血種が消えるまでの12週間!「絨毛膜下血腫」を抱えて挑んだ私の出産!
自分が28歳、上の娘が1歳半というタイミングで第2子を妊娠しました。ひと山もふた山も乗り越えた私の第2子出産体験についてお話しします。前回は、妊娠初期の私を恐怖に陥れた「絨毛膜下血腫(じゅうもうまくかけっしゅ)」というトラブルの発端についてお伝えしました。今回は、その入院生活から血腫の消失までをお話します。
おなかがぺたんこの妊婦、絶対安静の入院生活
妊娠9週目で起こった「絨毛膜下血腫」による大量出血。症状からみても、入院と絶対安静が必要だと医師に診断されました。そして、その日から20日間の入院生活に突入。絶対安静の意味は「トイレ以外は寝て過ごす」ということで、この苦痛は自分が味わったことがないものでした。
最初の1週間は、シャワーどころか髪を洗うことも叶わず、本当に1日中天井を見つめていました。点滴は24時間差しっぱなしで、子宮の収縮を抑える薬と感染予防の抗生物質を投与されていました。相棒となった点滴をガラガラと引っ張ってトイレに通うだけの日々。
唯一のうれしい時間は、毎朝赤ちゃんの心音を聞かせてもらえたメディカルチェックの時たけ。たった数秒で「無事生きている」と実感し、また1日を乗り切る糧になり、同室の妊婦さんたちもこの時間を楽しみにしているのがよくわかりました。
入院は健全な人間の精神を弱らせることがあると実感、でも私は「必要以上に深刻に悪いことばかり考えても仕方がない!」と思うように決めました。入院中は毎日のように赤ちゃんが生まれる声が聞こえ、「いつか私にも、この瞬間がきっと来るから頑張ろう」という励みになりました。
自宅安静生活へ「絨毛膜下血腫」いつまで?
20日間の入院生活の後、自分の希望していた退院が許可されました。しかし、子宮内の血腫は依然として大きいままなので、まだまだ安心できない状況。今後は「自宅安静」とし、「なるべく入院中と同じ生活をすること」との指示が出ていました。なんとか家に帰れるように医師にお願いしたのは、上の娘が限界だと感じていたからです。
私の入院で、幼い娘はある日突然、ママと会えなくなったのです。当然周囲の大人たちは娘の世話に追われてクタクタでした。私の実の母は、私の入院中、娘が精神不安定になるのでお見舞いには連れて行かないと決めていました。私も寂しかったですが、誰ひとり見舞いに来なくても、おなかの子と2人だからと思って頑張りました。
退院後は2週間、夫の実家で、生活面すべてをサポートしてもらいました。義母は食事、洗濯、娘の相手を一手に引き受けて大変だったと思います。何も言わずに、困っている私に手を差し伸べてくれた義母。いつか自分も恩返しがしたいと思いました。
絨毛膜下血腫の病状はというと、停滞期に入り、2~3日出血が止まったようになって安心するとまた、「ドバッ」と血が出て…を繰り返していました。その度に病院へ慌てて駆け込む日々。「これはいつまで続くのか?」という不安と、血腫の大きさが何週間も変わらない事への焦りで、とても辛かったです。
長かった辛い戦いにも終わりが…。血腫消失!
妊娠17週を迎えても血腫は相変わらず消えていませんでした。しかし良かったのは、胎盤が完成すると言われる16週を無事に迎えられたことでした。以前なら、急な出血があったら即受診と言われていたのが、「おなかの張りがなければ様子を見てよい」と言われるようになったのです。このことで、病状が安心できる方向へと進んでいる実感が持てた一方、エコーで赤ちゃんを見る機会が減ったのは残念でした。
夫の実家から自宅へ戻るとやはり安静を保てず、おなかが張っているような感覚もよくあって、不安がいつもつきまとっていました。
私の血腫消失は結局、妊娠21週5日の健診で確認できました。しかも同時に赤ちゃんの性別も分かり、実に晴ればれとした最高の気分でした。「絨毛膜下血腫」との12週間に及ぶ長い戦いについに終止符が打たれたのです。
次回は、「絨毛膜下血腫」を乗り越えた私の出産当日のお話を中心にお送りいたします。(次回へ続く)
[あしださき*プロフィール]
高校の担任からも「楽観的な性格」と評され、とにかく楽観思考の3児の母です。物事はあまり複雑に考えず、元気なわが子に会えればそれが安産だと思うタチ。主にママ業、時々在宅ライターを兼務中。
※この記事は個人の体験記です。記事に掲載の画像はイメージです。