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「この人と一緒に子育てをするイメージが持てない」39歳で妊娠、シングルマザーとして1人で育てることを決意【体験談】

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産科で「妊娠しています」と言われた際のエコー写真。

東京都で編集者として働く島田渚さん(仮名・39歳)。パートナーとの赤ちゃんを妊娠していることに気づいたのは妊娠4週のときでした。パートナーとは結婚を前提にしてつき合っていたとはいえ、妊娠をきっかけに心が離れていったといいます。
島田さんは今、シングルマザーとして子どもを産み育てる決意をしています。その決断までに、どのような経緯があったのでしょうか。島田さんの思いを聞きました。全2回のインタビューの前編です。

20代で沖縄に移住していたとき、子どもをもつことについて考えたことも

20代のころは、沖縄でダイビングインストラクターの仕事をしていました。

――島田さんの現在の状況を教えてください。

島田さん(以下敬称略) 現在39歳で、編集の仕事をしています。2023年、知人の紹介で子どもの父親となる彼と知り合い、結婚を前提としながらおつき合いをしていました。そして2024年のゴールデンウィーク前、妊娠していることがわかったんです。いずれ結婚をして子どもを育てるという将来像は持っていたので、妊娠自体はとてもうれしかったです。20代のころに妊娠しにくいかもと言われていたこともあったので。
でもその後、いろいろと話をしていく中で、彼とは人生のスタンスが違うと感じ、お別れすることにしました。2024年12月に第1子を出産する予定ですが、シングルマザーとして育てていきます。

漠然とではありますが、10代後半くらいから子育てにはあこがれをもっていました。両親が私を育ててくれたように、子どもに愛情を注ぎたいと思っていたんです。だから将来のことを考えるときはいつも「どこかのタイミングで子どもが自分の隣にいてくれたらいいな」とイメージしていました。
実は20代のころ、独身ではあったものの妊活に取り組んだこともありました。

――20代で妊活をしていたとのことですが、当時の様子を教えてください。

島田 短大卒業後、スキューバーダイビングに夢中になっていました。ダイビングは器材や海までの交通費など、何かとお金がかかります。あるとき「そうだ、ダイビングを仕事しよう」と思い立ったんです。縁もゆかりもなかった沖縄に移住し、ダイビングインストラクターの仕事に就きました。

私が沖縄で住んでいたのは、のどかで昔ながらの文化が残っている地域でした。そこで知り合った地元の男性と交際することになりました。彼は代々漁師の家の出身で、「結婚するなら跡継ぎになる男の子を産むことを考えないといけない」という暗黙のプレッシャーのようなものがありました。

私は子どもが好きだし、いつか出産したいと思っていたので、子どもをもつことについては抵抗はありませんでした。
念のため、自分の体の状態を病院で調べてもらったところ「基礎体温が下がっている。ダイビングインストラクターは長い時間海中にいるし、ぬれた水着を身に着けていて体が冷えるから、仕事を続けたままだと妊娠は難しいかもしれない」と言われました。仕事を辞め、妊活に専念することも考えましたが「それは何かが違うな」と引っかかったんです。

――どんなところに違和感を抱いたのでしょうか?

島田 子どもを授かってから仕事を辞めるのであれば、とくに気にならなかったと思います。でも私はダイビングの仕事がしたくて移住をしました。それを辞めたら沖縄に住んでいる意味がないと感じたんです。退職と妊娠の順番が逆になるのは違う気がしました。そう考え始めると、「跡取りとなる男の子」という考え方も気になり始めて・・・。

ちょうどそのころ、東京にいる父が体調を崩してしまいました。そのときにふと「このままでいいのかな?」と、考えたんです。ダイビングしたあとは、気圧の関係で約24時間は飛行機に乗れません。万が一両親に何かあった場合、沖縄で仕事をしていると、すぐに駆けつけられない可能性があるんです。私は自分の家族が大好きだし、近くにいるほうが安心だと思い、東京に戻ることにしました。

当時沖縄でおつき合いしていた人とはお別れしましたが、今でも家族ぐるみで仲がいいんです。今彼は、別の人と結婚して子どもを授かっています。それぞれの人生を歩むことになりましたが、おたがいの幸せを願う、いい関係を築けています。

東京に戻ってからは多忙な毎日。ある人の言葉で結婚・妊娠を考えるように

子どものころから、海で遊ぶことが多かったそうです。

――東京に戻ってからは、どのように過ごしていましたか?

島田 東京で編集の仕事をしつつ、土日は伊豆でダイビングの仕事をしていました。だんだん体力的に厳しくなり、編集の仕事が忙しかったこともあり、2017年ごろダイビングの仕事を辞め、編集の仕事に専念することにしました。

2023年の9月ごろ、10年ぶりぐらいに沖縄に行きました。20代を過ごした沖縄は私にとって第2の故郷のような感じです。当時つき合っていた方を含め、仕事でも仕事以外でもお世話になった人たちに会いに行ったんです。そのときに顔を合わせた人たちが皆、「今どうしてる?元気にしているの?」と、私のことを気づかってくれました。沖縄を離れてからも、私の幸せを願ってくれているんだなあと、とてもうれしかったです。

「もし私が子どもを出産して沖縄に遊びに行ったら、きっと喜んで迎えてくれるんだろうな」とも思いました。そう考えると、急に結婚願望がめばえ、子どもを授かりたいと思うようになりました。

友人の紹介で出会った彼と交際。妊娠が判明するも・・・

島田さん(左)の七五三のときの写真。

――沖縄へ行ったことがきっかけで、おなかの赤ちゃんの父親になる人との出会いがあったのですか?

島田 そうです。彼には出会ってすぐ「結婚を前提につき合ってほしい」と言われ、交際が始まりました。彼と一緒にいるのはとても楽しかったです。私とはまったく異なる考え方や価値観をもっている人で、「こういう物事のとらえ方もあるんだ」と新鮮でした。彼は責任感が強く、意志がかたいところや、自分で決めたルーティンを守って生活する人でした。芯がしっかりしていると思いました。

一方で、ネガティブな言動が多いのが気になっていました。驚いたのは「怒りが原動力になる」と言っていたことです。「仕事でもプライベートでも、見返そうと思う気持ちがあるからこそ頑張れる」と言うんです。私は何か腹が立ってもすぐに忘れるほうだし、友だちに話したらスッキリします。だから、これまで会ったことがないタイプだと感じました。もちろんどちらの考え方が正しい、悪いと言っているわけではありません。ただ、私とは人生のスタンスがまったく違うとは感じていました。

――少しずつ彼のことを知るようになったタイミングで、妊娠が判明したのでしょうか?

島田 そうです。ちょうどゴールデンウィーク前から体がだるく、ずっと眠かったんです。おなかも痛くて何か変だなと思っていました。妊娠検査薬を買って調べたところ、妊娠を示す線がくっきりと出たんです。すぐに病院に行ったところ着床していると言われました。検査薬の結果でわかってはいたけれど、改めて告げられ、びっくりしました。私は39歳になっていました。ずっと子どもは欲しかったし、年齢的に妊娠するのは最後のチャンスかもしれないとも思いました。

ただ、そのときは時期が早すぎて赤ちゃんの心拍が確認できませんでした。「ゴールデンウィーク明けにもう一度来てください」と言われ、連休中は悶々(もんもん)として過ごしました。

――おつき合いしていた彼にはそのことを伝えたのでしょうか?

島田 すぐには伝えなかったんです。そのときは私の仕事も忙しく、彼と会う時間が取れませんでした。心拍が確認できたら言おうと思ったのですが、何かモヤモヤしていました。
どうしてだろう?とよく考えると「彼と2人で過ごすのは楽しいけれど、一緒に子育てするところを想像できない」ことに気づきました。「子どもには、彼が発するネガティブな言葉を聞かせたくない」とも感じていたんです。

ライフスタイルを変えようとしない彼への違和感が大きくなっていく

ゲストを水中の世界に案内するダイビングの仕事は責任が重く、人を頼るのが苦手になっていったそう。

――彼にはいつ妊娠を伝えたのでしょうか?そのときの反応は?

島田 ゴールデンウィーク明けに連絡したところ、とても喜んでいました。彼は「家庭」にとてもあこがれがあったんだと思います。一緒に子育てをするイメージがつかないけれど、これだけ喜んでくれるんだったら、大丈夫かもしれない・・・、と考えもしました。でも、新しい生活について話をすればするほど、違和感が大きくなっていきました。

――具体的に、どんな部分に違和感がありましたか?

島田 小さいことの積み重ねでしたが、寄り添ってくれる気持ちが感じられませんでした。最初に気になったのは、育休を取得する気がいっさいないことでした。「男が育休?取れるわけないじゃん」と、まったく理解できない様子でした。もちろん、会社によっては男性が育休を取るのは難しい場合もあるはずです。それでも有休取得を検討するなど、なにかしらの方法を考えてくれたらいいのにな・・・、と思ってしまいました。

また、しばらくは助けてくれる仲間がたくさんいる、私の地元で子育てをしたいという考えを伝えると産後も一緒に暮らすのではなく、別居と考えていたようです。「赤ちゃんが生まれたら、僕は会えるんだよね?」と聞いてくることもありました。会いたいときに会いに来て、気が向いたら育児を手伝うというようなつもりだったのでしょう。いくら話し合っても、自分のルーティンのライフスタイルを変えるつもりがない様子が伝わってきて「本当にこの人でいいのかな?」という疑問が消えなかったんです。「少し考える時間がほしい」と伝えたところ、1カ月くらい連絡がいっさいありませんでした。

養育費の請求も、認知の要求もせず、別れを決めることに

28週1日目のエコー写真。おなかの赤ちゃんは1000gを超えました。

――1カ月連絡を絶ったあと、どうなったのでしょうか?

島田 どう考えても彼と育児をするイメージができませんでした。「本当にこの人でいいのかな?」という感覚は「いいわけない」「絶対に無理だと思う」に変わっていきました。
子どもはほしかったし、子育てもしてみたいとずっと思っていました。子どもは私1人で育てようと決めました。

彼にLINEで「2人の未来が見えないです。養育費の請求はしないし、認知はしなくていいです。だから、このまま別れてください」と伝えると、「わかりました」とひと言だけ返ってきました。その後、話し合いもまったくなかったです。そのときの私は、もうシングルマザーになることを決意していて気持ちは揺らぎませんでした。
とはいえ、彼の反応はあっけなくて「本当にこれで終わり?」と拍子抜けしました。すでに私が1人で産み育てる決意を応援してくれる宣言をしてくれていた私の母や友人たちは、「自分の子どもを産む女性と別れるのに、どうしてそんなにそっけないの?」と、怒っていました。でも、私はいざこざがなく別れることができて、ほっとした部分もありました。

――その後、彼とは連絡を取っていますか?

島田 まったく取っていません。彼は「子どもの認知をしてもらわない」、「養育費を請求しない」という部分で納得したのかもしれません。今後も接点を持つつもりはありません。先ほども言ったように、彼と2人で過ごすのは楽しかったんです。でも、「家族」にはなれなかった。それぞれの方向性が違いすぎました。結局別れを選択することになりましたが、彼には彼の幸せを手にしてもらいたいです。

私は1人で子どもを育てることになります。この決断は間違っていなかったと思うし、不安のある相手や、気持ちのない相手と結婚することが「子どものため」になるわけではない、という考えもあると思うんです。1人で産み育てる選択肢や、さまざまな家族の形があっていいのではないかな?と感じています。もちろん、今後について不安はありますが、なぜか「きっと大丈夫」という確信があります。今、私は家族や友人など、支えてくれるたくさんの人がいます。周囲に感謝をしながら、子育てをしていけたらいいなと思っています。

お話・写真提供/島田渚さん 取材・文/齋田多恵、たまひよONLINE編集部

▼続きを読む<関連記事>後編

「調べてみると、シングルファミリーを応援してくれる民間団体もあるようです」と島田さんは話します。1人で抱えるのではなく、サポートについても調べている島田さんは、とても前向きでした。これからも前を向き、出産・育児に取り組んでいくに違いありません。

「たまひよ 家族を考える」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることを目指してさまざまな課題を取材し、発信していきます。

●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●記事の内容は2024年12月当時の情報であり、現在と異なる場合があります。

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