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わが子が難病に。生きがいだった仕事を辞め、写真家そして任意団体代表へ。母親の人生と仕事を考える

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特集「たまひよ 家族を考える」では、妊娠・育児をとりまくさまざまな事象を、できるだけわかりやすくお届けし、少しでも子育てしやすい社会になるようなヒントを探したいと考えています。

子どもに病気や障害が見つかった時、親の人生も大きく変わります。病気の子どもと家族の会「ニモカカクラブ」の代表を務める和田芽衣さんは、以前は心理士として病院に勤務していました。一生仕事を続けていくつもりだったのが、長女の結希ちゃんが「結節性硬化症(けっせつせいこうかしょう)」と判明し、急きょ仕事を辞めざるを得なくなりました。しかし3年後、今度は結希ちゃんのために仕事を持たなければならず写真家に。そして病気の子どもと家族の会「ニモカカクラブ」を立ち上げました。
前回の記事「難病「結節性硬化症」のわが子の育児で直面した「孤独」と「区別」。あらゆる子どもが一緒に過ごせる場所を作りたい!」に引き続き、今回は和田さんが体験した葛藤と現実、その中で自分の道をどのように見つけたか、母親と仕事の関係などを聞きました。

監修/埼玉医科大学医学部小児科学教授 埼玉医科大学病院てんかんセンター長・山内秀雄先生

娘が病気に!仕事を短期間で決断する難しさとは

結節性硬化症(けっせつせいこうかしょう)とは、皮膚や神経系、腎臓、肺、骨などいろいろなところに良性の腫瘍ができ、さまざまな症状を引き起こす病気です。
症状はてんかん発作や、言葉や読み書きなどの発達に遅れが出る(知的発達症)、人とうまくコミュニケーションが取れず興味が極端に偏りこだわりがある(自閉スペクトラム症)、頭痛、お腹の痛み、血圧が高くなる、脈が乱れるなど、多岐にわたります。
どの症状が出るかは個人差が大きく、症状の程度も個人や年齢によって異なります。結節性硬化症と診断されたからといって必ず病状があらわれるとは限らず、何も問題なく一生を過ごせる場合もあります。

和田芽衣さんの第1子・結希ちゃん(現在10歳)は、生後9カ月の時、居眠りするようなコクンコクンと上半身を前後に揺らすタイプのてんかん発作(点頭てんかん)を起こし、その後の検査で結節性硬化症であることが判明しました。
勤務先の病院と復職の相談を始めたばかりだった和田さんは、突然、心理士の仕事を続けるか、辞めるか、休職するかの3択を迫られることになりました。しかも、育休が明けるまでの2カ月間で決断しなければなりませんでした。

「心理士は私の学生時代からの夢で、本当に大好きな仕事でした。子どもを育てながらずっとバリキャリでいくつもりだったので、どうしたら続けられるかいろいろな人に相談しました。
病院内の保育所に預けることも決まっていたので、病気のことを伝えたところ『うちでは無理です』と言われ、役所にも相談にいきました。でも、預かってくれるところは見つかりませんでした」(和田さん)

結希ちゃんの病気が判明する3カ月前に、実の母をがんで亡くした和田さんは、母親に頼ることもできませんでした。いろいろな所に掛け合い、断られ、いろいろな人の話を聞く中で、少しずつ仕事をあきらめていったそうです。

「上司からはありがたいことに、休職というアドバイスもいただきました。でも、子どもの病状もまだよくわからず、いつ復職できるかの見通しも立たない状況のまま、仕事のことが頭をちらつく中で娘の世話をすることは私には無理だと思いました。まだ28歳だった私には、そのキャパシティはありませんでした。
結局、思い切り後ろ髪を引かれながら、仕事を辞めることを決めました」(和田さん)

産休に入る前に担当していた患者さんに「また戻ってくるよ」と言っていたという和田さん。その約束も果たせないまま、泣きながら職場に挨拶をして回ったと言います。

「子どもの病気は辛いけれど、誰のせいでもなく仕方のないことです。私も『よし、来い!』と受け止めていました。
でも、仕事は話が別でした。復職したら病気の子どもの退院後支援をやりたいと思っていたんですが、それもできずに辞めるのは辛かった。今までやってきたことが突然断ち切られて失くなるのは、本当に辛いことです」(和田さん)

娘を他の子どもと一緒の環境へ。その思いから再び仕事を

病名が確定した日、夫婦で涙を……。

引っ越してきたばかりで誰も知り合いがいない中、仕事も辞め、家の中でひたすら結希ちゃんの病気と向き合う生活は、孤独で不安で身体的にも辛く、「地獄のようだった」と和田さんは振り返ります。そんな中、心の支えになったのが中学からの趣味である写真でした。

「ある時、医師から『てんかんの発作が悪化した場合、発達の後退と言って、今日できていたことができなくなる場合がある』と告げられたんです。
今日笑っていても明日には笑えなくなるかもしれないなんて、なんて残酷な病気かと思いました。今、娘の笑顔を撮っておかなきゃ!と思い、それから毎日、スマホではなく一眼レフカメラで結希を撮るようになりました」(和田さん)

「自分の心が動いた時にはとにかくシャッターを切っていた」と言う和田さん。カメラのレンズを通すことで、悲しみ、イライラ、怒りなど、込み上げてくる感情が爆発するのを押さえていたそうです。

そうして結希ちゃんが3歳になった頃、良い薬が開発され、病状も安定してきました。そこで和田さんは、結希ちゃんを他の子どもと関われる環境の中で育てたいと考え、幼稚園に相談したそうです。
しかし、通える範囲にある幼稚園全てから断られる結果に。「てんかんの症状がある子どもには付き添いが必要で、人員配置上それをする余裕がない」というのが理由でした。

「あとは保育園しかありませんが、保育園は共働きじゃないと申し込むことすらできません。あんなに辛い思いをして仕事を辞めたのに、今度は仕事をしてなきゃダメだなんて……すごく理不尽を感じました」(和田さん)

悩んだ末、家でできる仕事ならと「写真家業」の開業を決意。保育園に申し込むことができました。その結果、障害の診断を受けた子どもを対象に配置される保育士の制度「保育士の加配」を活用し、介助の保育士付きで保育所に入ることができたそうです。

その後、ある出来事をきっかけに、本格的にプロの写真家として活動することを決意した和田さん。その出来事とは、病気の子どもを育てる友人の入院でした。

仲間の精神科入院。親が追い詰められる現実にショック

「ニモカカクラブを立ち上げてから少ししたある時、持病のある子を育てている友人から、『もうあまりにもしんどいから死のうと思う』という連絡が来たんです。
当時は病気の子どもを支える場やシステムが乏しく、親が1人で頑張るしかありませんでした。どんなに悲鳴をあげて役所や病院に駆け込んでも、受け皿はありませんでした。友人は毎日頑張り続け、糸が切れてしまったんです」(和田さん)

家族が頑張るしかない状況が、長く続いていたために起こったことでした。連絡を受けた時、「まさか」ではなく、「ついにこの日が来てしまったか」と思ったと言う和田さん。すぐにいろいろなところに連絡し、命に別条はありませんでしたが、親がそこまで追い詰められてしまう現実に大きなショックを受けたそうです。

「子どもが病気になった時、辛い思いをしながらも上手に気持ちを切り替えていける親御さんも多いでしょう。けれど、中にはさまざまな事情で、とてもしんどい思いをして向き合っている人もいます。そういう人を居ないことにしてはならない、これを発信しなきゃいけない、伝えていかなきゃいけないという使命感を、この時とても強く感じました」(和田さん)

そしてプロの写真家に師事して本格的に写真を勉強。2016年、結希ちゃんの写真を「名取洋之助写真賞」に応募し、見事、激励賞を受賞。2018年には写真集「わたしと娘」も出版しました。

「今も子ども達の写真は撮り続けていますが、その他、各地の基礎疾患や障害がある方とそのご家族の写真も撮らせていただいています。病気や障害の現状や将来のことなど、いろいろなお話もさせていただきながら。
今後も写真を通して、自分のペースで発信を続けていきたいと思っています」(和田さん)

母親の仕事と「子どもの親なきあと問題」

小学校の下駄箱にて。登校時、上履きを出している結希ちゃん。

現在、結希ちゃんは10歳となり、元気に地元の小学校の特別支援学級に通っています。小学2年生で名前を書けるようになり、3年生で50音が書けるように。今では声を出して絵本を読めるようにもなったそうです。

「クラスメートや上級生がサポートしてくれたり、お祭りで『結希ちゃん』と声をかけられたりすることも増えました。地元の学校にいる楽しさや心強さを感じています」(和田さん)

しかし、今でも心理士を辞めたことに対する気持ちの整理はついておらず、揺れ動くことがあると和田さんは言います。

「すごくやりたい仕事だったのもありますが、結希が成長したことも大きな理由です。
知的障害のある子を持つ親にとって、自分が先に亡くなったらこの子はどうするのだろうという『子どもの親なきあと問題』は深刻です。それには親の経済力もとても重要なポイントです。
あの時仕事を辞めず、常勤で病院に勤め続けていたら、フリーランスの写真家よりも経済的には有利だったでしょう。親が仕事を辞めるということは、経済的な不利にもなるんです」(和田さん)

心理士は、和田さんが辞職した後に国家資格となり、辞職した和田さんは受験資格がありません。これから和田さんが心理士として復職することは、ほぼ不可能とのこと。

「これも運命で仕方ないですし、今は新たな道を楽しんでいます。ただ、知的障害かつ病気がある子どもの親としては、あの頃に別の選択が可能だったらと、残念に思う気持ちもあります。
だからこそ、病気の子どもを育てるお母さんの中で、今仕事を辞めるかどうか悩んでいる方、これからそういう可能性があるかもしれない方がいたら、もう少し様子を見て、冷静にライフプランを考えた方がいいと伝えたいです。子どもの病名告知と合わせて、家族のライフプランについて相談に乗ってくれる人が病院にいたら良かったなとも思います」(和田さん)

子どもへの思いとは別に、「子育てにかかる費用」は現実問題として大きくのしかかります。現在は子どもに病気や障害があると、多くの場合、経済的に不利な状況に置かれます。母親の仕事を考える時、その側面からも捉えることが必要だと和田さんは言います。
「そのためにも、仕事をどうするか、家庭に入るのか休職するのか継続するのかという『選択』と、その『相談』ができるシステムが必要だと思います」(和田さん)

【医師からひと言】
結節性硬化症の症状、程度、そして発症時期はとてもさまざまなので、それぞれの専門の先生に診ていただく必要があり、大学病院など大きな病院ではさまざまな診療科による結節性硬化症診療チームを作って包括的な診療を行うようになりました。最近では「mTOR阻害薬」という治療薬があり、心臓・脳・腎臓・皮膚などにできた腫瘍が縮小するなど、さまざまな症状に対する効果が期待できます。
また、体がピクっとするといったてんかん(点頭てんかん)を合併することが多いのですが、最近ではとてもよく効く薬も使えるようになり、結希ちゃんにはこの薬がとても効果がありました。

写真提供/和田芽衣 取材・文/かきの木のりみ

「結節性硬化症のように一生付き合っていくような疾患の場合ほど、経済的なことも含めてライフプランをよく考える必要がある」と和田さん。しかし、子どもの病気や障害を知って混乱している夫婦2人でそれを考えるのは、なかなか厳しいものです。医師だけでなくファイナンシャルプランナーなど、専門家の意見を聞いてみることも必要です。

和田芽衣さん

ニモカカクラブ代表、写真家
北里大学大学院で医療心理学の修士課程を修了後、大学病院でがん専門の心理士として患者や家族、遺族のケアに4年間従事。
2011年、長女の難病・結節性硬化症がわかり仕事を辞め、2014年、写真事務所を開業。
2015年に「ニモカカクラブ」を立ち上げる。同年、写真を本格的に学ぶため、ドキュメンタリー写真家・佐藤秀明氏に師事。
2016年12月、「名取洋之助写真賞」に応募した「娘(病)」とともに生きていく」で、激励賞を受賞。2018年6月には写真集『わたしと娘』を出版。
現在は写真事務所を運営しながら、団体活動を並行して行なっている。10歳、8歳、5歳の3人の娘の母。
ニモカカクラブFacebook:nimokakaclub
ニモカカクラブTwitter:nimokakaclub

※記事の内容は記事執筆当時の情報であり、現在と異なる場合があります。

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