フリーアナ・久下真以子。車いすの夫との間に授かった小さい命。「妊娠を報告したとき、親は泣いて喜んでくれた」
2011年にパラスポーツと出会ってから、パラスポーツとパラアスリートの魅力を発信し続けているフリーアナウンサーの久下真以子さん。車いすラグビー選手の羽賀理之選手との間に、第1子となる男の子が誕生したのは2024年11月のことです。
久下さんへのインタビュー後編では、妊娠・出産をへて2カ月の赤ちゃんの母親としての子育て、そして障害をもちながら父親となった羽賀選手の子育てについて聞きました。
右卵巣摘出の妻と、胸から下にまひがある夫との間に授かった小さい命
――2024年7月に妊娠を公表した久下さん。妊娠がわかったとき、どのような気持ちでしたか?
久下さん(以下敬称略) 私たち夫婦は、検査をして妊娠機能に問題がないとわかり、体外受精にチャレンジしました。胚移植後にクリニックで妊娠判定をしたとき、「陽性反応が出ました」と言われて、しばらくは信じられず「私、妊娠した、妊娠した・・・」と繰り返しつぶやいていました。胎のうや心拍を確認するまで、赤ちゃんが本当にいるのか、今日も無事かどうか不安で、毎日のように妊娠検査薬でチェックして、そわそわしていました。
私は2020年に卵巣腫瘍が見つかり右卵巣を摘出しています。生殖機能には問題がないものの、手術した当時はショックで、将来妊娠できるかな、と不安で一晩泣きました。そんなこともあり、夫との赤ちゃんを妊娠できたことがとてもうれしかったです。
――夫の羽賀選手はどんな反応をしていましたか?
久下 夫に妊娠を報告したら、よほどうれしかったのか、早速「ごまちゃん」と胎児ネームをつけていました。私のおなかに向かって「ごまちゃん、おはよう」なんて毎日話しかけていました。
そのころ、ちょうど夫が車いすラグビーのプレイでスランプに陥っていた時期でした。「俺はパリパラに選ばれるのは無理かもしれない・・・」と自信をなくしていた夫に、私もなんて声をかけたらいいのかわかりませんでした。
そんなときに、おなかに赤ちゃんがいることがわかって。夫婦で「この子のために頑張ろう」と前向きになれましたし、夫の顔つきは「よし、やるぞ!」と気合が入ったように見えました。
――ほかの家族も喜んだのでは?
久下 私の父に電話で報告したら「本当か!本当か!」って何度も聞いて、喜んでくれました。それに、夫の両親もとても喜んでくれました。夫がLINEで「妊娠したよ」と報告したら電話がかかってきて、お義母さんは「孫が抱けるなんて」と泣いていました。
夫が交通事故で車いすの生活になってから、結婚も、子どもをもつことも無理かもしれないと思っていたそうです。
――妊娠中の様子はいかがでしたか?
久下 つわりによる吐きけはほとんど感じなかったんですが、私の場合は血圧が低く貧血がありました。仕事をしていると、さーっと血の気がひくような、立ちくらみやめまいを感じることが、妊娠中期くらいまでありました。
妊娠中に大変だったのは、後期に入ってからです。妊婦健診で毎回“おなかの赤ちゃんが大きい”と指摘されていていて、本当に苦しかったんです。立っていても座っていても息ぎれするほど苦しいから、できるだけソファに横になっていました。仕事も、横になったままスマホを使ってしていました。
無痛分娩と決めていたけれど、お産が進まず帝王切開に
――出産のときの状況について教えてください。
久下 私は39歳で高齢出産だったこともあり、医師と相談して予定日より少し早めの計画分娩にする予定でした。36週の健診で赤ちゃんが3200gを越えているとわかり、あまり大きいとリスクになるから、翌週の37週、11月中旬に出産することに。産後に早めに仕事復帰することを考えて、ダメージが少ない無痛分娩に決めました。
11月中旬、入院の前日に、子宮口を開くためのラミナリアという器具を子宮口に差し込んでいったん帰宅しました。そして、翌日の朝から入院し、さらに子宮口を開きやすくするためにラミナリアをバルーンに変更し、陣痛促進剤などを点滴しました。その陣痛促進剤を打ってからがめちゃくちゃに痛かったんですけど、痛みが15時間くらい続いてもなかなか子宮口が開かなかったんです。エンドレスに続く痛みが本当につらくて、夫に電話をかけて「つらい」と泣きました。先生にも「もうやめたい!」と叫ぶくらい、しんどかったです。
さらに翌日の明け方にも陣痛促進剤を点滴したけれど、お産が進まず、医師の判断で帝王切開分娩になりました。
――出産して、初めて赤ちゃんに会ってどんなことを感じましたか?
久下 それが、赤ちゃんを取り上げてもらって胸に抱いて感動〜! というよりは、「えっ、生まれたの!」と驚いた感じでした。・・・というのも、私はもともと麻酔が効きづらい体質なので、帝王切開中、すごく怖かったんです。医師はもちろん麻酔の効きを確かめながら進めてくれたのですが、やはり途中で痛みも感じてしまって。「先生、痛い!」と訴えて麻酔を追加してもらいました。痛みがおさまってからも、おなかをごそごそされている感覚もあって、怖くて怖くて。だから、赤ちゃんに会ったときも、感動する余裕がありませんでした。
しばらくして、無事に出産できてよかった〜と安心し、わが子に会えたことの幸せを感じました。
――羽賀選手は赤ちゃんに会ってどんな反応をしていましたか?
久下 出産当日、夫は手術室の外で待っていて、生まれてすぐに保育器に入った息子をガラス越しに見ていたそうです。ちゃんと抱っこしたのは翌日のこと。「かわいいな〜」ってメロメロな感じになるかと思いきや、「おれ、ちゃんとしなきゃ」と言ったのが印象的でした。急に親の責任感を感じたようです。
まひがある両手で、さまざま工夫をして赤ちゃんのお世話をする夫
――初めての子育てはいかがですか?
久下 息子は今生後2カ月で、とってもよく寝る子なので私もしっかり睡眠を取っています。ずっと泣き続けることもあまりなくて、今のところお世話自体にはそれほど大変さを感じていません。
それよりも母乳のトラブルがちょっと大変。右の乳頭に白斑ができてしまって痛いんです。助産師さんに相談したら「赤ちゃんに吸ってもらうしかない」と言われました。でも吸ってもらうのも、すごく痛くて痛くて。そういう小さいことが地味にストレスかもしれません。
赤ちゃんが生まれたらスムーズに母乳が出て、赤ちゃんが気持ちよく飲んで、というイメージがあったけれど、なかなかうまくはいかないものですね。
――パパの羽賀選手はどんなふうに育児にかかわっていますか?
久下 夫は、家事全般とミルク授乳とおむつ替えをやってくれます。夫は両手と胸から下にまひがあり、赤ちゃんを抱っこすることも難しいので、おむつ替えもできないだろうと思っていたんです。私がワンオペになるんじゃないかという不安を夫にぶつけたことがあるんですが、そうしたら「何ができないかじゃなくて、どうやったらできるかを考えよう」と言ってくれ、日々工夫しながらお世話してくれています。
たとえば、夫は授乳後に抱っこをしてげっぷを出させることはできないので、傾斜のつくベビーベッドに寝かせたままミルクをあげてみよう、とか。紙おむつのテープをつかむことはできないので、面ファスナーを利用してテープをとめる練習をするとか。障害があるので、おふろに入れたり、泣いたときに立って抱っこしたりすることはできないけれど、よく息子の面倒を見てくれるパパです。
――今後の子育てについて、夫婦で方針や分担など話し合っていますか?
久下 まだ2カ月なので、これからどんなふうに成長するんだろう、動き始めたらもっとずっと大変になるのかな、とまだ想像しきれないんですが・・・。夫は物理的にどうしてもできないお世話もありますし、私も仕事をしながら育児をこなすには限界も出てくると思います。そういうときは、親を頼ったり、ベビーシッターをお願いしたりして、いろんな人に協力してもらいながらなんとかしていこう、と話しています。
――2024年『生まれてくる子どもに金メダルをかける』という目標を掲げていた久下さん・羽賀選手夫婦ですが、達成してどんなお気持ちですか?
久下 金メダルを取れるかどうかもわからない、赤ちゃんが無事に生まれてくれるかどうかもわからないなかで、すごい目標を立ててしまいました(笑)。でも、息子が私たちのところに来てくれて、夫も車いすラグビーをさらに頑張る原動力になったと思いますし、息子もおなかで頑張って成長してくれて、私も頑張って出産しました。家族3人、初めての共同作業になったのかも知れません。3人ともよく頑張りました!
これから、夫と息子と一緒に笑いの絶えない家庭を築き、いろんな思い出を作っていきたいと思っています。
お話・写真提供/久下真以子さん 取材・文/早川奈緒子、たまひよONLINE編集部
「どうやったらできるか考えよう」と、夫婦で工夫しながら育児する様子が印象的でした。久下さんのオンライン取材の間も、隣の部屋で羽賀選手が赤ちゃんの面倒を見てくれていたそうです。
「たまひよ 家族を考える」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることを目指してさまざまな課題を取材し、発信していきます。
久下真以子さん(くげまいこ)
PROFILE
1985年生まれ。大阪府出身。同志社大学文学部卒。セント・フォース所属。08年に四国放送アナウンサー、10年からはNHK高知、13年からNHK札幌キャスターとして活躍し、フリーアナウンサーに。「日本一パラスポーツを語れる女子アナ」をキャッチコピーにパラスポーツの魅力を発信。2024年11月に第1子男児を出産。
●記事の内容は2025年2月当時の情報であり、現在と異なる場合があります。