「一生ママって呼ばれないかもしれない」俳優・勝野雅奈恵、長男が3歳で自閉スペクトラム症と診断
俳優でフラ&タヒチアンダンススクールを主宰する勝野雅奈恵さん。父は、俳優の勝野洋さん、母は、タレントでキルト作家のキャシー中島さんです。スイス人のリカルドさんと国際結婚をした雅奈恵さん。現在は3人の子どもの母親で、第2子の陽月(ひづき)くん(7歳)に、自閉スペクトラム症があることを公表しています。自身の幼少期から結婚、陽月くんの子育てについて聞きました。全2回インタビューの前編です。
家族の時間を最優先にした、両親の子育て法
――雅奈恵さんの子ども時代のことを聞かせてください。どんなお子さんでしたか?
雅奈恵さん(以下敬称略) 私は静岡県、御殿場市の自然豊かな土地で育ちました。今ではアウトレットがあり、観光地としても有名になりましたが、幼少期の実家は山に囲まれていて、私は野山をはだしで走り回っているような、おてんば娘でした。
――たくさんの動物に囲まれていたと聞きました。
雅奈恵 犬や猫はもちろんのこと、チャボも飼っていました。すぐそばの山ではムササビが飛び、ヘビもしょっちゅう出るような環境でした。当時は車で20分のところに乗馬クラブがあったのですが、馬のお世話を手伝うと、ごほうびに馬に乗せてもらえたのがうれしかった記憶があります。
――自然豊かな御殿場での子育てについて、両親にはどんな思いがあったのでしょうか?
雅奈恵 両親は芸能関係の仕事をしていたので、東京で子育てをしたほうが仕事と家庭の行き来が楽だったとは思います。ですが、東京では子育てに集中できないと考えたようです。そこで自然の多い御殿場を選び、田舎での子育てをスタートさせたと聞きました。家庭を大事にする両親らしい選択だったと思います。自分が親になった今、私もその考え方に共感しています。
――仕事が忙しい両親のもとで、寂しい思いをすることはありませんでしたか?
雅奈恵 とくに父は多忙な時期が多く、映画のロケが入ってしまうとなかなか帰ってこられませんでした。それでも撮影の空き時間に御殿場まで帰ってきて、家族にキスとハグをしたらまたすぐに現場にとんぼ返りするようなこともありました。だから寂しいとは思いませんでした。
母は姉と私が生まれてからしばらくは専業主婦でしたが、弟が生まれてからはキルトの仕事を始め、教室を開いたり、テレビに出演したり仕事復帰を果たしていました。母も父同様、私たちに寂しい思いをさせまいと、私たちが登校してから東京に移動、仕事をこなしたら御殿場に戻り、私たちが帰宅するころには家にいる生活でした。とにかく子どもたちのためにと、時間を工面してくれていたんだと思います。
「家族はチーム」責任と連帯を同時に教えた両親の言葉
――両親からの声かけで印象に残っている言葉はありますか?
雅奈恵 「私たち家族はチームだから、だれか1人が倒れたら全員倒れるのよ」という言葉が印象に残っています。芸能家族なのでだれかが問題を起こせば、全員が路頭に迷うという意味です。幼いころからこの言葉が頭にあったので、私はちょっと悪ぶったり、無茶をして羽目をはずすようなことはできませんでしたね(笑)
――きょうだいの思い出を聞かせてください。
雅奈恵 家族がいちばん大事という環境で育ったので、きょうだいも仲がよかったです。家の手伝いもきょうだいで一緒にやりました。たとえばゴミ出し。田舎なのでゴミを出す場所が家から離れていて、早朝のまだ暗い中、きょうだいでゴミを持って山道を歩くんです。そうすると自然と絆が生まれ、なんでもきょうだいで手分けしてやるようになっていました。
また、「働かざる者食うべからず」という教育方針だったので、動物の世話もしました。家族全員、役割が決まっていて協力して生活をしていました。
――現在、両親はどんなふうに雅奈恵さん夫婦の子育てに参加していますか?
雅奈恵 現在は二世帯住宅で暮らしているので、両親は全面的に協力してくれています。子どもたちもじいじとばあばが大好きです。長女は悩みがあると、よくばあばに相談します。母は本当に子どもたちの対応が上手で、たとえばお手伝いをさせながら「どうしたの?」と上手に話を聞き出し、アドバイスをしてくれています。
――とっても素敵な環境ですね。
雅奈恵 末っ子もすぐに、上の階に暮らしている両親のところに行きたくて「じいじ、ばあばのところに行ってもいい?」と言います。「ちょっとだけだよ」と言うとうれしそうに両親の部屋にいき、口のまわりにチョコレートをべったりつけて帰ってきたりします。
私の人生を変えたバックパッカーの夫
――夫のリカルドさんは、スイス出身とのこと。出会いを教えてください。
雅奈恵 迷子だった夫を私が救ったことがきっかけです。私の姉は2009年に病気で亡くなりましたが、その姉を思い、たくさんの女友だちが集まってくれる機会がありました。その場所に、なぜかリュックを背負った夫が1人迷い込んでいたんです。あとから聞いたら、私の友人と一緒に入ってきたようですが、その友人はパーティーが楽しすぎて夫の存在をすっかり忘れてしまったみたいで…。
そのときの私はそんな背景を知りません。女の子たちの中で、ぽつんと立っている夫があまりも不思議で「もしかしてみんなには見えていなくて、私だけが見えている?」と思ったくらいです(笑)
――それで話しかけたわけですね?
雅奈恵 そうなんです。近づいて「大丈夫?」と英語で話しかけたら、びっくりする勢いで話し始めました。7歳年下のスイス人であること、来日してバックパッカーをしながら北海道から移動していること、さまざまな話をしてくれました。当時の私は英語よりもフランス語のほうが得意だったので、途中からはフランス語で会話をすると、さらに話すんです(笑)
ちょっと面倒だな…って思ったものの、自分もフランスに留学していたときに現地の人たちにやさしく接してもらったことを思い出し、目の前の旅人にやさしくしようと思いました(笑)
――運命の出会いですね。
雅奈恵 翌日、横浜で仕事が入っていたので「横浜に一緒に行く?」と聞いたところ、「行きたい!」と即レスでした。仕事が終わり、横浜を観光しているとその日のうちに「次はいつ会える?」とグイグイくるんです。でも私は7つ年上、“22歳の若い旅人にやさしく接している”くらいの気持ちしかなかったので、私たちの間はかなり温度差があったと思います。
――そこからプロポーズまでのエピソードも聞かせてください。
雅奈恵 彼は帰国後も朝晩、連絡をくれてその度に「I love you」と言ってくれました。しばらくして私がパリに行く用事があったので、渡仏した際に再会をしました。そのころにはおつき合いはしていましたが、彼との結婚は考えていませんでした。なぜなら私は日本で家族を作りたいと思っていたからです。
そのことを正直に話すと、彼が突然「僕が日本で暮らす」と言うんです。その言葉どおり、数カ月後に来日した夫は、スーツ姿で両親の前に座り、「僕にお嬢さんをください」と日本語で言い、頭を下げていました。私の心配をよそに両親と夫はすぐにうち解け、その瞬間に私の結婚が確定しました。
園長先生の言葉に戸惑いと涙したものの、「陽月を守る」と決めた日
――結婚後、長女の八瑠子(はるこ)ちゃんが誕生し、続いて陽月くん、二男の恵偉人(えいと)くんが誕生しました。どの言語で子育てをしたのでしょうか?
雅奈恵 将来、子どもたちが夫の家族とも話せるように日本語だけでなく、英語とドイツ語も教えながら子育てをスタートさせました。八瑠子が3歳児健診のときに、「言葉の発達が少し遅い」と指摘されましたが、なにせ3カ国語を取得しようとしているからそのためなのだろう、とそこまで問題視していませんでした。見守っていたら、幼稚園に入ると言葉はメキメキと上達し、よく話す子になっていました。
――陽月くんも同じような成長の様子でしたか?
雅奈恵 陽月も八瑠子と同様、3歳児健診で言語に関して「少し遅め」と言われました。でも、きっと八瑠子と同じで家庭内で使っている言語が多いからだろうと思い、八瑠子のようにゆっくりといつかは成長していくと思って、ほとんど気にしていませんでした。
それが幼稚園の入園の面接で、園長先生に「お母さん、陽月くんは、なるべく早く発達専門の方に診ていただいたほうがいいです」と言われたんです。とってもびっくりしました。「陽月に発達障がいがあるの!?」って。
今ならこの園長先生の言葉は、配慮のある言葉だったなと思います。でもそのときはあまりのショックで面談後、幼稚園の裏でしゃがみこんで1人泣いてしまいました。
――予想もしていなかった園長先生の言葉に、驚いてしまったのですね。
雅奈恵 そのときは未知の世界に入りこんでしまったような戸惑いと驚きで、涙が止まりませんでした。私がしゃがみこんで泣いている様子を1人のお母さんが気づきました。そのお母さんは私の様子が明らかにおかしいことを見てとまどっていました。何か聞かれたら答えなくてはいけない、そうすると「みんなに陽月の障がいのことが知られてしまう」と、そのときの私は考えてしまったんです。と同時に、「知られて何が悪いの?」という自問自答も始まりました。
もし陽月に何か障がいがあったとしても、一生ママって呼ばれなかったとしても、陽月は陽月。心から愛する息子に変わりはない!と気づいたんです。
自分の中で明確な答えが出てすぐに、涙はすっと引きました。「何があっても陽月を守り、育てる」と、決心した瞬間でした。
――自分を責めてしまうこともありましたか?
雅奈恵 はい。妊娠中の食べ物?ストレス?いったい何がいけなかったの?と自分を責めてしまう日もありました。でもそう考えること自体が、目の前の陽月の存在を否定していることになると気づき、「陽月のそのままを受け止める。そして、守ることが大切」だと思い、過去を振り返ることはやめました。
家族が取った第1歩は、専門家の意見を聞くこと
――専門家に診てもらったほうがいい、という園長先生の言葉のあと、どのような行動をとりましたか?
雅奈恵 すぐに発達障がい専門の先生を探し、受診をしました。先生は陽月に名前を聞いたり、目線をチェックしたり、様子をじっくり診てくれました。
その結果、「知的障がいを伴う自閉スペクトラム症の可能性があります」と言われました。あくまでも“可能性”の段階なので、はっきりとはわからないという状態でした。別の専門機関を紹介してもらい、そこでも知育テストを受け、そこから療育に行くための予約を取りました。
――診断まで段階があるわけですね。
雅奈恵 はっきりとした診断が出るまで時間がかかりました。その間、不安でイライラもします。でも今思えば、すぐにはっきりさせてはいけないんだなと思います。子どもによって発達のスピードは違うので、答えを早く出してもらいたいとは考えないほうがいいと感じました。
――とはいえ、可能性の段階で専門の先生になるべく早く診てもらうことは大切ですか?
雅奈恵 それは絶対に大切だと思います。陽月の場合でしかお話できませんが、陽月のような特性がある子には、自傷と他害の問題があるからです。私たちは陽月が自分を傷つけたり、まわりの人を傷つけたりしないか心配でした。早い段階で専門の先生にお話を聞けたことで、陽月への対処法(むやみにしからないこと)や、コミュニケーションの取り方を学ぶことができました。
お話・写真提供/勝野雅奈恵さん 取材・文/安田ナナ 構成・編集/仲村教子(entente)、たまひよONLINE編集部
こうして陽月くんとの向き合い方を少しずつ見つけていった雅奈恵さん。しかし、その後の子育ては、決して簡単なことばかりではありませんでした。
インタビュー後編では、陽月くんの障がいとのつき合い方、支援学校入学、雅奈恵さんが始めた障がいがある子どもたちのためのフラ&タヒチダンス教室などについて聞きます。
「たまひよ 家族を考える」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることを目指してさまざまな課題を取材し、発信していきます。
勝野雅奈恵さん(かつのかなえ)
PROFILE
俳優。1982年1月生まれ、静岡県出身。父は俳優の勝野洋、母はハワイアンキルト作家であるキャシー中島。1998年、映画『風の歌が聴きたい』で俳優デビュー。映画や舞台、TVドラマなど多数出演している。現在は脚本も手がけ、活躍の場を広げている。また、フラダンサーとしても活動し、フラ&タヒチアンダンスのスタジオ「TE HONO(テ ホノ)」を主宰。発達に障がいのある子どもたちのクラスも開講している。2015年2月に結婚し、現在は3児の母。
●記事の内容は2026年7月の情報で、現在と異なる場合があります。


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