからは一層、自分自身も子育てを楽しんでいきたいし、自分の歌や言葉を通して、その楽しさを届けていきたいと思いました。
――父親になって、仕事の面で変化はありましたか?
横山 歌に関しては、変わりはないです。ただ、子どもたちの親御さんに接するときに、「子育て、大変ですよね」という共感の気持ちが強くなりました(笑)
あとは、ファミリーコンサートをすると、家族全員で来てくれるじゃないですか。チケット代も1万円近く、人数によってはそれ以上かかってしまいますし、その日までにみんなが風邪をひかないように体調管理するのも本当に大変ですよね。
あとは、会場に来るまでも、お子さんが行く直前におしっこやうんちをしたくなったり、途中でぐずって電車に乗れなかったり・・・。コンサートの前後には、何時間も時間を費やさなければいけないですよね。そういう、ここに来るまでや、帰ってからのことを考えたときに、「あ、今ここにある空間は当たり前じゃないんだ」と思えるようになりました。子どもたちにはもちろん、大人の皆さんにも楽しんでいってもらいたいなと、アーティストとしての考え方が変わりましたね。
――娘さんは横山さんが歌っているところを観に来ることがありますか?
横山 僕のコンサートも、たまに観にきてくれます。最初は観ているだけでしたが、だんだんと手をたたくようになったり、客席で踊るようになったり。最近は、「パパ、手伝いに行こうか?」などと言ってくれますよ。
歌うという僕の仕事が、娘に影響を与えているなと感じます。娘は歌うことが大好きでおふろでいつも歌っていますし、家族を巻き込んでおゆうぎ会を最初から最後までしきったり・・・。ただ、親族一同からは、「頼むから娘に変顔だけは教えるな」と言われています(笑)。教えたつもりは全然ないんですけど、リアクションがちょっと大きめなんですよね。ちょっと、ひょうきんな性格は似ている気がしますね。
歌のお兄さんになるために音大で学び、勘違いから劇団四季に入団!?
――横山さんはいつから、歌のお兄さんをめざし始めたのですか?何かきっかけがあったのでしょうか。
横山さん(以下敬称略) もともと、3歳のころから歌が好きだったんです。歌が好きになったきっかけは、ウィーン少年合唱団を描いた『青きドナウ』という映画を観たことです。その映画を何度も観て、「自分は目が青くないし、髪は黄色じゃないけど、この子たちと一緒に歌いたい!」と思ったんですね。そこから、歌に興味をもちました。
歌のお兄さんになりたいと思ったのは、高校2年生のとき。「進路、どうしよう」と悩んで、進路指導室に行ってみたんですね。当時自分が好きなものが「歌」と「子ども」だったこともあり、そこに置いてあった、幼稚園の先生の指導要領を読んでみたんです。その中に「子どもにはたくさんの音楽を聞かせてあげてください。音楽というのは、人の心を豊かにしてくれるものであるからこそ、たくさんの音楽を聞かせてあげることで、その子の一生の心の豊かさにつながっていくんです」と書いてあったんです。それでふと、小さな子どもたちに音楽を届ける仕事をしたいなと。
その日、家に帰ったら、たまたま弟が『おかあさんといっしょ』を見ていて、お兄さんやお姉さんが子どもたちと歌を歌っているシーンだったんですね。それを見て、「これだ!」と思いました。
――歌のお兄さんって、日本で1人しかいないじゃないですか。かなり狭き門かと思いますが、そこまでの道のりはどのようなものでしたか?
横山 歌のお兄さんになる方法がわからなくて、NHKのお客様相談センターに電話をして、「歌のお兄さんのオーディションの応募ってないですか?」と聞いてみたんです。最初はもう、剣もほろろで、「ここに電話されても困ります」という感じで(笑)。それから、年に何度か電話をしていたら、たまたま番組の内線につないでもらうことができて、そこから、少しつながりをもつことだけはできました。
そこから、「歌のお兄さんといえば、やっぱり音楽だな」と思って、国立音楽大学に進学しました。ただ大学に入っても、なかなかオーディションの話はなかったんですね。そんなとき、今井ゆうぞうお兄さんが、劇団四季から歌のお兄さんになっていることを記事で見かけて、「劇団四季に入れば、なれるかも!」と、劇団四季を受けることを決心しました。
劇団四季には、たまたま人数が少なかったクラシック専攻という枠で、運よく合格することができました。でもいざ劇団四季に入ったら、「何を言ってるの。劇団四季に歌のお兄さんのオーディションの話が来るわけないでしょ」なんて言われて。実は、これはちょっとした勘違いで、ゆうぞうお兄さんは劇団四季の後に東宝芸能に入っていて、そこからお兄さんになったそうなんです。これは、僕の人生で「大いなる勘違い」と勝手に呼んでいるできごとです(笑)
ただ、劇団四季の『ライオンキング』を、子どもたちが目をキラキラさせながら見ているのを目の当たりにして、そこから「ライオンキングに出たい!」という気持ちになり、ライオンキングで役をいただくようになりました。
――歌のお兄さんのオーディションはどうだったんですか?
横山 実は、ライオンキングの公演中に、音大時代の後輩から、「歌のお兄さんのオーディション、今日終わったんだよ」と聞かされて・・・。「いや、終わる前に教えてくれよ」と心の中で突っ込みましたよね(笑)
その日に、たまたま両親と話をする機会があってそのことを伝えたら、「自分の原点をもう一度考えてみたらいいんじゃないか」と言われて、ひと晩考えたんですね。それで、次の日の朝に、NHKの番組の内線番号に電話をして、ダメもとでお願いしてみました。すると、歌のお兄さんだけ追加の募集をするという会議が終わった直後だったそうで、すぐに履歴書を持っていって、オーディションを受けることができ、無事に合格することができたんです。
回り道をしたかもしれませんが、音楽大学で歌の基礎を学び、劇団四季で飛びながら歌うという技術を学んだからこそ、オーディションでも踊りながら歌うことがそんなに苦労なくできたのかもしれません。本当に、人生には無駄なことはないんだなと思いました。
歌のお兄さんになったばかりの2年間は、自分の声に悩んだことも
――歌のお兄さんとして、9年という在任期間は歴代最長だそうですね。この9年間はどんな年月でしたか?
横山 本当に、自分の人生の宝物です。長くもあり、短くもありましたけど、思い出すとあっという間だったなと思います。ひとつひとつの思い出をひもといていくと、9年間にはいろいろなことがあって、長くやらせてもらったなと思います。子どもたちからも、一緒にやってきた仲間からも、それから視聴者のみなさんからもたくさんもらいましたね。
歌のお兄さんを卒業してからもう7年になるのですが、今でもその関係性は続いていて、「見ていました、ありがとう」とか「あのときの子がこんなに大きくなりました」と言ってもらえるんですよ。
なんでもない1人の人間が夢をもったところから始まって、やがて花が開いて、こんなにたくさんの人たちとつながれているというのは、本当に幸せですよね。
――大変なこともありましたか?
横山 それはもう、たくさんありましたよ!お兄さんになってすぐのころが一番しんどかったですね。『おかあさんといっしょ』は月曜から金曜まで毎日放送している番組なので、代が替わってしまうと、視聴者の子どもたちや親御さんにとっては「毎日見てたお兄さんとお姉さん、変わっちゃうの?ええ〜!」という感じなんです。前の代のゆうぞうお兄さんとしょうこお姉さんはすごく人気がありましたし、僕がお兄さんになったときに、「声が嫌だ」などと言われたり・・・。「自分はあまり求められてないのかな・・・」と悩みました。最初の2年ぐらいは、声のことで悩みっぱなしの毎日でしたね。
そんななか、3年目のときに東日本大震災があって、子どもも大人も未曽有(みぞう)の大災害に直面して、明日をどう生きればわからないという状況でしたよね。そのときに、「僕らにしかできないことが絶対あるはず」と思ったんですね。
ある日、被災地である南三陸町にある、津波の被害をまぬがれた丘の上の保育園で歌う機会があったんです。そこで『ぼよよん行進曲』を歌わせてもらったのですが、そのとき、「この曲を歌い終わったら倒れてもいいから全力で歌おう」という気持ちで歌いました。実はそれまで、歌のお兄さんは子どもたちの模範になるんだから、正しいメロディ、リズム、歌詞で歌わなきゃと自分の中で枠にはめようとしていたんですね。
でもこのときは、「とにかく楽しもう」という気持ちで歌ってみたら、子どもたちやそのまわりの大人たちが、すごく喜んでくれたんです。歌っていうのは、もちろんメロディやリズムは大切だけど、それよりも楽しむことが大切だというのを実感して、歌のお兄さんとして苦しんだ時期から脱却できた瞬間でした。
――卒業のときはどんな気持ちだったんですか?
横山 卒業は自分で決めて、番組側にお願いしました。僕が卒業する1年前に、一緒にやっていたたくみお姉さんが卒業したんです。実は、歌のお兄さんとお姉さんが替わると、ミュージッククリップと呼ばれるものがすべてゼロになって、すべて音楽が撮り直しになるんですよ。そういうこともあって、僕ももうあまり長くは続けないほうがいいかなとは思っていたんです。
次の代のあつこお姉さんと、そのときはキャラクターたちも替わったこともあって、夏のコンサートを新しいメンバーたちとやっている中で、子どもたちがすごく笑顔になっているのを見て、「ああ、次の世代にバトンを渡すのは今かもしれない」と急に思ったんですね。それで、夏のコンサートが終わったタイミングで、プロデューサーさんに卒業したいことを伝えました。
もちろん、人生をかけてやってきた歌のお兄さんを卒業するのは、すごく寂しかったです。でも、原点にかえってみると、子どもたちに自分の好きな歌を届けていくことが、自分がやりたかったことなんですよね。だから形は変わっても、それは今でも続けてこれているんです。それに、僕がお兄さんだったころに見てくれていた子どもたちも成長して、なかには成人を迎えている子も。今は子どもだけではなく、いろんな世代の人たちに音楽を通して笑顔になってもらえるような活動ができるので、それがうれしいです。
――これからは、どんな活動をしていきたいですか?
横山 今はファミリーコンサートに力を入れていますし、昨年の11月からは大人向けのコンサートも始めました。お兄さんを卒業してからは、いろいろなことに挑戦できるので、フィールドが広がってきている感じがします。最近は、歌うだけではなくて、作詞にも挑戦しているんです。
あとは、絵本の読み聞かせや、子どもの映画祭にもかかわっているので、子育て中の親御さんに向けて、親子で楽しめることを見つけてもらえるような発信もしていきたいですね。
そして、自分自身が親になったので、これまでは150%を自分のやりたいことにかけていた時間を、半分は家族のために使えるようにしたいなと思っています。
お話・写真提供/横山だいすけさん 取材・文/内田あり(都恋堂)、たまひよONLINE編集部
昨年には、自身で歌う以外にも、作詞にも挑戦したという横山さん。これまでは表舞台で歌を歌うことで子どもとかかわってきましたが、作詞や舞台の演出など裏方でも、子どもたちにかかわれるということにも魅力を感じているそうです。歌を歌っている姿以外にも、横山さんの新たな一面を見られるのは楽しみです。
横山だいすけさん(よこやまだいすけ)
PROFILE
千葉県生まれ。2006年に国⽴⾳楽⼤学⾳楽学部声楽学科を卒業。幼いころから歌が好きで、⼩学校3年⽣から⼤学卒業まで合唱を続ける。劇団四季時代は『ライオンキング』などの舞台に出演。NHK Eテレ『おかあさんといっしょ』では、番組史上歴代最⻑となる9年間、歌のお兄さんを務める。卒業後はドラマやCM、舞台、コンサートなど活躍の場を広げている。ソロアーティストとしては初のオリジナルアルバム「歌袋」や童謡カバーアルバム「だいすけのどうよう」を発表。2024年には、初の作詞にチャレンジした楽曲が含まれるニューアルバム『笑顔にドッキューン!』をリリース。2025年4月5日には、ソロコンサート「My Songs Concert」の東京公演を控える。
●記事の内容は2025年1月の情報で、現在と異なる場合があります。