「私無理かも…」妊娠8カ月で胎児が水頭症と診断、0歳でウエスト症候群・全盲を告知されながらも必死に向き合った母と息子の13年間【重心児育児体験談】
山下祐子さんは、重度心身障がい児の息子・そう君(13歳)と夫の3人家族。そう君は自閉症・全盲・ウエスト症候群・出血後水頭症と診断されています。祐子さんは障がい児を持つママ・パパにもしものことがあったときのための『いざというときリスト』や『サポートブック』を制作、地元・佐賀では障がい児を育てるママや家族のためのサークル『ケアマミ』を運営しています。
全2回のインタビューの1回目は、そう君を妊娠・出産したときのこと、水頭症やウエスト症候群・全盲を告知されたときのこと、育児中大変だったことを聞きました。
「私に子宮奇形があったせいだ……」おなかの中で水頭症と診断
祐子さんは2009年に結婚、2010年10月にそう君を出産。現在そう君は13歳で特別支援学校中学部1年生です。
――そう君を妊娠したときのことを教えてください。
山下祐子さん(以下敬称略):結婚してすぐ1人目の子の妊娠がわかりましたが、そのときに私の子宮奇形が発覚して管理入院していました。しかし、定期健診で心拍が聴こえなくなり妊娠15週で死産になってしまいました。死産した子には特に異常はなかったようで原因は不明、卵管が詰まっていないか卵管造影もしましたが問題はありませんでした。
それから半年ほどでそう君を妊娠しましたが、妊娠7カ月のときに少量の出血があったのでまた管理入院することになりました。そして、妊娠8カ月(妊娠29週)の定期健診のエコーで「頭の部分のエコーが長いなぁ」と思っていたら、次の週に産婦人科の先生たちに囲まれて、そう君に頭蓋内出血があり“水頭症”であることを告知されました。
――妊娠8カ月で赤ちゃんが“水頭症”と診断されたときの気持ちを教えてください。
山下祐子: 1人目が15週でおなかの中で亡くなってしまい、2人目のそう君は出産まであと10週になって、周りと「順調だね」と話していたところだったのでものすごくショックでした。水頭症を告知されたとき、最初は「私に子宮奇形があったせいだ……」と思ってしまいました。医師からは「生きて生まれて来られるか分からない」と言われ、おなかの中で亡くなってしまう可能性があったので、MFICU(母体胎児集中治療室)に移動して毎日エコー検査をしていました。
水頭症のことをいっぱいネットで調べて「私かわいいと思えるのかな」「私無理かも」「怖い」と顔を見る直前まで不安な気持ちでいっぱいでした。告知を受けてから私のメンタルはかなり落ち込んでしまい、生まれるまでの3カ月間は眠れなくなって病室にこもりっきりになってしまいました。そんなとき、私の母や夫が毎日お見舞いにきてくれてとても支えられました。夫は昔から無口で、妊娠30週の告知のときも冷静でした。夫は泣きじゃくる私の肩をポンポンと叩いて「自分たちの子どもだから愛情をいっぱい持って育てよう」と言ってくれて心強かったです。
そして妊娠38週、大勢のお医者さんと看護師さんに囲まれ、救急車も待機する高い緊張感の中、予定帝王切開でそう君が生まれました。
帝王切開だったため、私は産後3日目までそう君に会うことができませんでしたが、夫に「そう君の写真を撮って来て」とお願いして見せてもらいました。あまりのかわいさにびっくりして産前の不安な気持ちが吹き飛んでいました。帝王切開の日に手術室の前で待っていてくれた母・父・義母・義父たちも、そう君を見て「かわいい!」と言ってくれたことがとても嬉しかったです。
「薬で治ると思っていた」難病指定のてんかん発作“ウエスト症候群”と診断
――産後育児で大変だったことはなんですか?
山下祐子:そう君はNICU、GCUに20日ほど入院した後、私の実家で1年ほど過ごしました。生後3カ月ごろ、初めてのてんかん発作がありました。その前から吐き戻しがあったので「おかしいな」と思い、小児神経の専門病院を紹介してもらい脳波検査をした結果、“てんかん”という診断を受け、その2カ月後に“ウエスト症候群”(※)という診断を受けました。
※ウエスト症候群は別名「点頭(てんとう)てんかん」とも呼ばれる、国が指定する難病のひとつで、生後3〜11カ月の時に発症します。【出典:難病情報センター「ウエスト症候群(指定難病145)】
当時の私は水頭症の子にてんかん発作が多いということを知らなくて驚きました。なので最初はてんかんだと気づかず「水頭症が悪化したのでは?」「水頭症の手術をしなきゃならないかも」と、水頭症のことばかり気にかけていました。
私は知的障がい者の入所施設で働いていたこともあったのでてんかんのことは知っていましたが、その施設では服薬でコントロールができる方が多かったので“治せるもの”だと思っていたんです。しかし、そう君のてんかんは発作の抑制が難しいタイプでした。
赤ちゃんの頃は1日20回、1回25分ぐらいのてんかんが続き、そのたびにミルクを戻していました。発作の前は脳波が乱れて頭をかいたり、すごく泣くんです。それをずっと見ているのが辛かったので、実家にいたときはそう君から離れて別の部屋に行かせてもらいひとりで泣くこともありました。
夜中も発作でビクッとするのがわかるようにいつも手を繋いで寝ていました。あまりに泣くときは添い乳しながら寝ることも多かったので、夜はあまり眠れていませんでした。
現在、発作は1日3回ぐらいになりました。赤ちゃんの頃の発作とは違い、バンと両手が開き、顔が左を向いて辛そうな状態が15秒ぐらい続く、短いけれど大きな発作になりました。そう君の場合、発作のとき親にできることはないのでひたすら見守っています。
全盲の息子の昼夜逆転。深夜ドライブでメンタル限界の日々
――生後9カ月で全盲の告知を受けたそう君。そのときの祐子さんの気持ちを教えてください。
山下祐子:生まれてすぐのときから眼振がひどくて、他の子とは違うと思っていました。黒目が見えなくなるほど目が上下を向いてしまうので「これはなんだろう」「水頭症の子にはよくある症状なのかな」と思っていました。
目線が全然合わないし、光を当てたりしても反応しないので、通っていた病院に視力の検査がしたいと伝えて、脳波を使った視力検査をしたら「99.9%見えない」と言われました。目が見えないということは薄々気づいていたので、告知されたときは「ああ、やっぱり…」という気持ちでした。義理の母が毎回病院に付き添ってくれて、告知も一緒に聞いてくれました。ものすごく優しく接してもらって気持ちが救われました。
――度重なるつらい告知を受けながらも、家族の協力を得ながらそう君と向き合ってきた祐子さん。そんな祐子さんが“暗黒期”と呼ぶ時期がありました。
山下祐子:5歳から8歳の間がそう君と私の暗黒期でした。そう君は目が見えないので夜も全く寝なくて、毎日昼夜逆転、1時間寝て2時間起きるような生活が続いていました。夜中でも大きな声で激しく何時間も泣いて、他の子を起こしてしまうためショートステイにも預けることができませんでした。右手の甲を噛むという自傷もあり、今も噛みだこが残っているほどです。
強い薬を飲んでも眠らず、ご近所迷惑になるので、2歳ごろから小学校5年生ぐらいまでほぼ毎日、夜中にドライブに行っていました。当時三交代勤務をしていた夫と協力して、夫が帰ってきたらドライブを交代して、私が3時間ぐらい寝て、朝になったら療育(母子通園)に行くという生活をしていたので精神的にとてもつらかったです。
重症心身障がい育児「私には無理かも」と思っていたけれど…
――妊娠中に診断を受けてから今の状況を受け入れるまで、祐子さん自身の葛藤などがあれば教えてください。
山下祐子:妊娠中にそう君の障がいがわかったとき、知人に「残念だったね」と言われました。「ああ、残念だったんだ…」と複雑な心境になったことを思い出します。もちろん、知人は必死に励まそうとして悪気はなかったんだと思います。
私は、もともと知的障がいの方の純粋さに惹かれて知的障がい者の施設に勤めていたんですが、重症心身障がい者の方には接したことがなかったので、生まれる前にネットで重症心身障がい児をバギーで押している親の姿を見て、正直なところ「私には無理かも」と思ってしまったことも事実です。
けれども今は、生まれたときから病気や障がいと戦っている子がこんなにたくさんいるということを知ることができて、「こんなに頑張っている子たちをのことをもっとたくさんの人に知って欲しい」という想いが強くなりました。
そう君が眠れるようになって、私自身も育児が楽しめるようになりました。年々そう君のイライラが軽減されてきているように感じるので、それとともに私のメンタルも落ち着いてきています。自分の心が整っていないと、子どもにも優しくできないなぁとひしひし感じています。
お話・写真提供/山下祐子さん 取材・文/清川優美、たまひよONLINE編集部
そう君がおなかの中にいるときに水頭症を告知された祐子さん。生まれるまでの数カ月はショックのあまり眠れない夜を過ごしていましたが、生まれてきたそう君の顔を見たらそれまでの不安が一気に吹き飛んだと話してくれました。
ウエスト症候群や全盲の告知、5歳〜8歳の激しいパニックを家族に支えられながら乗り越え、最近は比較的穏やかに過ごせるようになってきたようです。
次回2回目のインタビューでは、そう君の日々の暮らしや、そう君の成長、祐子さんが行っている活動について聞きました。
「たまひよ 家族を考える」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることをめざしてさまざまな課題を取材し、発信していきます。