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1歳2カ月で右目を摘出。保育園で「目が変だね」と友だちに言われたことも【小児がん・網膜芽細胞腫】

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保育園時代の木綿華さん(5歳)。周囲から見た自分の姿を意識するように。

廣田木綿華(ゆふか)さん(25歳)は1歳2カ月のとき右目が小児がんの1種である網膜芽細胞腫(もうまくがさいぼうしゅ)と診断され、右の眼球を摘出しました。
網膜芽細胞腫は小児に発症する目のがんで、出生児1万6000人に1人の割合で発症。日本では現在、年間70~80人の子どもが網膜芽細胞腫と診断されています。
木綿華さんは、どのような子ども時代を過ごしてきたのでしょうか。自身のことについて振り返ってもらった全2回のインタビューの前編です。

保育園で男の子が「目が変!」と。「私の目は変なのか・・・」と衝撃を受ける

4歳のころの写真。右目の義眼は動かないので、横を見るときに視線がずれて見えます。

木綿華さんが網膜芽細胞腫で右目の摘出手術をしたのは1歳2カ月のとき。当然ながら当時の記憶はなく、自分の目のことを初めて意識したのは、保育園の入園が決まった3歳のときだったそうです。

「保育園に年少(3歳児)クラスの秋から入園することが決まり、園での過ごし方について、母と2人で先生方から説明を受けたんです。そのとき『保育園にいるときに義眼がはずれたり、ずれたりしたときは事務室でケアしようね』と、先生から言われました。教室でケアをすると、お友だちが驚いてしまうからって。
それまでは、家以外の場所でケアをしたことはありません。『家以外では、義眼のケアはこっそりしなくてはいけないんだ』って、そのとき学んだんです」(木綿華さん)

保育園入園前には、木綿華さんは自分で義眼のケアをできるようになっていました。

「義眼は1日1回はずし、水道水で汚れをきれいに流したあと、ハードコンタクト用の洗浄液などで洗ってケアします。その方法を3歳6カ月ごろ母から教わりました。母は時間をかけて教えるつもりだったようですが、1回でできるようになっちゃいました。

実は私は手先がかなり器用なんです。当時、折り紙は1ミリのずれも許せなかったし、ぬり絵も枠からはみ出すのはありえない!って思っていて、すごくきれいに塗っていました。

その影響なのか、義眼のケアで苦労したことはありません。通常、義眼はスポイトを使ってはずすのですが、私は自分の手のほうがやりやすいから、3歳のころからスポイトはほぼ使っていません」(木綿華さん)

保育園での3年間、友だちの前で義眼がはずれたことはなかったものの、ずれてしまうことはありました。

「義眼が入っている右目をこすったとき、黒目の部分が横にずれて白目になってしまい、周囲にいた友だちを驚かせちゃったことが何度かありました。白目になると、自分でも違和感があるからわかるんです。『あ、やっちゃった!』って。そんなときはダッシュで事務室に行き、直しました」(木綿華さん)

保育園時代に「目のことで嫌な思いをしたことはあまりなかった」という木綿華さんですが、1人の男の子の言葉に衝撃を受けたことがありました。

「5歳ごろだったと思いますが、近くにいた男の子が私の顔をジ~ッと見たあと、『目が変だね』とだけ言って走り去りました。そのとき初めて、私の目って変なんだと思いました。片目が義眼で、それは人とは違うことなんだとは理解していましたが、“変”だと思ったことはなかったので衝撃でした。

保育園に入るまでは周囲にいるのは大人ばかりで、私が義眼だと気づいても、そのことをあえて指摘してくる人はほとんどいませんでした。だから、何がどう変なのかはわからないけれど、人から見ると変に思われるんだと、このとき初めて理解し、周囲から見た自分の姿を意識しました。
そして、大人と違って子どもは表現がストレートで残酷だなあとも思いました。振り返ると、私は結構大人びた子どもだったんじゃないかと思います」(木綿華さん)

検査が苦痛だった幼児期。怖さと眼球を押される気持ち悪さは忘れられない

7歳の七五三。お母さんの千葉加代さんと一緒に。

右の眼球を摘出する手術を受けたあと、定期検査は必須でした。幼児期は半年に1回検査を受けました。

「定期検査が毎回怖かったことは、今もはっきりと覚えています。最初の主治医の先生は、子どもの私から見たら、手塚治虫のマンガに出てくる『ブラック・ジャック』のようでした。とても怖くて、泣くのを我慢できなかったんです。そうすると動かないようにタオルでぐるぐる巻きにされてしまうので、さらに怖くてもっと泣いてしまって・・・。

泣くと目をギュッと閉じて検査ができないから、目を閉じないようにする器具をつけられます。それでも怖くて目を閉じようとすると、血管が切れて出血することがありました。血の涙を流す私の姿を毎回見ていた母は、いたたまれなかったそうです。

麻酔の目薬を差しているので痛みはないのですが、眼球をぐりぐりと押される圧迫感が気持ち悪くて、すごく嫌だったことは、今も記憶から消えません。
5歳ごろからは動かずに検査を受けられるようになり、ぐるぐる巻きから解放されました」(木綿華さん)

生活に不便はないけれど球技は苦手。後ろから来る人に気づかず危ないことも

小学校3年生(9歳)のとき。疲れてくるとまぶたが下がり気味になるそうです。

木綿華さんが初めて自分で「網膜芽細胞腫で眼球を摘出したので、右目は義眼です」と説明したのは、就学前健診の眼科健診のときでした。

「眼科健診は親の付き添いができなかったので、自分で検査の先生にそのように説明しました。母が私の病気のことを人に説明するのを何度も聞いていたので、覚えてしまったんです。自分の口で『網膜芽細胞腫』と説明したことで、『私はこの病気なんだなあ』と改めて実感しました。

でも、病気に対してネガティブな感情はほとんどないんです。母がいつも『目を取ったから命が助かったんだよ。助けていただいた命だね。ありがたいね』と言っていたから、片目がないことも命があるだけありがたいことだと理解していました」(木綿華さん)

片目で物を見ることは、日常生活ではさほど不自由はないそうですが、見づらさを感じる場面はあるとか。

「小学生のころ3Dのゲームや映画がはやりましたが、3D映像は両目で見ないと飛び出して見えないもの。私にとっては、画面が無駄にゆらゆらして酔うばかりで、面白くも何ともありませんでした。

また、手前と奥の遠近感がつかみにくいので、ろうそくの火を消すことや、手元から遠い位置にある球を追うバトミントンや野球などの球技は苦手です。
これらの球技は、部活に入らなければほぼしなくて済みますが、小学校~高校まで何かとドッチボールをする機会があって、これも苦手でした。飛んでくるボールを受け取るタイミングをつかみにくいんです。だから、毎回早めにボールに当たって、外野に逃げていました。
また、大人になってから、細長いフルートグラスに長いボトルからシャンパンを注ぐのも、距離感がつかみにくくて苦手ということを知りました。

5歳から主治医の鈴木先生に聞いたところ、片目でも遠近感がわからないことはないそうなのですが、子どものころからずっと苦手意識があります。
私は右目が効き目だったのかな、と考えることもあります。

また、両目で見るより視野が少し狭いので、義眼側(右側)の後方から急に人や自転車、自動車が近づいてくると気づかず、ヒヤッとすることがあります。後ろから来る人は、私が当然気づいているものだと思って近づいてくるから、ちょっと危ないんです」(木綿華さん)

木綿華さんは生まれたときから、左足の中指が極端に小さいという異変もあります。

「左足中指は第二関節が曲がりません。日常生活に支障はないし、走るのも問題はなく、むしろ走るのは得意なくらい。でも、子どものころお友だちの指と比べたら、あきらかに小さかったです。
小学生のころは恥ずかしくて、できるだけ足の指は見せないようにしていたのですが、徐々に慣れてきて、中学生くらいからは「ちっちゃい指でかわいい」と言われると、「そうでしょ、かわいいでしょ!」と返事ができるように。これも私の個性で、欠点ではなくむしろ魅力だと思えるようになったからです。

母は私が赤ちゃんのころから、指の異変は網膜芽細胞腫の影響ではないかと、悩んでいたそうです。当時、『「すくすく」 網膜芽細胞腫の家族の会』の集まりでも、そのような話が出ていたらしいのですが、鈴木先生によると関連性はないそうです」(木綿華さん)

私にとっての義眼は眼鏡のようなもの。心配されるのは違うと感じていた

小学校6年生(11歳)の修学旅行のとき。泊まり学習のときは、保健の先生の部屋で義眼のケアをしました。

小学校に入学すると、お友だち関係などで、木綿華さんが1人で考え、対応しなければいけないことが増えていきます。

「数人の友だちとワイワイ話していたとき、『だれに話しかけているのかわからない』と言われ、『どういうこと?』とポカンとしてしまったことがありました。『話の流れからして、どう考えてもあなたに話しかけているでしょ?』と私は思ったんです。
でも、あとでよくよく考えてみたところ、その子は私の正面にいなかったので、左目はその子を見ていたけれど、義眼の視線はずれていたんだろうとわかりました。義眼がどこを向いているかは、自分でもわからないんです。

そのとき、人は視線の情報にも敏感なんだと気づきました。同時に、会話中の自分の視線にも気を配らないといけないのかと、ちょっと複雑な気持ちにもなりました。
義眼のことを隠すつもりはなかったけれど、このようなコミュニケーションの壁が生まれるので、できるだけ義眼だと気づかれないようにしようと、そのころは思っていました」(木綿華さん)

小学校時代、義眼のことを学校で広く伝えるつもりはなかった木綿華さんですが、小学校5年生のとき、クラスメートの前で話をすることになりました。

「小学校5年生のときに転校したんですが、ちょうどそのころ『がんの子どもを守る会』のチャリティーコンサートがあり、私は花束を渡す係を務めました。そのことが新聞に載り、記事を読んだ担任の先生から、朝の会で小児がんの体験を話してほしいと言われちゃって。

私にとっての義眼は、視力の悪い人の眼鏡と同じようなもので、すごく普通のことなんです。でも、がんと一緒に眼球を取って義眼になったことがわかると、ものすごく心配されちゃうんですよね。発表したあと何人ものクラスメートから『大丈夫なの?』って聞かれました。そのたび『赤ちゃんのときのことだし、もう治っているから大丈夫だよ』って答えました。

こんなこともあったので、中学校時代は本当に仲のいい子以外には義眼のことを話さなかったし、できるだけ気づかれないように努力していました」(木綿華さん)

高校2年生ごろから、広告代理店への就職を考えるようになったという木綿華さん。そのことをきっかけにして、結婚、出産というライフイベントを迎えることになります。

【鈴木茂伸先生より】片目が義眼でも、慣れることで距離感がなんとなくわかるようになります

網膜芽細胞腫は網膜に生じる悪性腫瘍です。RB1遺伝子が原因で生じる腫瘍ですが、これは指の異常と関係ありません。遺伝性(両眼性)であって染色体欠失(RB1遺伝子を含む複数の遺伝子がない状態)の場合、多指症(指が6本ある)など、体のほかの異常を生じることがあります。
遠近感は、両目で見ることで初めて自覚できます。片目をつぶって鉛筆にキャップをしてみると、意外と難しいことを実感できます。片目だけでは距離感はわからないのですが、近くのものは大きく見えることや、物の影の具合などを手掛かりにして慣れることにより、なんとなく距離感がわかるようになります。頑張って高校で野球をしている片目の子もいますので、残された機能を積極的に活用することが大切です。

お話・写真提供/廣田木綿華さん 監修/鈴木茂伸先生 取材・文/東裕美、たまひよONLINE編集部

▼続きを読む<関連記事>後編

「義眼であることに引け目はなかったけれど、特別視されるのは嫌だった」と話す木綿華さん。小学校時代から不自然にならない視線の向き方などに気を使ってきたそうです。
インタビューの後編は、中高生時代や就職のこと、親になることなどについて聞きます。

「たまひよ 家族を考える」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることを目指してさまざまな課題を取材し、発信していきます。

「すくすく」網膜芽細胞腫の家族の会

廣田木綿華さん(ひろたゆふか)

PROFILE
2000年生まれ。1歳2カ月のとき 網膜芽細胞腫と診断され、右目を摘出。中学から茶道、フラワーアレンジメント、華道を習う。2024年 高野山真言宗 得度。2025年7月に長女を出産し、現在育休中。「『すくすく』網膜芽細胞腫の家族の会」のメンバーとしても活動。

鈴木茂伸先生(すずきしげのぶ)

PROFILE
国立研究開発法人国立がん研究センター中央病院 眼腫瘍科長。日本眼科学会 眼科専門医。日本がん治療認定医機構 がん治療認定医。希少疾患であり、一般眼科医にとっては経験が乏しい眼部の腫瘍に対して積極的な治療を行っている。

●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●記事の内容は2025年12月の情報であり、現在と異なる場合があります。

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